孤独な天才
自身の元へと伸びる一筋の光と、先にある世間からの賞賛を求め、小さな檻の中で奮闘する役者の卵達。承認欲求と、向上心の境界線が曖昧な劇場は、アベルという役者を形作った故郷だ。
「ここは昔から何も変わらないんだね」
この言葉に故郷を忍ぶ感情はない。恒常的な弱者達が争い繰り広げる醜態を侮る感情のみが溢れるあまり、嘲笑となる。
故郷に良い思い出などない。劇場へ足を運んだのは改めて檻の中で蠢いている奴らを檻外から見て、己が優れている役者であることを再確認する為だ。この優越感を得ることに比べたら、主役を仕方なく引き受けることなど、たいした重荷ではないのだ。まあ、せっかくならファンサービスでもしてやろうか。優秀な役者である私の立ち振る舞いを見せてあげよう。私のいない中での練習風景を特別観覧席から見下ろす中、そんなことを思った。
「そろそろお暇しようか。そうだ。その前に少しみんなと話がしたい」
近くの団員に話しかけ、階段を降り、お遊戯会後の舞台に向かった。すぐに劇場中が噂を聞きつけ人が集まってきた。私を偶像化している奴らが拝むように囲む。
「端役だからといって気を抜くのはいけないよ、一丸となってこの公演を成功させよう」
何重にもなった円は熱気を帯び、私は閉じ込められた。始めは気分を良くしていたが、すっかり騒がしくなった辺りに苛立ちを覚える。
「君が準主役だね。さっきの演技は良く言えばオリジナリティのある演技だった。君は誤魔化し、誑かしが得意だから役者になったのかな。ははっ」
まったくもって哀れだ。まるで砂漠に現れた大輪の花にあれよあれよという間に群がる芋虫。蝶にも成っていない未熟者で空を羽ばたくことも出来ない芋虫風情のくせに。
「では、そろそろ」
未熟者芋虫風情の行進に逆らう。しかし霞んだ視界では正確に人の位置が定まらない。そのせいで細々した身体にぶつかった。肩を掠めれば尻もちを付くほどの貧弱な体格の青年。果たしてこんな体幹で役者がつとまるのか。
「失礼、怪我はないかい?」
私が舞台を去ると群れは去る。動きやすくなった周囲。同時に、尻もちを付いた彼は私の来訪を知ってか知らずか、目が合うと気を動転させた。
「あっ、あっあっ、そのっ、貴方はアベルさん……でしょうか?」
動転した彼は地に着いた尻を持ち上げて、両手両足で後退する。だらしなく口元が緩まるのをみて、風の噂で聞いた記憶が過る。この劇場には忙しない感情が仇となり、舞台に立てず、舞台袖で床を掃き日々を過ごすそんな冴えない役者がいると。今も一人で迫真の演技を続ける眼前の彼こそ噂の正体だろう。
役者にとって感情は武器だ。台詞は覚えるのではない。知っている状態にしてこそ素晴らしい緊迫感が生まれる。そうして初めて、真実の言葉になり、観客に放たれる。しかしその武器を扱えない限り武器はただの鉄の塊。感情と共存できなければ台詞なんてものはお飾りでしかない。役者と名乗る以上、途端に扱いきれない感情は荷物になる。彼は上等な武器を抱えながら握り方も理解していない。まさに宝の持ち腐れ。まったく、心底腹が立つ。
「しっ、私は騒がしいのが苦手なんだ。ほら、早く立ち上がりなさい、いつまで座っているんだ」と言うと、彼は首がはち切れる程頷く。
埃を払いゆっくり立ち上がった猫背の男は口元をもごつかせて眉を下げた。小刻みに何かを発したがる口を手で塞ぐ。幕引きや天井の配線、木目の床。上や下忙しなく眼球が動くくせに私と目が合わない。きっと内心混合する感情の手綱が引けず、混乱しているに違いない。自分だったらもっと使いこなせるはずだ。迫り上がる嫌悪を屈託で誤魔化す。神も落ちぶれたものだな。こんな冴えない奴に与えるくらいなら私に与えるべきだ。きっと今頃、失態に悔やんでいるだろうと胸元のロザリオを握りしめた。
「怪我はなさそうだね……では、私はこれで……」
これ以上待ったとして、聞かされるのは私に合ったことへの喜びを長々と連ねるだけだろう。また人が集まる前に早々に撤退しようと一度背を向けたが、折角なら土産がほしい。彼が持て余す役者としての武器を奪ってやろう。神の失態を正し、許せるのは私しかいない。思わず自身の優秀さに心酔してしまう。
「あ、でも、そうだなあ。こんな出会いも何かの縁。君と出会えたんだ、君のこともっと教えてくれないかな、きっと、迷惑だろうかな。君が良ければなんだけど……いいかな?」
彼に対する空虚な心に愛念と好奇心を込める。感情を言葉に乗せると、心持ちは慈善活動に専念する心優しい少年に代わる。これは私だけの種も仕掛けもない、破れない手品。
「ぼくとおはなし、してくれるんですか?ほんとうに??」
「もちろんだよ。そうだ、まだ聞けてなかったね。君の名前、なんて言うのかな」
「ぼく、ルイって言います。その……ここの団員なんですけど、えっと、そのぉ、あがり症で、舞台に立ったことなくて。でもね、いつかアベルさんと同じ、舞台に立つのが夢なんです。はっはい……」
