第7話「繁盛の代償」
「フェリシア様。お久しぶりです」
カイル・ロンバルトの声は、記憶の中と変わらなかった。穏やかで、少しだけ遠慮がちな響き。
公爵邸の応接間。ルーヴェンとの面談に使っていたのと同じ部屋だった。ただし今日はテーブルの上に帳簿はない。代わりに、白い封筒が一通置かれていた。カイルが持参したものだ。
「お久しぶりです、ロンバルト様。わざわざお越しいただきありがとうございます」
立ち上がって迎え、向かいの席を勧めた。カイルは軽く頭を下げてから腰を下ろした。侯爵家の嫡男が公爵令嬢に対して頭を下げる。身分上は私が上位だが、カイルの礼儀正しさはいつもこうだった。
婚約を破棄してから、一ヶ月と少し。十五回目の元婚約者。
「書簡でもよかったのですが、直接お話ししたいことがありまして」
カイルは背筋を伸ばして座っていた。緊張している。指先がテーブルの縁に触れては離れてを繰り返している。
「何でしょう」
「まず、お礼を申し上げたくて参りました」
予想していた言葉だった。
「婚約期間中にご指摘いただいた輪作の順序変更ですが、先月の収穫で結果が出ました。収穫高が前年の二倍です」
二倍。想定通りだ。ロンバルト領の土壌と気候であれば、豆類と麦の輪作順序を入れ替えるだけで窒素固定の効率が上がる。前世の農学の基礎知識にすぎない。
「それは何よりです。ロンバルト家の農地が元々良い土壌だったからでしょう」
「いいえ。フェリシア様のご助言がなければ、僕はあのまま父の代からの順序を変えようとはしなかったと思います」
カイルの目が真っ直ぐにこちらを向いていた。この人は嘘をつけない顔をしている。婚約期間中もそうだった。私が辛辣な指摘をするたびに、怒るのではなく、困ったように眉を下げて、それでも最後まで聞いていた。
だから余計に、婚約を破棄するのが心苦しかった。
「お礼だけではないのですね」
「はい」
カイルの表情が変わった。穏やかさの奥に、真剣な色が混じった。
「もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
テーブルの上の封筒に手を伸ばしかけて、やめた。代わりに、私の目を見て話し始めた。
「ヘルマン伯爵家のことです」
八回目の婚約相手。ヘルマン伯爵家の嫡男。
その名前を聞いた瞬間、胃の奥が僅かに重くなった。
「ヘルマン家が傾いています」
「傾いている、というのは」
「事業が悪化しています。鉱山の採掘量が落ち、取引先の商会からの信用も下がっているそうです。侯爵家の商人づてに聞いた話ですが、かなり深刻だと」
ヘルマン伯爵家。私が婚約した十五家の中で、唯一、指摘を聞かなかった家。
いや、聞かなかったのではない。嘲笑した。
婚約期間中、私はいつも通り帳簿の問題点を指摘した。鉱山の採掘計画が短期利益に偏りすぎていること。排水路の整備を怠れば三年以内に坑道が使えなくなること。取引先との契約条件が一方的に不利であること。
ヘルマン家の嫡男は、晩餐の席で笑った。
「女が帳簿を語るのは滑稽だな」
その場にいた家臣たちも笑った。私は黙って食事を続け、翌週、婚約破棄の書類を提出した。嫌われるまでもなかった。最初から、聞く気がなかった。
「フェリシア様の助言を実行した家と、実行しなかった家で、差がはっきり出ています」
カイルの声が静かだった。
「ロンバルト家は収穫が二倍になりました。ヴァルトシュタイン家は木材取引が三割増。ベルクハイム家は帳簿の二重管理を正して利益率が回復した。でも、ヘルマン家だけは何も変わらなかった。いえ、変わらなかったのではなく、悪くなった」
指が、膝の上で止まった。
「それは、私の責任ではありません」
声が硬くなった。自分でも分かった。
「もちろんです。フェリシア様のせいではありません。ただ、お伝えしておくべきだと思いました」
カイルは慌てたように首を振った。
「僕が言いたいのは、フェリシア様の助言がどれだけ正確だったか、ということです。聞いた家は栄え、聞かなかった家は傾いた。それが十五家分の結果です」
十五家分の結果。
ルーヴェンと同じことを言っている。あの人は「十五家分の実績」と呼んだ。カイルは「十五家分の結果」と呼ぶ。
同じ数字を、二人の男が、別々の場所から見ている。
「ロンバルト様」
「はい」
「なぜ、わざわざこれを伝えに来てくださったのですか。書簡でも十分な内容です」
カイルは一瞬、口ごもった。指がまたテーブルの縁に触れた。
