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揺れた日、そのままで

あの夜から、彼女の話が頭の中で何度も再生された。

 「地震のあとに、止まった」

 その言葉が、どこか遠くの鐘の音みたいに、耳の奥で鳴り続けていた。

 僕は何度も思い返してみた。

 いつの地震のことを、彼女は言っているのだろう。

 あの街を揺らしたあの日のことだろうか。

 テレビ越しに、瓦礫と煙とサイレンを見ていた、あの午後のことだろうか。


 僕は気づけば、再びあのコーヒーショップに向かっていた。

 店内には、あの日と同じ香りが漂っていた。

 焙煎された豆の苦い匂いと、古い木のテーブルが放つ微かな埃っぽさ。

 まるで店そのものが、時間を閉じ込めて保存しているようだった。


 彼女はやはりそこにいた。

 窓際、同じ席、同じ姿勢で。

 その静けさは、もはや奇跡ではなく、自然現象のように思えた。

 「君を待ってた」

 彼女はそう言って、グラスに指を当てた。

 「ねえ、君は、覚えてる?」


 「何を?」

 「地震のこと。あの日のこと」


 僕は答えを探すように、店の外を見た。

 午後の光が街を淡く照らしていた。

 あの日の映像が、ふいに脳裏をよぎった。

 机の下に潜る学生たち、鳴り止まない携帯の警報音、

 崩れたアスファルトの亀裂。

 遠くで立ち上る白い煙。

 けれど、僕がどこにいたのか、その瞬間に何をしていたのか、なぜかはっきり思い出せなかった。


 「君は、どこにいたの?」僕は尋ねた。

 彼女は少しの間、黙っていた。

 その沈黙は、まるで水の底に落ちていくみたいだった。

 やがて、彼女は静かに口を開いた。


 「学校にいたの。放課後だった。教室の窓から、夕焼けが見えてね。オレンジ色の光が床に伸びて、すごく綺麗だった」

 「……」

 「でも、急に光が揺れた。地面が波みたいに動いた。机が倒れて、黒板のチョークが全部落ちて、音がした」


 彼女はその情景を、まるで今そこにあるもののように語った。

 僕は息をひそめた。


 「私は走ったの。外に出なきゃって思って。校門の外には、君がいた」

 「僕が?」

 「うん。確かに君だった。名前は知らなかったけど、君の姿が見えた。制服のポケットに手を入れて、空を見上げてた。……その瞬間に、地面が崩れたの」


 僕の胸の奥で、なにかが鳴った。

 記憶の奥底に、長い間閉じ込めていた音が、そこから漏れ出した。

 あの夕方、確かに僕は、地震のあと、誰かの名前を呼んでいた。

 校門の前で、黒髪の少女が走ってくるのを見た。

 そのあと、瓦礫の音と、悲鳴と、世界が傾いた。

 それきり、記憶が途切れている。


 「そのあと、どうなった?」

 僕の声は、自分でも驚くほど小さかった。

 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。

 「光が消えた。音も。何も感じなくなって、気づいたらここにいたの」

 「ここ?」

 「うん。この店。最初から、君を待ってた」


 店の時計の針が、カチリと音を立てた。

 秒針が動いているのに、なぜか時刻は変わらないように見えた。

 僕は息を飲んだ。

 この店だけが、彼女の“世界”なのかもしれない。

 彼女が“止まって”しまった、あの日の続き。


 「君は……死んだの?」

 僕はようやくその言葉を出した。

 彼女はすぐには答えなかった。

 テーブルの上のグラスに映る光を見つめていた。

 その光が、涙のように震えた。

 「死んだ、のかもしれない。でも、君に伝えたいことがあったから」


 「伝えたいこと?」

 「うん。あの日、私は君に走っていった。君に……言いたいことがあったの」

 「それは……」

 「好き、って」


 彼女の声が震えた。

 その瞬間、僕の中で何かが崩れた。

 思い出した。あの夕方、校門の外で僕を呼んだ声。

 ――「君!」

 確かに、彼女の声だった。


 「僕も、覚えてる」

 彼女は驚いたように僕を見つめた。

 「覚えてる?」

 「君が走ってきた。笑ってた。何か言おうとして……」

 言葉が喉の奥でつかえた。

 その先を思い出そうとするたびに、強い痛みが頭を締めつけた。


 「そのあと、僕は何をしたんだろう」

 「たぶん、泣いたと思う」

 「君は、僕を見てたの?」

 「うん。少し上から。君が私を見つけたとき、泣いてた」


 彼女の指が、グラスの結露をなぞった。

 その跡が、水の輪になって残った。

 それはまるで、時の記録のようだった。

 彼女は微笑んで言った。

 「だから、私の時間はその時から動かないの。君が泣いてる顔が、最後の景色」


 僕は何も言えなかった。

 ただ、目の前の彼女が、存在と記憶のあいだで揺れているのを見ていた。

 息をしているのに、生きていないような、

 それでも確かに“ここにいる”という気配。


 外では、風が強くなっていた。

 街灯が点き始め、通りを歩く人の影が長く伸びた。

 その影のひとつひとつが、まるで別の時間を歩いているように見えた。


 「ねえ、君」彼女が言った。

 「もし、また地震が来たら、私はどうなると思う?」

 「わからない」

 「たぶん、やっと動く。止まっていた針が」


 彼女は微笑んだ。

 その笑みは、どこか“さようなら”に似ていた。


 僕は胸の奥で小さく祈った。

 どうか、この世界がもう少しだけ静かでありますように――

 彼女の時間が、もう一度だけ動き出すその瞬間を、僕が見届けられますように、と。

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