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十五回婚約破棄された悪役令嬢の小言がなぜか国を救い始める  作者: 月雅


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第3話「帳簿の穴」

応接間の窓から、中庭に停まった馬車が見えた。


黒塗りの車体に紺色の帷幕。側面に双頭の鷲の紋章。帝国式の四頭立てだった。護衛の騎兵が八名、馬車の周囲に整列している。


私は扉の前で足を止め、呼吸を整えた。


昨晩、皇帝本人が到着したという報せを受けてから、ほとんど眠れなかった。使者が来て、日程を調整して、数日後に面談。そういう手順を想定していた。本人が直接来るとは思わなかった。


計画を修正する時間がなかった。


侍女が扉を開けた。私は背筋を伸ばし、一歩を踏み出した。


応接間の中央、窓際の椅子に男が座っていた。


黒い軍服に似た仕立ての上着。装飾は最小限。胸元に小さな帝国の紋章が一つだけ留められている。


顔は若い。二十代半ばだろう。黒髪を短く刈り上げ、切れ長の目がこちらを見ている。表情は読めなかった。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ静かに、こちらを観察していた。


そして、テーブルの上に帳簿が広げられていた。


数冊の革装丁の冊子。紙の質が王国のものと違う。帝国製だ。


私は扉の手前で深く一礼した。


「クランメール公爵家長女、フェリシア・クランメールでございます。アルヴァシア帝国皇帝陛下のご来訪を賜り、光栄に存じます」


「ルーヴェン・アルヴァシアだ。堅くならなくていい」


短い声だった。低く、簡潔で、飾りがない。


「お掛けください」と言われて、向かいの椅子に腰を下ろした。侍女が茶の用意を始める。


ルーヴェンは茶には目もくれず、テーブルの上の帳簿に手を置いた。


「単刀直入に言う」


顔を上げた。彼の目が、まっすぐに私を見ていた。


「この帳簿を見てほしい」


婚約の話ではなかった。


予想していた言葉が一つも来なかった。「あなたを妻に迎えたい」でもなく、「両国の友好のために」でもなく。


彼はテーブルの上の帳簿を私の方に押しやった。


「帝国の過去三年分の歳入歳出の概要だ。機密に触れる部分は除いてある。だが、骨格は正確だ」


私は帳簿に手を伸ばしかけて、止まった。


これを見てはいけない。


見れば分かってしまう。数字を見れば、問題が見える。問題が見えれば、口が動く。口が動けば、的確な指摘が出る。的確な指摘が出れば、感謝される。感謝されれば、嫌われない。


嫌われなければ、逃げられない。


「陛下。失礼ですが、縁談のお話ではないのですか」


「それもある。だが先にこちらを見てほしい」


彼の声に感情の波はなかった。命令でもなく、懇願でもなく、ただ事実を述べているだけの声だった。


私の指が、帳簿の表紙に触れた。


革の感触が伝わった瞬間、前世の感覚が目を覚ました。帳簿を開く時の、あの集中。数字の列に目を走らせる時の、頭の中が透明になる感覚。


一頁目を開いた。


歳入の内訳。農業税、交易税、鉱業税、関税。数字を追い始めた指が、すぐに止まった。


交易税の推移がおかしい。三年間で二割近く減少している。にもかかわらず交易量自体は微増している。税収が減り、交易量が増える。つまり単位あたりの税率が下がっている。意図的な減税ならともかく、歳出側にその補填の痕跡がない。


二頁目。歳出の内訳。軍事費が全体の四割を超えている。内訳を見ると、常備軍の維持費ではなく、借入金の利払いが大きな比率を占めている。過去の軍拡期の負債が、現在の財政を圧迫している構造だ。


三頁目。国庫の推移。黒字と赤字が年ごとに入れ替わっている。一見すると安定しているように見えるが、黒字の年は資産売却による一時収入で帳尻を合わせている。持続可能な構造ではない。


帳簿を閉じた。


閉じてから気づいた。ルーヴェンが、じっと私を見ていた。


「何か気づいたか」


気づいた。三カ所どころではない。根本的な問題が見える。交易税の減少は、おそらく通商条約に起因している。帝国に不利な条件で締結された条約があるのだろう。それが交易における税率の実質的な引き下げを強いている。


言ってはいけない。


言えば有能さを見せることになる。有能さを見せれば、嫌われない。嫌われなければ、この人は私を手放さない。手放されなければ、処刑フラグに近づく。


帳簿の数字が、頭の中で点滅していた。


三つだけ。三つだけ指摘して、それ以上は黙る。全体像には触れない。核心には踏み込まない。それなら、ただ口うるさい令嬢で済む。


「三点ございます」


声が出ていた。


「まず、歳入の部、交易税の項。三年間で税収が二割減少していますが、交易量は微増しています。税率の実質的な低下を示しており、原因の特定が必要です」


ルーヴェンは微動だにしなかった。


「次に、歳出の部、軍事費の内訳。利払いが常備軍維持費を上回っています。借入条件の見直しか、繰り上げ返済の計画がなければ、この比率は悪化し続けます」


頷きもしなかった。ただ聞いていた。


「最後に、国庫の推移。黒字年の収入内訳に資産売却が含まれています。売却可能な資産が尽きた時点で、赤字が常態化します。現状の構造では、あと二年が限度かと存じます」


言い終えた。


沈黙が落ちた。


ルーヴェンは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。その目は相変わらず読めなかった。怒っているようには見えない。侮辱されたようにも見えない。


「二年間」


彼が口を開いた。


「帝国の財務官が百人以上いる。その誰も、今の三点を同時に指摘した者はいなかった。二年間、一人もだ」


胃の底が冷えた。


また、やってしまった。


三つだけのつもりだった。核心には触れないつもりだった。けれど三つの指摘は、それぞれが独立した問題ではなく、一つの構造的な原因から派生している。それを見抜ける人間が、帝国に二年間いなかった。


つまり私の指摘は、ただの小言ではなかった。この帝国の財政の全体像を読み解ける人間がここにいると、証明してしまった。


ルーヴェンが立ち上がった。長身だった。私も立ち上がり、目線が合った。


彼の表情に、初めて変化が見えた。怒りでも嘲りでもなかった。


満足、に近い何かだった。


「明日も来る。続きを聞かせてくれ」


「陛下、私は」


「帳簿はまだある。今日見せたのは概要だけだ」


言い終わると、彼は一礼もせずに応接間を出て行った。皇帝の所作として異例だったが、それが無礼だとは感じなかった。無駄を省いただけだと分かった。


扉が閉まった。


私は椅子に座り直し、テーブルの上に残された帳簿を見つめた。


一度会って、嫌われて、終わり。


そのはずだった。


嫌われなかった。指摘を嘲笑もされなかった。拒絶もされなかった。


今までの十五人と、反応が違う。


子爵家の当主は、私の指摘に顔を赤くした。伯爵家の嫡男は、帳簿を取り上げて見せなくなった。侯爵家のカイルは、困ったように笑って話題を変えた。


この人は、何もしなかった。ただ聞いて、「続きを聞かせてくれ」と言った。


それだけのことが、十五回繰り返してきた私の手順を、根元から揺らしていた。


窓の外で、帝国の馬車が動き始めた。蹄の音が石畳を叩き、遠ざかっていく。


明日、彼はまた来る。帳簿を持って。


私はまた、数字を見てしまうだろう。見れば、口が動くだろう。


止められない。止められたことがない。


それが怖かった。

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