第8話「数字の裏側」
羽根ペンを走らせる音だけが、書斎に満ちていた。
夜。燭台の灯りが机の上を照らしている。父の書斎を借りた。自室の机では、広げた書類が収まりきらなかったからだ。
昨日の夕刻、帝国大使館の使者が届けてきた通商条約の写し。紺色の蝋封が施された帝国の正式な外交文書の複製だった。添えられた書簡の一行は、もう覚えている。「これを読めるのは、俺が知る限り君だけだ」。
条約の本文は三十二条。付則が十一項。署名は前皇帝ルーヴェンの父と、条約相手国であるヴェルデン連邦の代表。締結は十四年前。ルーヴェンが十一歳の時だ。
一条ずつ読んだ。
三条目で、眉が寄った。 七条目で、ペンを取った。 十二条目で、紙の余白に計算を書き始めた。 十八条目で、手が止まった。
七カ所。
条約の中に、帝国に著しく不利な条項が七カ所ある。
一つ目。関税の非対称。帝国からヴェルデンへの輸出品には一律一割五分の関税がかかるが、ヴェルデンから帝国への輸入品は五分。差が三倍。
二つ目。港湾使用料の固定。帝国の港をヴェルデンの商船が使用する際の料金が、十四年前の水準で固定されている。物価は上がっているのに、使用料は据え置き。実質的な値引きが毎年拡大している。
三つ目。鉱物資源の優先交渉権。帝国領内で産出される鉄鉱石について、ヴェルデンが優先的に購入できる条項。価格は「市場価格の九割」と定められているが、市場価格の算定方法が曖昧で、実態としてはヴェルデン側が有利な価格を提示し続けている。
四つ目以降も、同様の構造だった。一見すると対等に見えるが、実行段階で帝国側が損をする仕組みになっている。
これが、帝国の慢性的な財政難の根幹だ。
応接間でルーヴェンに指摘した三つの問題——交易税の実質低下、軍事費の利払い圧迫、資産売却による帳尻合わせ——は、すべてこの条約から派生している。
交易税が減るのは、不利な関税のせいで帝国の輸出が伸びないから。軍事費が膨らむのは、条約で不利な立場に置かれた帝国が軍備で交渉力を補おうとしたから。資産売却は、その軍事費の借入金を返すための応急処置。
根を断たなければ、枝をいくら刈っても同じだ。
ペンを置いた。
報告書をまとめる。条約の七カ所の不利条項を列挙し、それぞれが帝国財政に与えている影響を数字で示す。改善案の骨子も添える。
手が動き始めた。前世の知識が、ようやく本来の使い方で機能している。
婚約相手の家の帳簿を覗き見て、嫌われるための指摘をする。十五回繰り返してきた、小さな仕事。
今やっていることは、それとは規模が違う。一国の財政構造を分析し、改善案を組み立てる。前世の経営コンサルタントとしての仕事に、最も近い。
ペンが止まった。
報告書を書く手が、止まった。
この分析が正しければ、帝国は本気で私を必要とする。半年の期限付き婚約など、短すぎるということになる。条約の改定交渉だけでも年単位の仕事だ。
半年で終わらせて破棄する。そう決めたはずだった。ルーヴェンに「半年後に決めろ」と言われて、曖昧にしてしまったが、私の中では終わらせるつもりだった。
この報告書を提出すれば、終わらせることが難しくなる。
処刑フラグ。
帝国の皇帝はリヴェーゼ王国の王族ではない。ゲームの舞台の外にある。婚約であって婚姻ではない。理屈の上では、処刑フラグに該当しない。
理屈の上では。
攻略サイトの情報は不完全だ。それは分かっている。だが、不完全だからこそ怖い。書かれていない条件があるかもしれない。帝国の皇帝が処刑フラグの対象外だという保証は、どこにもない。
ペンを見つめた。
インクが乾きかけている。
目の前の数字を思い出した。関税の非対称。港湾使用料の固定。鉱物資源の優先交渉権。七カ所の不利条項。
この数字の歪みを、知っていて黙っていることができるか。
できない。
それが答えだった。十二歳の時からずっとそうだ。目の前の帳簿に間違いがあれば、指摘せずにはいられない。嫌われるためにやっていると思い込んでいたが、カイルの言葉が耳に残っていた。「内容はいつも正しい」。
嫌われるためではなく、正しいから言ってしまう。それが私の性分だ。
ペンにインクをつけ直した。
報告書の続きを書いた。七カ所の不利条項、それぞれの財政への影響額、改定した場合の試算、改定交渉に必要な期間の概算。
書き終わった時、燭台の蝋燭が半分になっていた。
翌日。午後。応接間。
ルーヴェンとの五度目の面談だった。初対面から数えて、帳簿を挟んで向かい合うのも五度目になる。
