止まった時間のその少女
次に彼女と会ったのは、三日後の夕方だった。
あのコーヒーショップは、日が沈みかける頃がいちばん好きだ。
店内のライトがまだ本気を出していない時間帯、ガラス越しの光がゆるやかに傾いて、テーブルの上に長い影を作る。その影のなかで、彼女は同じ席に座っていた。あの日と変わらぬ姿で。
僕はドアを押して、店に入った。彼女は気づいていたように微笑んだ。
グラスの水に指先で輪を描いて――あの合図を。
僕も、カップを半分だけ右へ回した。
世界が静かに「再生」ボタンを押したみたいに、時間がまた動き出した気がした。
「来てくれると思ってた」と彼女は言った。
「どうして?」
「だって、約束したもの。合図は永遠だから」
彼女の言葉の中には、「永遠」という言葉が当たり前のように置かれていた。
僕は笑って、ブレンドを頼んだ。店員がそれを運んでくるまでのあいだ、彼女は窓の外を眺めていた。制服の袖口から覗く手首は細くて、どこか儚い透明さがあった。
「君、学校は?」
「行ってるよ。朝もちゃんと起きたし、授業も受けた」
「そう」
「でも、授業の内容はあんまり覚えてないの。ここで話したことの方が、ずっと頭に残る」
彼女はそう言って、少しうつむいた。
その横顔を見ていて、僕はふと奇妙な感覚にとらわれた。
あの日の朝、彼女を初めて見たときと、何ひとつ変わっていない気がしたのだ。
髪の長さも、表情も、制服の皺の寄り方さえも。
あの日のまま、時が止まったように。
「君は……変わらないね」
僕がそう言うと、彼女は小さく瞬きをした。
「変わらない?」
「うん。三日前と同じ服だし、髪も切ってないみたいだし」
「髪は、伸びないの」
「伸びない?」
彼女は笑って、頷いた。
「うん。ずっとこのまま。朝になっても夜になっても、変わらないの。鏡を見るたびに同じ私がいる」
それは、まるで“比喩”のように言った。でも、彼女の声には現実の温度があった。
冗談ではない、そう感じた。
僕は口をつぐんだ。代わりに、珈琲を飲んだ。苦味が舌に残った。
彼女は窓の外を見つめながら、静かに続けた。
「ねえ、君は、昨日の夜の夢を覚えてる?」
「夢?」
「うん。たぶん、私が見た夢と、君が見た夢は同じ」
僕は曖昧に笑った。夢を共有するなんて、そんな話を信じるほど子供ではない。
けれど彼女の瞳には、そんな空想を打ち消す力があった。
「どんな夢だったの?」
「夕方の川の近く。風が強くて、木の葉が舞ってた。君は橋の上にいて、私はその下から君を呼んでた」
僕は言葉を失った。
その夢を、僕も昨夜、見ていたのだ。
同じ川、同じ橋、同じ風の音。
僕の記憶の中で、彼女は確かに、橋の下から僕を見上げていた。
「それ……本当に見たの?」
「うん。夢の中で君が言ったの。『行かないで』って」
僕の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
夢を共有するなんて馬鹿げている――そう思いながらも、
彼女が言葉を紡ぐたび、僕の中の時間感覚が少しずつ壊れていくようだった。
彼女の存在は、現実と夢のあいだのどこかに立っている。
その線引きが、どんどん曖昧になっていく。
「君、いくつなの?」
「ずっと同じ。……高校二年生のまま」
「まま?」
「うん。時計の針が動かないの。誕生日も来ない。昨日と今日が、ずっと続いてる」
彼女の声は、決して悲しげではなかった。
むしろ、それが“当たり前”であるかのような静けさを持っていた。
それでも、僕は胸の奥に冷たいものを感じた。
「それって……どういう意味?」
「わからない。ただ、止まってるの。みんなの時間が流れていくのを、私は見てるだけ」
「怖くないの?」
「怖いよ。でもね、止まった世界の中でも、誰かに出会えると嬉しいの」
彼女は僕を見た。
目の奥の静けさの中に、確かに熱のようなものがあった。
僕はその熱を受け止める場所を探した。どこにも見つからなかった。
「ねえ、君は、時間が止まるって信じる?」
「理屈では信じられない。でも、君を見てると……わからなくなる」
「そう。じゃあ、私を信じて。止まった私を」
僕は頷いた。理由なんてなかった。ただ、そうするしかなかった。
そのとき、店の外で救急車のサイレンが鳴った。
遠くの方で、何かが通り過ぎていくような音だった。
彼女はその音に反応して、ふっと顔を上げた。
「……この音、聞いたことある」
「さっきも?」
「ううん。もっと前に。ずっと昔に。止まる前の日に」
彼女の声が震えた。僕は思わず身を乗り出した。
「止まる前の日?」
「うん。地震の音のあとに、これが鳴ったの」
店の時計が、午後六時を指した。
針が「カチ」と音を立てた。
その瞬間、なぜか僕の胸の奥で何かがずれた気がした。
過去と現在が、ぴたりと重なり合ったような――そんな感覚。
彼女は静かに言った。
「たぶん、あの日から、私はここにいるの。ずっとこの姿のままで」
彼女の声は消え入りそうに小さく、それでも確かに響いた。
窓の外の空は、群青と橙のあいだで揺れていた。
世界が夜に移り変わるその瞬間、
僕は確かに見た。
彼女の影だけが、光に追いつけず、
テーブルの上で時間から取り残されていくのを。




