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十五回婚約破棄された悪役令嬢の小言がなぜか国を救い始める  作者: 月雅


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第4話「十二歳の選択」

あの日も、帳簿だった。


ルーヴェンとの面談から一夜明けた朝、寝台の中で目を閉じたまま、私は十年前のことを思い出していた。昨日の応接間で感じた戸惑いが、古い記憶の蓋をこじ開けてしまったのだ。


十二歳。最初の婚約。相手は王太子エドワルド・リヴェーゼ。


婚約は私が生まれる前から決まっていた。クランメール公爵家と王家の結びつきを強固にするための政略。父も先代国王も合意した、揺るぎない取り決めだった。


前世の記憶を取り戻したのは五歳の時だ。高熱を出して三日間寝込み、目が覚めた瞬間に、別の人生の記憶が頭の中に流れ込んできた。


日本という国。大学を出て、経営コンサルタントとして働いた日々。数字と報告書に埋もれた生活。そして、疲れ果てた夜に画面の光だけを頼りにプレイした乙女ゲーム。


「翠緑の誓約」。


攻略サイトの文字列は、熱に浮かされた頭の中でも鮮明だった。


悪役令嬢フェリシア・クランメール。王太子エドワルドの婚約者。ヒロインであるルナリア・ヴァイスを迫害し、最終的に断罪され処刑される。


処刑。


五歳の私は、その二文字の意味を理解するのに時間がかかった。理解した後は、毎晩眠れなくなった。


攻略サイトにはこう書かれていた。「悪役令嬢フェリシアは王太子との婚約ルートで処刑END。王族との婚姻を結んだ場合、すべてのルートで処刑フラグが立つ」。


王族と結婚したら、死ぬ。


それだけが、私の行動指針になった。


七年間、準備した。エドワルドに会う機会は限られていたが、婚約者として年に数回、王宮での食事会や行事に同席する義務があった。幼い頃はただ隣に座っているだけでよかった。けれど十二歳になれば、婚約者としての振る舞いが求められる。


その年の春、王宮の晩餐会に出席した。エドワルドの隣の席。銀の食器が並ぶ長いテーブル。私は緊張で手が震えていた。


震えを止めるために、テーブルの上に置かれた書類に目を向けた。晩餐会の予算書だった。来賓への贈答品の費用、料理の材料費、楽団への報酬。宮内府の担当官が作成したもので、エドワルドの確認印が必要な書類だった。


数字が目に入った瞬間、震えが止まった。


贈答品の単価が相場の三倍になっている。料理の材料費に不自然な端数がある。楽団への報酬が前年の二倍に膨らんでいるのに、演奏時間は同じだ。


口が動いた。


「殿下。この予算書ですが、贈答品の単価に不合理な点がございます」


エドワルドが振り向いた。整った顔に、困惑の色が浮かんでいた。十三歳の王太子は、隣に座る十二歳の婚約者が予算書に口を出すとは思っていなかっただろう。


「贈答品の件は宮内府に任せてある。婚約者が口を挟むことではない」


冷たい声だった。けれど私は止まらなかった。止まれなかった。


「材料費の端数も確認された方がよろしいかと存じます。この数字の並びは、帳簿の付け替えの痕跡に見えます」


エドワルドの目が鋭くなった。隣席の貴族たちが、こちらを見ていた。


「フェリシア。ここは晩餐の席だ」


「存じております。ですが、この予算のまま執行されれば、宮内府の監査で問題になる可能性が」


「もういい」


エドワルドは予算書を裏返し、私から見えないようにした。その仕草は明確な拒絶だった。


晩餐会の残りの時間、彼は一度も私に話しかけなかった。


婚約破棄の書類が届いたのは、その二ヶ月後だった。


宮内府を通じた正式な手続き。理由書には「双方の気質の不一致」と記されていた。クランメール公爵家への解約補償として、王家所有の小規模な林地が譲渡された。


父は書斎で長い溜息をついた。


「仕方あるまい。王太子殿下がお決めになったことだ」


私は書類を受け取り、自室に戻った。


安堵した。


心の底から、安堵した。これで処刑フラグから離れられる。王族との婚姻は消えた。私は生き延びた。


けれどその夜、寝台の中で眠れなかった。


エドワルドの目を思い出していた。予算書を裏返した時の、あの冷たい目。「もういい」と言った時の、声の硬さ。


嫌われることを選んだのは私だ。嫌われるために口を開いた。計画通りだ。何も間違っていない。


それなのに、あの目が頭から消えなかった。


あの日から、私は人との距離の取り方を覚えた。近づきすぎない。深く関わらない。帳簿を見て、指摘して、嫌われて、去る。それを十五回繰り返した。


寝台から起き上がった。


窓の外は明るい。春の朝だ。鳥の声が聞こえる。


今日はルーヴェンとの二度目の面談がある。


昨日の応接間が蘇った。帳簿を開いた瞬間の、あの集中。三つの指摘を口にした時の、止められない感覚。そして、ルーヴェンの反応。


嘲笑しなかった。拒絶しなかった。予算書を裏返さなかった。


「二年間、一人もだ」と、彼は言った。


十年前のエドワルドと、昨日のルーヴェン。同じように帳簿の問題を指摘して、返ってきた反応がまるで違った。


それだけのことだ。それだけのことが、私の中で妙に大きく残っている。


身支度を整えながら、頭の中で計画を組み直した。


今日こそ、嫌われる。昨日は三つの指摘で終わってしまったが、今日はもっと口うるさくする。重箱の隅を突くような細かい指摘を並べる。皇帝の自尊心に障るような言い方をする。


十五回繰り返してきたことだ。手順は分かっている。


応接間に向かう廊下を歩いた。


足取りは昨日より速かった。


昨日と同じ扉の前で立ち止まった。深呼吸を一つ。


扉が開いた。


ルーヴェンは昨日と同じ椅子に座っていた。テーブルの上には、昨日とは別の帳簿が積まれている。


けれど今日は帳簿だけではなかった。


「昨日の三点について、帝国の財務官に確認を取った」


彼は帳簿ではなく、私の目を見て言った。


「全て正しかった。それを踏まえて、今日は別の話をしたい」


帳簿の横に、一枚の紙が置かれていた。社交界の書簡ではない。公式な書式だ。


「王国内で、君についての噂が流れていることは知っている」


胸が詰まった。


ルーヴェンは淡々と続けた。


「十五回の婚約破棄。破棄された家の繁盛。そして、婚約破棄を繰り返す理由について、王国の社交界では様々な憶測がある」


彼は知っていた。噂だけではない。調べていた。


計画の歯車が、また一つ、噛み合わなくなった。

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