ルイは林檎のように耳まで赤くなった顔を必死に上げている。なんて愚かで、無謀な夢だろうか。その夢は悪魔が自滅を孕んで誘惑しているだけだと気が付かず、必死に追いかけて滅ぶ悲劇のよう。滑稽で仕方がない。お前に、私がどんな喜劇よりも、面白い素敵な結末を与えてやろう。猫背のせいで、私よりも背が低いルイの頭を撫でる。
「馬鹿なんてことないさ。夢はどんな宝石よりも、人を輝かせる最高のアクセサリーだ。私は君の……ルイの前向きな姿勢が好きだよ」
己の企みを誤魔化すように手を滑らせ顎を掬い、優しく包むように微笑んだ。私の隠しきれない獲物に執着する獣の眼差しが彼の瞳の奥に灯されていた。
私はもう一つ手品が出来る。相手を虜にすれば他者の感情を奪える禁断の手品。これを披露してしまえば、宝石にも匹敵するルイの持つ感情が手に入る。謂わば怪盗と宝石を守るヒロイン。宝石を盗られることなど露知らず、無様に恋に落ちるヒロインのよう。そして彼もまた、既に私に取り込まれる哀れなヒロインになっていた。後少し、身体を近づければ……。
「ここにいたのね。ルイ。さっき決まった話なんだけど、来週臨時でオーディションがあるらしいのよ。せっかくだし貴方も行きなさいよ。好きでしょ、アベル」
ルイの背から話しかける女性は私がいることを知らないようだ。ルイの返事を待つ女性に気を取られている間に心が移ろったら大変だ。外の声は一度芽生えた感情を殺してしまう。
「今は私だけの声に集中して。外野の声は聞かないで」
ルイの耳を塞ぎ、外の世界を遮断してしまえば二人だけの世界に閉じ込められた彼はまさに袋のねずみ。
「ルイ、君は魅力的だ。愛してるよ」
「あ……」
虚言を吐いて強引に作り出したムードが霧散しない内に唇に触れる。驚愕、混乱、喜び、独占欲、自己嫌悪、恐怖、恥じらい……。
ルイが持つ、目眩がする程の感情が流れ込む。お前が虚ろになるまで私が全て貰い受ける。そんな邪心が唇に触れる前、悟られはしなかっただろうか。
ゆっくり唇を離すとルイは頬に手を置いて硬直していた。幕引きの後ろで返事を待つ女性の心配を受けてルイは「心配しないで、何にもないから。また後で決めようかな、ありがとう」と言って淡々と私から離れた。様子がおかしい……。私が感情を奪い、私に心酔した人は話すことも出来ないはずなのに。
「アベルさん、愛してるなんてまだ早いんじゃないでしょうか。演技の練習なら、ぼくよりも適任がいるはずです」
落ち着いた様子で振る舞うルイの背筋が伸びて、気が付けば私はルイを見上げていた。忙しないあの感情を全て奪うには随分と長い時間が必要だったのだ。
「嗚呼、嗚呼……」
完璧なシナリオが崩れてゆく。こんな事態を経験するのは初めてだ。アドリブが求められる今、己の言動一つで結末が変わってくる。頭の中が真っ白になる。本能的に湧き上がる恐怖が、ルイから奪った分増幅されて焦燥感を掻き立てた。
ルイの影はアベルに覆い被さる。まるで、私がロザリオを強く握り、上から落とされる眼光から逃げ惑う姿が滑稽だとでも言いたげだった。
「あっ、ちょっと待ってアベルさん!貴方は有名人なんだから一人で帰るなんて危ないですよ!」
声が追いかけてくる。やっとの思いで劇場から飛び出したものの、肩を掴まれてしまった。澄んだ青空と心地よい風に気など回らない。心音は増すばかりだ。後ろから加わる力に足が止まる。強く握ったロザリオが手から滑り落ちる。ああ、こんなに強く祈っても、神の救済などなかった。
「私を捕まえてどうするつもりだ。何がしたい?愚かだと嗤うつもりか、それとも哀れむつもりか……どちらにしても、そんなこと絶対に許されない」
空虚な心を満たすのは、他者から奪った感情ではない。己から生まれる感情で満たされ、溢れだす。表情に、言葉に、声色に現れた。
「ありがとうございました。ぼく、オーディション受けます!貴方に届くように。だからオーディション、見ててください」
「……は?」
おかしい。私の手品は他者から感情を奪うことは出来ても、知性や記憶を奪うことは出来ないはずだ。何故彼はこんなにも、希望に満ちた清々しい表情を浮かべているのだろうか。私は感情を剥がしきれず失敗したのだ。眼前の男は私に奪われてしまった感情に気が付いているからこそ追いかけてきたのではなかったのか。返せと怒り狂うわけではない。彼は私に礼を言うだけ。なんて奇妙なんだ。
しかし、もし本当に私の企みに気が付いてなかったならば、不幸中の幸い。神が微かに私に与えた救済であろう。恐怖や焦燥感はいつの間にか消失し、安堵が心を満たした。
「うん……私も、ルイと共に舞台に立てることを願っているよ」
安堵で満たされたお陰で、彼に合わせたアドリブも難なくこなせた。またルイの顔が赤くなる。異なるのは、しっかりと緑色の瞳が私を捕らえていることだ。そしてその目から私が逃げたことだ。これじゃまるで私の方が怯える獲物じゃないか。劇場の前の迎えを知らせる電話がなる。
「じゃあね、ルイ君。もう行かなくてはいけない」
幸いにも次の仕事に向かう口実が出来た。後ろからまだ声が付いてくるが気にもとめずに車に乗り込んだ。哀れな林檎の行く末など、一日経てばきっと私の中から消え去るのだろう。