報告書を手渡した。テーブルの上に置くのではなく、直接手に渡した。自分でもなぜそうしたのか分からない。ただ、テーブルに置いて読んでもらうのではなく、この人の手に届けたかった。
ルーヴェンは受け取り、一頁目から読み始めた。
沈黙が続いた。
私は向かいの椅子に座り、待った。ルーヴェンの表情を観察していた。眉の動き、目の焦点、頁をめくる指の速度。
一頁目。表情の変化なし。 二頁目。眉が僅かに寄る。 三頁目。頁をめくる速度が落ちる。 四頁目。指が止まった。
「七カ所か」
低い声だった。
「はい。いずれも条約の文面上は対等に見えますが、実行段階で帝国に不利に作用する構造になっています」
「実行段階で、か」
ルーヴェンは四頁目の数字を指で辿った。
「俺の財務官たちは、条約の文面が対等だから問題ないと言い続けていた。文面ではなく実行を見ろということか」
「帳簿は文面ではなく結果を記録します。結果が不利なら、文面がどうであれ、条約は不利です」
ルーヴェンが顔を上げた。
目が合った。
その目に、今まで見たことのない色があった。怒りではない。安堵でもない。もっと深い、名前のつかない感情だった。
「六年間」
声が、僅かに震えていた。
「六年間、これを解ける人間を探していた」
ペンを置いた時の、あの迷いが嘘のように消えた。
この人は困っているのだ。
皇帝という、誰よりも高い場所にいて、誰にも弱みを見せられない立場にいて、六年間一人で、解けない問題を抱え続けていた。
十五回の婚約相手は、それぞれに事情があった。怒った人もいた。困惑した人もいた。無関心な人もいた。カイルのように黙って聞いてくれた人もいた。
でも、誰一人として、私の指摘を「六年間探していた答え」だとは言わなかった。
「改善案の骨子も添えてあります。五頁目以降です」
声が平静であることを確認して、続けた。
「ただし、条約の改定には相手国との交渉が必要です。帝国側の準備だけでも半年はかかります。改定交渉そのものは、さらに長い」
「半年で足りないな」
「はい」
「君が設定した期限は半年だ」
分かっている。分かっていて、この報告書を書いた。
「半年で報告書を残すと言ったのは私です。私がいなくても実行できる形にすると」
「それも覚えている」
ルーヴェンが報告書をテーブルに置いた。丁寧に、端を揃えて。
「だが、俺が言ったことも覚えているな」
「君がいなくても回る仕組みを作ってほしいとは言っていない」。あの言葉だ。
「覚えています」
「なら、今は期限の話はしない」
ルーヴェンは立ち上がった。
「この報告書は帝国に持ち帰る。財務官に回す前に、俺が全文を読む。不明点があれば書簡で問い合わせる」
事務的な声。だが、報告書を持つ手に力が入っていた。
「クランメール嬢」
「はい」
「帝国への渡航準備は進んでいるか」
「はい。父が通行証と船の手配を進めてくれています」
「そうか」
ルーヴェンは扉に向かった。護衛の気配が廊下に動いた。
扉の前で、足が止まった。振り返らなかった。
「六年分の礼を、いずれ形にする。今はまだ、形にできるものがないが」
背中が語っていた。皇帝としてではなく、六年間一人で帳簿と格闘してきた一人の人間として。
「お気になさらず。帳簿を読むのは、私の性分ですから」
ルーヴェンの肩が、ほんの少しだけ揺れた。笑ったのかもしれない。分からなかった。
扉が閉まった。
応接間に一人残された。
テーブルの上には何もない。報告書はルーヴェンが持ち帰った。カイルの紹介状は自室の机の中にある。
手元に残っているのは、通商条約の写しだけだ。帝国大使館の使者が届けてきた、紺色の蝋封の文書。
それを鞄にしまいながら、考えた。
この報告書を書いたのは、嫌われるためではなかった。逃げるためでもなかった。
目の前の数字が歪んでいたから、正した。この人が困っていたから、答えを出した。
初めてだった。
十五回の婚約で、一度もなかった感覚。「この人のために」という理由で帳簿を読んだのは、初めてだった。
その事実が、処刑フラグよりもずっと、怖かった。
書斎を出て、廊下を歩いた。自室に向かう途中で、マルグリット叔母様の部屋の前を通った。扉の隙間から灯りが漏れている。まだ起きているのだろう。
声をかけようとして、やめた。
今の気持ちを、言葉にできる気がしなかった。
自室に戻り、寝台に腰を下ろした。
窓の外は暗い。星が出ている。
来月、帝国に渡る。半年の期限付き婚約者として。
その半年で、何が変わるのだろう。
帳簿の頁は、まだ白紙のままだ。