「帝国との縁談のことを聞きました」
社交界の噂は速い。ルーヴェンが公爵邸を訪れていることは、もう広まっているのだろう。
「僕にできることがあれば、何でもおっしゃってください」
「できること、とは」
「ロンバルト侯爵家は農業だけでなく、穀物の取引で帝国との商路を持っています。帝国に渡航されるのであれば、商会への紹介状をお書きできます。帝国内での生活の基盤として、多少はお役に立てるかと」
驚いた。
婚約を破棄した相手が、次の縁談の手助けを申し出ている。普通であれば、恨まれてもおかしくない。少なくとも距離を置かれるのが自然だ。
「なぜ」
言葉が短くなった。驚きが、敬語の形を崩しかけた。
カイルは困ったように眉を下げた。婚約期間中に何度も見た表情だった。
「フェリシア様に叱られた五ヶ月間で、ロンバルト家は変わりました。僕自身も変わりました。それまでの僕は、父の言う通りに畑を耕していただけです。なぜその順序なのか、なぜその作物なのか、考えたこともなかった」
声が少し震えた。
「フェリシア様が怒って——いえ、ご指摘くださって、初めて自分の頭で考えました。今のロンバルト家があるのは、あの五ヶ月のおかげです。だから、恩を返したい。それだけです」
恩。
嫌われるためにやったことを、恩だと呼ぶ人がいる。
「ロンバルト様。私はあの時、あなたに嫌われようとしていたのです」
口にするつもりはなかった。だが、出てしまった。
カイルは目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。
「知っています」
「知って——」
「婚約して三日目で気づきました。フェリシア様は、わざと嫌なことを言っている。でも、言っている内容はいつも正しい。だから僕は、嫌われていることは分かった上で、内容だけを聞くことにしました」
言葉が出なかった。
「変な婚約者でしたよね、僕は」
カイルは苦笑した。
「嫌われているのに破棄を切り出さない婚約者なんて。でも、フェリシア様の小言を聞いている五ヶ月間が、僕にとっては一番勉強になった時間でした」
胸の奥が痛んだ。痛みの種類が分からなかった。申し訳なさなのか、戸惑いなのか、それとも別の何かなのか。
「……ありがとうございます、ロンバルト様。紹介状のお申し出、ありがたくお受けします」
カイルの顔が明るくなった。
「本当ですか。では、帝国の穀物取引所と、王都の商会にも声をかけておきます。フェリシア様が帝国で困ることがないように」
「そこまでしていただかなくても」
「させてください。五ヶ月分の恩を、まだ全然返せていないので」
カイルは立ち上がり、深く一礼した。
「フェリシア様。帝国でも、どうかご無事で」
応接間を出ていくカイルの背中を見送った。
扉が閉まった後、一人残された部屋で、テーブルの上の封筒を手に取った。封を開けると、中には穀物取引所への紹介状の下書きが入っていた。面談の前から用意していたのだ。
私の承諾を確信していたわけではないだろう。カイルはそういう人間ではない。ただ、準備だけはしておく。断られたら持ち帰るつもりだったのだろう。
紹介状を元に戻し、封筒をテーブルに置いた。
自分の行動が、意図せず人を助けてきた。十五回の婚約破棄が、十五家分の実績になった。助言を聞いた家は栄え、聞かなかった家は傾いた。
その事実を、私はどう受け止めればいいのだろう。
嫌われるためにやったことだ。逃げるためにやったことだ。誰かを助けるつもりはなかった。
でも、カイルは「恩」と呼んだ。ルーヴェンは「実績」と呼んだ。商人たちは「最も安い経営顧問料」と呼んだ。
私が目を背けていただけで、数字はずっと、そこにあった。
窓の外に目を向けた。午後の日差しが庭の木々を照らしている。
翌日の夕刻、帝国大使館の使者が公爵邸を訪れた。ルーヴェンの指示で届けられたのは、帝国の通商条約の写しだった。紺色の蝋封が施された正式な外交文書の複製。添えられた短い書簡には、一行だけ記されていた。
「これを読めるのは、俺が知る限り君だけだ」
帝国の慢性的な財政難の根幹。あの帳簿の三つの問題を生み出している、構造そのもの。
カイルの紹介状が、テーブルの上にある。
過去の婚約者が、味方になろうとしている。帝国の皇帝が、仕事を任せようとしている。
十年間、一人で逃げ続けてきた。
頼っていいのだろうか。
答えはまだ出ない。けれど、紹介状を捨てる気にはならなかった。




