悪魔
「俺思うんだよなあ。役者ってのはさ、待ち時間の方が長いんじゃねえのかなって。高いホテルを取ったって、寝るだけじゃもったいないって思わねえか」
次の仕事の時間まで控え室に一人で待機する私に客人が来た。
「私の邪魔でもしに来たのか、悪魔」
白い壁に取り付けられた大きなドレッサーと背もたれの厚い2人掛けのソファー。壁に掛けられた1メートル程の絵画。あと五人程が同室してもゆとりのある部屋で、私の声が反響した。
温い体温が後ろから私を包む。同時に私の心に支配的な感情が流れ込んで来た。
「おまえさんのお顔を拝みに来たんだよ。寂しかったんだ。本当、会いたかったぜ。」
悪魔は私の背後から囁いた。これが私の手品の種と仕掛け。役者である為に不可欠な存在。不可欠な存在には違いないのだが、飼い慣らしているはずの悪魔の言葉は束の間の喜びを与える代わりに、感情の有効期限が過ぎると不安に姿を変える。
「今日は散々な日だったんだ。ルイという団員に話しかけたのが間違いだった。私は彼の感情を奪ってやろうと思っていたんだが、私は彼の忙しない感情と無垢さに恐怖を抱いた。初めてとり乱し、私は逃げてしまったんだ。心底腹が立つ。しかも芋虫に食われる林檎のくせに舞台のオーディションにエントリーすると言い出した。私を引き留め、見ていてほしいとも言っていた。恥知らずだと思わないかい。きっと、神すら見ちゃくれないよ」
「へえ、そんなことがねえ。それと、焦っていたようだが、そんなんで怪我でもしたら今まで得てきた能力は全てなくなるんだぞ。契約のこと忘れるな、気をつけろよ。……しかし、にしても、まだ仕事するんだなあ」
「当たり前だ。観客からの拍手もスポットライトも全て私のものだ。他の奴らが私の代わりに手に入れるなんて虫唾が走る。私がいながら、役者の歴史に泥を塗るような行為は許されない。そのためにお前と契約したのだから」
私以外の誰かが評価される世界などおかしい。世界を正しいシナリオに導けない神など、私の信じる神ではない。盲目な神に私の存在を教えてやる。そのために私は悪魔を頼った。そして、確かに今世界が少しずつ正しいシナリオを辿っている……はずなのに、何故心の穴は大きくなっていくのだろう。私の辿るシナリオがまるで正しくないと神が嗤っているようだ。
「ねえ……ほんとにこれでいいんだよね」
ドレッサーに映らない悪魔は鏡越しの私を見て一体どんな表情で私の言葉を返すだろう。
「勿論さ。アベルならまだまだ上を目指せる。俺と組めば神にもなれる。スターのお前なら世界中を盲目に出来るんだからな」
悪魔は私が求める言葉を寄越すが、対価が必要な分、言葉を素直に受け取れない自分がいる。
「……お前が悪魔ではなく、神だったら良かった。願いを叶えてくれる君が万人受けする神なら僕はもっと胸を張ることが出来たのに」
世界の共通ヴィラン。その悪魔の手を借りることへ、時折虚しさが襲う。まるで私は偽りで固めた国の玉座に座っている暴君のような気がした。虚像に目を背けて自分の意思のみ押し通す哀れな王なのではないかとも思う。悪魔の囁きがなければ、いつもこの悪夢が過る。
「そんなこと言うなよお。悪魔はな、契約に忠実な生き物なんだぜ。神の気まぐれなんかよりも余っ程、思慮深いアベルに必要だろう。頂を見据えるお前がこれからどうするか、俺に聞かせてくれないか。この世界を正す影響力を得たいんだろう?」
そうだ、私は暴君なんかではない。偽りの国を正す英雄に成り得る存在だ。悪魔を飼い慣らしていることが悪と言うその倫理観そのものがおかしいのだ。私は間違っていない。
「私は、もっと世間に認められる役者になりたい。どんな手を使っても、だ」
後ろを向くと悪魔の機嫌が窺えた。足を組んで宙に浮かぶ悪魔はえらく上機嫌だ。透けそうな白髪を一つに結び肩から垂らす姿は背後から聞こえる低くかすれた声からは想像もつかない程美しい。白いレースを全身に纏ったまるで貴族のような風貌で私を見ていた。
彼が私の前に姿を見せたときから、とめどない欲望だけが膨れ上がる。役者を志した頃は欲に左右されず、願望を追いかけることだけが生きがいであったはずなのに。悪魔と出会ってから簡単に満たされる欲に溺れている。満たされれば満たされる程に貪欲になる。なんてタチの悪い感情だろうか。「認められたい」と望むあまり、いつの日か怪物に化けてしまった。このまま私は溺れ死ぬだけだ。
