第3話「帳簿の穴」
応接間の窓から、中庭に停まった馬車が見えた。
黒塗りの車体に紺色の帷幕。側面に双頭の鷲の紋章。帝国式の四頭立てだった。護衛の騎兵が八名、馬車の周囲に整列している。
私は扉の前で足を止め、呼吸を整えた。
昨晩、皇帝本人が到着したという報せを受けてから、ほとんど眠れなかった。使者が来て、日程を調整して、数日後に面談。そういう手順を想定していた。本人が直接来るとは思わなかった。
計画を修正する時間がなかった。
侍女が扉を開けた。私は背筋を伸ばし、一歩を踏み出した。
応接間の中央、窓際の椅子に男が座っていた。
黒い軍服に似た仕立ての上着。装飾は最小限。胸元に小さな帝国の紋章が一つだけ留められている。
顔は若い。二十代半ばだろう。黒髪を短く刈り上げ、切れ長の目がこちらを見ている。表情は読めなかった。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ静かに、こちらを観察していた。
そして、テーブルの上に帳簿が広げられていた。
数冊の革装丁の冊子。紙の質が王国のものと違う。帝国製だ。
私は扉の手前で深く一礼した。
「クランメール公爵家長女、フェリシア・クランメールでございます。アルヴァシア帝国皇帝陛下のご来訪を賜り、光栄に存じます」
「ルーヴェン・アルヴァシアだ。堅くならなくていい」
短い声だった。低く、簡潔で、飾りがない。
「お掛けください」と言われて、向かいの椅子に腰を下ろした。侍女が茶の用意を始める。
ルーヴェンは茶には目もくれず、テーブルの上の帳簿に手を置いた。
「単刀直入に言う」
顔を上げた。彼の目が、まっすぐに私を見ていた。
「この帳簿を見てほしい」
婚約の話ではなかった。
予想していた言葉が一つも来なかった。「あなたを妻に迎えたい」でもなく、「両国の友好のために」でもなく。
彼はテーブルの上の帳簿を私の方に押しやった。
「帝国の過去三年分の歳入歳出の概要だ。機密に触れる部分は除いてある。だが、骨格は正確だ」
私は帳簿に手を伸ばしかけて、止まった。
これを見てはいけない。
見れば分かってしまう。数字を見れば、問題が見える。問題が見えれば、口が動く。口が動けば、的確な指摘が出る。的確な指摘が出れば、感謝される。感謝されれば、嫌われない。
嫌われなければ、逃げられない。
「陛下。失礼ですが、縁談のお話ではないのですか」
「それもある。だが先にこちらを見てほしい」
彼の声に感情の波はなかった。命令でもなく、懇願でもなく、ただ事実を述べているだけの声だった。
私の指が、帳簿の表紙に触れた。
革の感触が伝わった瞬間、前世の感覚が目を覚ました。帳簿を開く時の、あの集中。数字の列に目を走らせる時の、頭の中が透明になる感覚。
一頁目を開いた。
歳入の内訳。農業税、交易税、鉱業税、関税。数字を追い始めた指が、すぐに止まった。
交易税の推移がおかしい。三年間で二割近く減少している。にもかかわらず交易量自体は微増している。税収が減り、交易量が増える。つまり単位あたりの税率が下がっている。意図的な減税ならともかく、歳出側にその補填の痕跡がない。
二頁目。歳出の内訳。軍事費が全体の四割を超えている。内訳を見ると、常備軍の維持費ではなく、借入金の利払いが大きな比率を占めている。過去の軍拡期の負債が、現在の財政を圧迫している構造だ。
三頁目。国庫の推移。黒字と赤字が年ごとに入れ替わっている。一見すると安定しているように見えるが、黒字の年は資産売却による一時収入で帳尻を合わせている。持続可能な構造ではない。
帳簿を閉じた。
閉じてから気づいた。ルーヴェンが、じっと私を見ていた。
「何か気づいたか」
気づいた。三カ所どころではない。根本的な問題が見える。交易税の減少は、おそらく通商条約に起因している。帝国に不利な条件で締結された条約があるのだろう。それが交易における税率の実質的な引き下げを強いている。
言ってはいけない。
言えば有能さを見せることになる。有能さを見せれば、嫌われない。嫌われなければ、この人は私を手放さない。手放されなければ、処刑フラグに近づく。
帳簿の数字が、頭の中で点滅していた。
三つだけ。三つだけ指摘して、それ以上は黙る。全体像には触れない。核心には踏み込まない。それなら、ただ口うるさい令嬢で済む。
「三点ございます」
声が出ていた。
「まず、歳入の部、交易税の項。三年間で税収が二割減少していますが、交易量は微増しています。税率の実質的な低下を示しており、原因の特定が必要です」
ルーヴェンは微動だにしなかった。
「次に、歳出の部、軍事費の内訳。利払いが常備軍維持費を上回っています。借入条件の見直しか、繰り上げ返済の計画がなければ、この比率は悪化し続けます」
頷きもしなかった。ただ聞いていた。
「最後に、国庫の推移。黒字年の収入内訳に資産売却が含まれています。売却可能な資産が尽きた時点で、赤字が常態化します。現状の構造では、あと二年が限度かと存じます」
言い終えた。
沈黙が落ちた。
ルーヴェンは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。その目は相変わらず読めなかった。怒っているようには見えない。侮辱されたようにも見えない。
「二年間」
彼が口を開いた。
「帝国の財務官が百人以上いる。その誰も、今の三点を同時に指摘した者はいなかった。二年間、一人もだ」
胃の底が冷えた。
また、やってしまった。
三つだけのつもりだった。核心には触れないつもりだった。けれど三つの指摘は、それぞれが独立した問題ではなく、一つの構造的な原因から派生している。それを見抜ける人間が、帝国に二年間いなかった。
つまり私の指摘は、ただの小言ではなかった。この帝国の財政の全体像を読み解ける人間がここにいると、証明してしまった。
ルーヴェンが立ち上がった。長身だった。私も立ち上がり、目線が合った。
彼の表情に、初めて変化が見えた。怒りでも嘲りでもなかった。
満足、に近い何かだった。
「明日も来る。続きを聞かせてくれ」
「陛下、私は」
「帳簿はまだある。今日見せたのは概要だけだ」
言い終わると、彼は一礼もせずに応接間を出て行った。皇帝の所作として異例だったが、それが無礼だとは感じなかった。無駄を省いただけだと分かった。
扉が閉まった。
私は椅子に座り直し、テーブルの上に残された帳簿を見つめた。
一度会って、嫌われて、終わり。
そのはずだった。
嫌われなかった。指摘を嘲笑もされなかった。拒絶もされなかった。
今までの十五人と、反応が違う。
子爵家の当主は、私の指摘に顔を赤くした。伯爵家の嫡男は、帳簿を取り上げて見せなくなった。侯爵家のカイルは、困ったように笑って話題を変えた。
この人は、何もしなかった。ただ聞いて、「続きを聞かせてくれ」と言った。
それだけのことが、十五回繰り返してきた私の手順を、根元から揺らしていた。
窓の外で、帝国の馬車が動き始めた。蹄の音が石畳を叩き、遠ざかっていく。
明日、彼はまた来る。帳簿を持って。
私はまた、数字を見てしまうだろう。見れば、口が動くだろう。
止められない。止められたことがない。
それが怖かった。




