第10話「十六回目の帳簿」
馬車の車輪が石畳を叩く音で、目が覚めた。
公爵邸のバルコニーに出たのは、日の出の少し前だった。空の端が白み始めている。春の朝の冷たい空気が頬に触れた。
通りの向こうに、帝国の馬車列が見えた。
紺色の幌に双頭の鷲の紋章。護衛の騎馬が四騎。ルーヴェンの帰国の行列だった。昨日の通告書提出を終え、予定通り今朝、王都を発つ。
馬車列は公爵邸の前を通らない。帝国大使館から王都の東門に向かう道は、ここから二本先の大通りだ。それでも蹄の音は届く。石畳に響く規則正しいリズム。
手元に、帝国の年間予算書の写しがあった。ルーヴェンが最後の面談の後に帝国大使を通じて届けさせたものだ。
厚い紙束。双頭の鷲の透かし入り。百頁を超える帝国の全歳入と全歳出の記録。
最終頁を開いた。
数字の列が途中で終わっている。今年度の予算は執行中で、年度末まで空欄がある。
その空欄の下に、直筆の一行があった。黒いインク。硬い筆圧。短い文字列。
「この先は、君が来てから書く」
ペンを置いた跡が、インクの滲みとして残っていた。
一行を、長く見つめた。
蹄の音が遠ざかっていく。馬車列が東門に向かっている。
朝食の席に、マルグリット叔母様がいた。
「見送りには行かなかったのね」
「帝国大使館での面談が最後の正式な場でしたから。見送りは外交儀礼に含まれていません」
「儀礼の話をしているんじゃないわ」
叔母様がパンを千切りながら言った。
「行きたかったんじゃないの、と聞いている」
答えなかった。代わりに、紅茶を一口飲んだ。
叔母様は追及しなかった。ただ、パンを皿に置いて、私の顔を見た。
「今回は——違うの?」
十五回の婚約破棄。毎回、叔母様は同じ問いを投げてきた。「今回はどんな理由?」「今回も嫌われたの?」「今回は好きだった?」。
そのどれとも違う問いだった。
「十六回目は、まだ終わっていません」
口にしてから、自分の言葉に驚いた。
これまで、叔母様に婚約の話をする時は、いつも破棄の報告だった。「終わりました」「相性の問題です」「次の縁談はしばらくいりません」。完了形でしか語ったことがなかった。
「まだ終わっていない」。継続中であることを口にしたのは、初めてだった。
叔母様は黙っていた。数秒間、何も言わなかった。
それから、小さく息を吐いた。
「そう」
一言だけ。その一言に、十年分の何かが込められていた。
午前。父の書斎。
アルベルト・クランメールは、机の上に書類を広げていた。帝国への渡航に必要な一式。通行証、船の乗船券、帝国入国許可証、帝国顧問官邸の住所と管理者の連絡先。
「全て手配した。来月の定期船は月初めの出航だ。港までは馬車で三日。余裕を持って出発するといい」
「ありがとうございます、お父様」
父は書類から目を上げた。
「フェリシア」
「はい」
「お前は十二歳の時から、何かを怖がっていた。何を怖がっているのか、私には分からなかった。聞いても答えなかった」
胸が詰まった。
父は知っていた。理由は知らなくても、娘が何かから逃げ続けていることには気づいていた。
「今も、答えられるか」
「……いいえ。まだ、申し上げられません」
父は頷いた。失望の色はなかった。
「答えられなくてもいい。だが、一つだけ聞かせてくれ」
「何でしょう」
「帝国に行くのは、逃げるためか。それとも、別の理由があるのか」
問いが胸に刺さった。的確すぎる問いだった。
十年間、すべての婚約は逃げるためだった。処刑フラグから離れるために、婚約し、嫌われ、破棄した。
今回は。
「別の理由が、あります」
声が小さかった。けれど、嘘ではなかった。
「帝国の帳簿を読みたい、という理由です」
父の目が僅かに見開かれた。それから、口元が緩んだ。笑みとは違う。安堵に近い表情だった。