……これ以上は考えたくない。悲惨な結末と分かる物語など面白くない。
私は己の本性が綴られた本に栞を挟む。そして再び盲目のフリを続けた。もう二度とこの書物を開くことはないだろう。二度と。
「はは、そういえば、いつものロザリオはどこへやったんだアベル」
彼の言葉を聞くなり血の気が引いて視線は鏡に釘付けになる。どこでなくしたか見当も付かない。確かに数時間前まで私の首から垂れ下がっていたのに。
「嗚呼……そんな。私は神に見放されてしまったというのか。もし本当に見放されたのなら、私は必ず災難に見舞われるだろう。悪魔に魂を売った私の本性が世間に暴かれ皆が私を蔑むに違いない」
もしもからはじまる仮定の話とはいえど、もしかしたら体感するだろう感情が私を支配する。それが厭に現実味を帯びていた。気味の悪い心地だ。
鏡に貼り付けた手形の周りは次第に白く曇っていく。同時に私の視界も霞んできた。肩で呼吸をしていると悪魔はギヤギヤと笑い始めた。
「がははっ、すまないが、その、なんだか可笑しくなっちまってさ。ロザリオ無くして慌てる悪魔憑きなんて皮肉なギャグだなって……まあそんなもん無くたって安心してくれよ。俺様の方が神なんかよりもアベルを守ってやれるんだから」
悪魔の言葉は不思議なことにその馬鹿にした話し方に気分が逆なでられるよりも、寧ろ、深呼吸しても収まらなかった気分が随分落ち着いた。
彼の双眼では何が見えているのだろうか。まるで手に取られたように私の感情を透かし、求める言葉を与えられるのが不思議だった。
「ディズ。どうしてそんなにも私に尽くすんだ。契約に書いてなかったはずだろう。契約に忠実な悪魔がどうして……」
悪魔は皆から恐れられる存在だ。しかし目の前で宙に浮かび足を組み替えるディズィは私にとって人間よりも神よりも慈悲深い存在だ。ディズだけではなく、この慈悲深さが悪魔の本質ならば……悪魔の悪評が全ては神を美化するための虚偽の植え付けならば、悪魔と契約してしまった私の中の誤算が取り除かれる。取り除ける。取り除きたい。どうか私の問いの本質を透かして答えておくれ。
「どうしてかって、俺がアベルに恋してるからだ。俺の魂が愛を求めるんだ。知らなかっただろう、悪魔も恋するんだぜ。子孫繁栄とは違うから性別なんてどうでもいいんだ。人間と同じ、立派な情ってやつさね。欲に忠実にいることが悪いなんて言うのは神だけだ。ハニーなら俺の愛を理解してくれるだろう」
「はは、悪魔も恋をするとはね。そうだね、悪い気はしないよ。悪魔の恋心を奪うわけにはいかない。初めて、キスできないこの能力を恨んだよ」
悪魔への誤算がとり除かれることは無かった。悪魔の本質はどうやら世間通りらしい。しかしこの恋で彩られた眼前の彼は違う。謂わば大富豪のジョーカー。上手く使えば勝利、誤れば手元から消え去り自滅へ向かう一度きりの切り札。利用するか、しないか、私は前者を選んだ。扱いにくいジョーカーでも上手く利用しさらなる高みを目指すために必要なのだから。目先の富に眼を奪われて計画が粗くなる悪い癖は顕著に言葉に表れた。私は悪魔の前でも演じることを選んだのだ。感情を見破る悪魔の前で。
「そろそろ時間だ。またあとでね、ダーリン」
私が折角愛の言葉を囁いても、恋人呼びをしても「ああ、俺がいるから安心しな」と、いつもの口癖と拘束のように抱きしめるだけ。私の偽った感情は、恋する悪魔の前では、はね除けられてしまうのだろうか。不意にまた焦燥感が走る。恋心という感情は実に偉大だ。利用価値が高い。しかしながら恋は脳の異変、つまり勘違いから起こるもの。脆く、去って行くのも時間の問題。悪魔の恋が冷めないようには時間稼ぎをなるべく行わなくてはいけない。少しでも長くつなぎ止める為に必死になるなんて。こんな考え、私らしくない。だが今日の悲劇で痛感した。もう、悪魔しか私の協力者はいない。膨大な富と名声を得るためなら、多少の不利益が被るのも仕方ない。
「そうだね、君がいれば安心だ。行ってくるよ」
次の作戦を考える間もなく、出番が迫る。ディズの頬に唇を落とす。未だ、悪魔の本質が突けずに相違点を見つけられない人間の恋と悪魔の恋。悪魔などたいしたことは無いと、軽視していたにもかかわらず、得意げに猿芝居を披露する。私欲に溺れた愚か者に相応しい物語だろう。