こんにちは、さようなら、こんにちは
季節がひとつ巡り、さらにもうひとつ過ぎた。
冬の街は、息をするたび白い靄が広がり、音のすべてが少し遠くに感じられた。
あの日から僕は、静かに働き、静かに食べ、静かに眠る生活を続けていた。
けれど、心のどこかではいつも、彼女の声の残響を探していた。
――君の時間は、やっと動き出したんだ。
そう思える日もあった。
けれど、僕の中の何かはまだ、あの午後のカップの影に取り残されたままだった。
⸻
その日も、いつものようにコーヒーショップの扉を押した。
午後の光が傾き、木のテーブルの上に金の筋を落としていた。
僕は窓際の席に座り、ブレンドを頼んだ。
香りは変わらない。
ただ、店内の空気に漂う何かが、ほんの少し違っていた。
音楽がかかっていた。
古いピアノのジャズ。
以前は流れていなかった曲だ。
その旋律の中で、時間の流れがゆるやかに波打っていた。
ふと、扉のベルが鳴った。
その音が、なぜだか胸の奥を震わせた。
顔を上げると、黒髪の女性が入ってきた。
肩にかかるくらいの長さ、光を受けると柔らかく揺れた。
彼女は一瞬、店の中を見渡し、それからまっすぐ僕の方を見た。
目が合った。
その瞬間、空気が少しだけ揺れた。
コーヒーの香りと午後の光の中で、僕の心臓が静かに跳ねた。
彼女は少し微笑んで、ゆっくりと近づいてきた。
足取りは確かで、どこか懐かしい。
テーブルの前に立ち止まり、
「ここ、いい?」
と、あの時と同じ声で言った。
僕は何も言えなかった。
ただ頷くと、彼女は座り、コーヒーを頼んだ。
しばらく沈黙があった。
けれど、その沈黙は不思議と穏やかだった。
「この店、久しぶり」
彼女が言った。
その声の響きが、記憶の底をやさしく叩いた。
「ずっと来たかったの。でも、なかなか勇気が出なくて」
「……君?」
彼女は笑った。
まるでその言葉を待っていたかのように。
「うん。やっと、来られた」
その笑顔は、以前の少女のままではなかった。
時間が流れ、季節が通り抜けたあとに残る、穏やかな光をたたえていた。
目の奥に、確かに“今”が宿っていた。
「覚えてる? 君、言ったよね。
“止まってほしくない”って」
僕は頷いた。
「君の時間が、動き出したんだね」
「うん。たぶん、ずっと前から動いてたのかもしれない。
でも気づいたのは、今日なんだ」
彼女はテーブルの上のカップを右に、半分だけ回した。
あの日と同じ合図。
僕の視界が滲んだ。
何年分もの静寂が、胸の奥で一度に音を立てて崩れた。
「また、会えたね」
彼女がそう言った。
世界のすべてが、その一言の中に収まった気がした。
街のざわめきも、過ぎた季節の音も、コーヒーの香りも。
すべてが、ひとつの瞬間のためにそこにあった。
僕は笑って言った。
「うん。ずっと、待ってたよ」
彼女は少し恥ずかしそうにうつむいた。
そして、静かにカップを持ち上げた。
「君の好きな、砂糖を入れないやつ」
「今日は甘くしないの?」
「ううん。今日は、もう苦くないから」
彼女の言葉に、僕は微笑んだ。
カップから立ちのぼる湯気が、光の中でゆらめいた。
そこにはもう、過去も未来もなかった。
ただ、確かな“いま”があった。
⸻
店を出ると、夕暮れが街を包んでいた。
オレンジと群青のあいだで、世界は静かに息をしていた。
風が吹いて、彼女の髪をやさしく揺らした。
「これから、どこへ行く?」
僕が訊くと、彼女は少し考えてから笑った。
「君の知らない未来へ。でも、きっと近くにいるよ」
その笑みは、かつて見たどんな光よりも柔らかかった。
僕は空を見上げた。
沈みかけた太陽の輪郭が、ゆっくりと滲んでいった。
彼女は言った。
「また、会えたね」
僕も言った。
「また、会えたね」
それは別れの言葉ではなく、
始まりの挨拶のように響いた。
そして僕たちは、
沈む夕日の中を、静かに歩き出した。




