第6話「帳簿は嘘をつかない」
三年前の夜会で、私はエドワルド殿下を遠くから見た。
広間の奥、金の燭台に照らされた一角。殿下の隣にルナリア・ヴァイスが立っていた。薄桃色のドレスに、控えめな真珠の髪飾り。男爵令嬢としては上等な装いだった。
殿下は笑っていた。私の隣では一度も見せなかった、柔らかい笑みだった。
あの時、私はそれを「自分を拒んだ男の幸福」として記憶した。嫌われることを選んだのは自分だ。殿下が別の誰かと笑うのは当然のことだ。何も感じる必要はない。
そう思って、夜会の残りの時間を壁際で過ごした。
あの記憶が、今になって意味を変えようとしている。
ルナリアが動いている。私と帝国皇帝の縁談を潰そうとしている。三年前、殿下の隣で微笑んでいたあの女性が、社交界で私の悪評を広めている。
昨夜、叔母様から聞いた情報を、寝台の中で何度も反芻した。眠れないまま朝を迎え、窓の外が白んでから、ようやく頭の中が整理できた。
選択肢は三つある。
一つ目。ルナリアに直接対峙する。社交界で名指しの反論を行い、悪評の出所を明らかにする。
二つ目。縁談を断って身を引く。ルーヴェンの提案を辞退し、これまで通り婚約破棄を繰り返す生活に戻る。
三つ目。ルーヴェンの提案を受け入れる。婚約という形式を使い、帝国の帳簿を読む仕事に就く。
朝食の前に、書斎で紙を広げた。三つの選択肢を、損益で整理する。前世の癖だ。迷った時は数字に落とす。
一つ目。ルナリアへの直接対峙。
これはルナリアの土俵で戦うことを意味する。社交界の噂は、数字ではなく印象で動く。男爵令嬢でありながら王太子の寵愛を背景に社交界を動かしているルナリアと、十五回の婚約破棄という異常な経歴を持つ私。印象の勝負では分が悪い。
加えて、反論すること自体が噂を大きくする。「公爵令嬢が男爵令嬢と言い争っている」という構図は、私の品位を下げる。
損が大きい。却下。
二つ目。縁談を断って身を引く。
処刑フラグからは離れられる。ルナリアの妨害も意味を失う。安全だ。
だが、父の立場はどうなる。帝国皇帝からの正式な打診を、理由なく断る。外交上の非礼になりかねない。クランメール公爵家は三大公爵家の一角だ。王国と帝国の関係に影を落とす可能性がある。
それだけではない。
帝国の帳簿が頭から離れない。あの三つの問題点。交易税の実質低下、軍事費の利払い圧迫、資産売却による帳尻合わせ。一つの構造的原因から生じている三つの症状。
あれを放置していいのか。
いや、放置していいかどうかは私が判断することではない。帝国の問題は帝国の人間が解決すればいい。
頭ではそう分かっている。分かっているのに、帳簿の数字が目の裏にちらつく。
三つ目。ルーヴェンの提案を受け入れる。
婚約という形式。処刑フラグに最も近い選択肢。
だが、ルーヴェンは言った。「婚約はそのための口実でもいい」と。彼が求めているのは婚約者ではなく、帳簿を読める人間だ。
ならば、形式を変えればいい。
婚約ではなく、期限付きの契約にする。期限が来たら破棄する。十六回目の婚約破棄を、最初から設計しておく。
処刑フラグは「王族との婚姻」で立つ。婚約と婚姻は違う。さらに言えば、ルーヴェンはリヴェーゼ王国の王族ではない。帝国の皇帝だ。ゲームの舞台はリヴェーゼ王国。帝国は舞台の外にある。
婚約しても、婚姻しなければ、処刑フラグは立たない。期限付きで、期限が来たら破棄する。それなら——。
紙の上に、三つ目の選択肢の損益が並んだ。
損。処刑フラグに近づくリスクは残る。ルナリアの妨害が激化する可能性がある。
益。帝国の帳簿を正式に読める。父の外交的立場を守れる。そして、目の前の数字の歪みを無視しなくて済む。
ペンを置いた。
答えは出ていた。
午後。応接間。
ルーヴェンは約束の時間より五分早く到着した。三度目の面談にして、この人の時間感覚が正確であることは分かっていた。
「考えたか」
椅子に座るなり、前置きなく切り出された。
「はい」
私も前置きを省いた。この人には回りくどい言い方が通じないことを、二度の面談で学んでいた。
「陛下の提案をお受けします。ただし、条件があります」
ルーヴェンの目が僅かに動いた。驚きではない。関心だ。
「言え」
「婚約という形式を取ります。ですが、期限は半年です。半年後に破棄します」
沈黙。
「理由は」
「申し上げられません」
また、この答えだ。昨日も同じことを言った。理由は言えない。処刑フラグのことは、誰にも話せない。
ルーヴェンは椅子の肘掛けに指を置いた。長い指が、木の表面を二度叩いた。
「半年で何ができる」
「帝国の財務記録を精査し、構造的な問題点の洗い出しと改善案の骨子をまとめます。実行は帝国の財務官に引き継ぎます」
「半年では足りない」