「そうか」
父は書類を揃え、私に手渡した。
「行ってこい」
その二文字が、通行証よりも重かった。
午後。自室。
机の上に、渡航の書類一式を並べた。
通行証。乗船券。入国許可証。顧問官邸の情報。カイルが用意してくれた穀物取引所への紹介状。帝国の通商条約の写し。そして、年間予算書。
荷造りはまだだ。来月の出航まで時間はある。だが、書類だけは今日、確認しておきたかった。
一枚ずつ、目を通した。
通行証の名前。フェリシア・クランメール。身分、クランメール公爵家長女。渡航目的、帝国皇帝との婚約に伴う帝国滞在。
婚約。
この言葉が、十五回の記憶を呼び起こす。
一回目。エドワルド。十二歳。晩餐会の予算書に口を出して、嫌われた。
三回目。ヴァルトシュタイン子爵家。出荷時期を指摘して、嫌われた。
七回目。ベルクハイム伯爵家。帳簿の二重管理を指摘して、嫌われた。
八回目。ヘルマン伯爵家。鉱山の採掘計画を指摘して、嘲笑された。
十五回目。カイル。輪作の順序を指摘して——嫌われなかった。
そして十六回目。ルーヴェン。帝国の帳簿の三カ所を指摘して、「続きを聞かせてくれ」と言われた。
十五回の婚約破棄は、全て同じパターンだった。帳簿を見て、口を出して、嫌われて、去る。
十六回目だけが、違う。
帳簿を見て、口を出して——嫌われなかった。去ることもできなかった。代わりに、期限付きの婚約を自分から提案した。
恐怖はある。処刑フラグの影は消えていない。攻略サイトの情報は不完全で、どこに罠があるか分からない。
でも。
年間予算書の最終頁を開いた。
「この先は、君が来てから書く」。
この一行が、恐怖と同じ重さで、胸の中にある。
帳簿を読みたい。数字の歪みを正したい。この人の国の問題を、一緒に解きたい。
それは処刑フラグの回避とは関係のない、初めての動機だった。
名前をつけるには早すぎる。つけてはいけないと、まだ思っている。
でも、つけなくても、そこにある。
窓の外に目を向けた。午後の光が庭の木々を照らしている。春の陽射しが、書類の上に落ちていた。
通行証を手に取った。
来月、帝国に渡る。
半年の期限付き婚約者として。帝国の帳簿を読む仕事人として。そして——。
それ以上は、まだ言葉にしない。
書類を鞄にしまい、机の引き出しを開けた。十年分の帳簿の写しが、束になって入っている。十五家分の財務記録。嫌われるために作った分析ノート。全部、持っていく。
過去の十五冊は、失敗の記録だと思っていた。
今は、違う。
あれは全部、十六回目のための練習だったのかもしれない。
引き出しを閉め、立ち上がった。
叔母様に夕食の時間を確認しなければ。父にも、出航の日取りを改めて報告しなければ。カイルにも礼状を書かなければ。
やることが、山のようにある。
それが、嬉しかった。
十年間、やることといえば「次の婚約をどう壊すか」だけだった。
今は違う。帝国の帳簿を読む準備がある。通商条約の改定案を詰める仕事がある。渡航の荷造りがある。紹介状を持って穀物取引所を訪ねる予定がある。
全部、未来に向かっている。
バルコニーに出た。
今朝、ルーヴェンの馬車列を見送った場所。あの時の冷たい空気はもうない。午後の温かい風が吹いている。
東の空を見た。馬車列はもう見えない。とっくに王都を出て、帝国への街道を進んでいるはずだ。
来月、その道を私も行く。
手元の年間予算書を、もう一度開いた。最終頁。直筆の一行。
「この先は、君が来てから書く」。
私は予算書を閉じ、鞄にしまった。
十六回目の帳簿は、まだ白紙だ。
これから、書く。
(完)
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