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雨の匂い、君の記憶

それからというもの、僕は毎日のようにコーヒーショップへ通った。

 彼女が座っていた席を、いつも遠くから眺めていた。

 グラスの輪の跡はもう消えていた。

 店員が布で拭いたのだろう。けれど僕には、そこにまだ彼女の指先の記憶が残っているように思えた。


 「君」と呼びかけるたび、胸の奥が痛んだ。

 耳の奥では、あの日の地震の音がまだ続いている。

 金属が軋むような音、遠くで崩れる壁の音、そして――彼女の声。

 それらはもう現実のものではないのに、心の中では今も鮮明だった。


 僕は、コーヒーを頼むと、砂糖を入れずに飲む。

 彼女が「甘さの加減でその日の自分を決める」と言っていたからだ。

 彼女がいない世界の苦味を、僕はそのまま味わうことにした。



 夜になると、決まって雨が降った。

 小さな雨粒が街灯の光に照らされて、ゆっくりと降りていく。

 その様子が、まるで彼女の言葉の残滓みたいだった。

 世界は動き続けているのに、僕だけがどこか取り残されている気がした。


 部屋の中で、僕はふと鏡を見る。

 そこに映るのは、少し疲れた自分の顔。

 けれど、鏡の奥のどこかで、彼女が微笑んでいるように感じることがある。

 それは錯覚かもしれない。

 それでも――その錯覚だけが、僕をまだこの世界に繋ぎとめていた。



 ある晩、夢を見た。

 あのコーヒーショップの窓際で、彼女が座っている。

 光の中で、彼女はゆっくりとカップを回し、僕の方を見た。

 「ねえ、君」

 声は柔らかく、どこか遠くの風のようだった。

 「もう泣かないで。時間はちゃんと流れてる。君の中で、私も一緒に進んでる」


 僕は夢の中で泣いた。

 涙がこぼれても、夢の中では濡れた感覚がない。

 ただ心の奥で、静かに波のように広がっていく。

 彼女の声が続いた。

 「また会えるよ。時間がやっと追いついたらね」


 目が覚めたとき、頬が濡れていた。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、涙の跡をやわらかく照らしていた。

 それは、彼女が残した最後のぬくもりのようだった。



 季節がいくつか過ぎた。

 春が来て、街の銀杏が新しい葉をつけ、夏が去り、秋がやってきた。

 コーヒーショップのメニューには、季節限定の新しい豆が並んでいた。

 でも、僕はいつも同じものを頼む。

 彼女と初めて話した日のブレンド。


 カップを半分だけ右に回してみる。

 合図。

 彼女がグラスに輪を描いてくれたあの日のように。

 もちろん、彼女は現れない。

 けれど、不思議と孤独ではなかった。

 この世界のどこかで、彼女が“動き出した時間”を歩いている気がしたからだ。



 その夜、ふと空を見上げた。

 雲が切れて、星が少しだけ覗いていた。

 僕は空に向かって小さく呟いた。


 「君は今、どこにいる?」


 答えはない。

 けれど風が頬を撫でた。

 それがまるで、彼女の指先の感触のようで――僕は思わず目を閉じた。


 涙が落ちた。

 苦味と甘さの混ざった感情が、胸の奥でゆっくりと広がる。

 彼女が言っていた“輪郭”の意味が、今になってようやく分かった気がした。

 悲しみの輪郭があるからこそ、愛の形を確かめられる。


 僕は心の中で静かに言った。

 ――「君、ありがとう」


 風が止んだ。

 夜の街は静まり返っていた。

 その静けさの中で、確かに感じた。

 彼女はもう遠くへ行ってしまったけれど、

 僕の時間の中では、今も変わらず生きているということを。

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