「足りなければ、報告書の形で残します。私がいなくても実行できる形に」
「君がいなくても、か」
ルーヴェンの声が、ほんの少し低くなった。
「俺は、君がいなくても回る仕組みを作ってほしいとは言っていない。君に帳簿を読んでほしいと言った」
意味の違いに気づくのに、一拍かかった。
仕組みを作ることと、その場にいて読み続けること。前者は一時的な契約で済む。後者は、もっと長い関係を前提としている。
「陛下。私は」
「分かっている。言えない理由がある。半年という期限にも、理由がある。俺はそれを今は聞かない」
肘掛けから指が離れた。
「いいだろう。半年の期限付き婚約。条件は飲む」
拍子抜けするほど、あっさりとした承諾だった。
「ただし、一つだけ俺からも条件がある」
「何でしょう」
「半年後に破棄するかどうかは、半年後に決めろ。今決めるな」
口を開きかけて、止めた。
反論しようとした。半年後に破棄すると、今、決めておかなければ意味がない。処刑フラグを回避するための期限だ。曖昧にしてはいけない。
けれど、ルーヴェンの目を見て、言葉が出なかった。
その目には、昨日と同じものがあった。嘲笑でも、拒絶でも、利用する意図でもないもの。
「……分かりました」
自分でも予想しなかった返答だった。
半年後に決める。今は決めない。それは私の計画の根幹を揺るがす譲歩だった。
なのに、口が勝手に動いていた。
ルーヴェンが立ち上がった。
「婚約の届出は帝国側の外交手続きで処理する。王国の宮内府を経由しない形を取る。外国元首との婚約は外交条約に準ずる扱いになる。クランメール公爵には俺から直接説明する」
手続きの話になった途端、声が事務的に戻った。この切り替えの速さも、三度の面談で分かったことだ。
「帝国への渡航は来月の定期便で手配する。住居は帝都の顧問官邸を用意する。帳簿のアクセスに制限は設けない」
顧問官邸。帳簿のアクセス。
仕事の環境としては、申し分ない条件だった。
「報酬は」
「私が決めてよろしいのですか」
「君の仕事に値段をつけられるのは君だけだ。十五家分の実績を踏まえて算出しろ」
値段。昨日も聞いた言葉だ。噂の値段。実績の値段。この人は全てを数字に換算する。
「陛下」
「何だ」
「一つだけ、確認させてください」
ルーヴェンが振り返った。扉に向かいかけた足が止まる。
「なぜ、婚約という形式にこだわるのですか。仕事であれば、顧問契約で十分なはずです」
ルーヴェンは一瞬、黙った。
「帝国の法では、外国人の財務記録へのアクセスに制限がある。顧問契約では閲覧できる範囲が限られる。だが、皇帝の婚約者であれば、帝国貴族に準ずる権限が与えられる」
法的な理由。合理的な説明。
「それだけですか」
聞くべきではなかったかもしれない。だが、口が動いた。
ルーヴェンの表情が、ほんの僅かに変わった。口角が持ち上がったのか、目元が緩んだのか。変化が小さすぎて判別できなかった。
「それだけだ。今は」
「今は」という言葉が引っかかった。だが、それ以上は聞かなかった。
「承知しました」
ルーヴェンが扉を開け、廊下に出た。護衛の靴音が揃う。
扉が閉まった後、応接間に一人残された。
テーブルの上には何もなかった。十五行の紙は昨日、ルーヴェンが持ち帰っている。残っているのは、口約束だけだ。
半年の期限付き婚約。
十六回目の婚約。ただし、初めて自分から条件を出した婚約。
椅子に座り直し、目を閉じた。
これまでの十五回は、嫌われるために始まり、嫌われて終わった。十六回目は、仕事のために始まる。終わり方は、半年後に決める。
自分で決める。
その事実が、胸の中で妙な重さを持っていた。怖さとは違う。不安とも違う。名前のつかない感覚だった。
強いて言えば、帳簿の新しい頁を開く時に似ていた。白紙の頁に、これから数字が書き込まれていく。何が書かれるかはまだ分からない。
窓の外で馬車の車輪が石畳を叩いた。ルーヴェンの馬車が門を出ていく音だった。
目を開けた。
明日からは、渡航の準備だ。半年分の仕事道具を揃えなければならない。帝国の法律書も読んでおきたい。通貨の換算表も必要だ。
やることが山のようにある。
けれどその前に、一つだけ。
「叔母様に報告しなくては」
立ち上がり、応接間を出た。
廊下を歩きながら、ルナリアのことを考えた。社交界での悪評工作。あれは放置していい。半年後にはどうせ破棄する婚約だ。ルナリアが何を言おうと、結果は同じ——。
本当に?
足が止まった。
半年後に破棄すると、今は決めないと約束した。ルーヴェンにではない。自分自身に、そう約束してしまった。
廊下の窓から、午後の光が差していた。
ルナリアの工作を放置していい理由が、一つ減った。
足を動かした。叔母様の部屋に向かう。報告することと、相談することがある。




