無敵の深呼吸
いつの時代にも、若手と呼ばれる世代に一定数生息する勘違い営業ヤロー。その思慮のない行動が引き起こす彼の小さな災難。
上司の課長は、ことあるごとに「君は、慌てずに少し落ち着いて仕事に取り組んだら成績が伸びるよ」とか「訪問先に着いたら、ドアを開ける前に深呼吸をして」など俺を新人扱いしてきやがる。
俺が何年目だと思ってんだよ。
「課長、昭和の営業を押し付けないでくださいよ、今はコミュ力、その場に合わせたノリが大切なんですよ」といつか言い返してやりたい。
「深呼吸?」アナログ人間はこれだから付き合い切れないな。と、いつもの課長とのやりとりをふと思い出し、ムカついてきた。
さて、今日最後の訪問は、その課長から割り振られた新規営業先。地下鉄出口からGoogleマップを手元に、10分歩いたところに目的のビルはなかった。
「なんだよ、」と、仕方なく課長から聞いて走り書きしたメモを見ると、スマホのGoogleマップに間違った番地を入力していたことに気づいた。
「行き先くらい今どきチャットで送ってくれよ」とため息をつき、舌打ちしながら正しい番地を入れる。
スマホの到着予定時間は5分後、さすがの俺も少し慌てて歩き出す。西陽が首筋に当たり、ワイシャツの背中も汗も搾れそうなくらいだ。
ミンミンゼミが俺をさらにイラつかせる。「なんだよ、このビルだったのかよ」
10分ほど前、スマホに夢中で目の前を通り過ぎた、存在感のない古びた昭和の雑居ビル。
7.8階建だろうか。時計を覗くと社長との面談まで残り3分ある。
こわばっていた顔と体から、すーっと力が抜けた。「間に合ったな、やっぱ俺はヤル男だ」と心の中で軽口を叩いてしまう。
1階正面の重いガラス扉を押してビルの中へ入ると、昭和のアナログな雰囲気がビル全体の空気を重くして、思わず課長の顔を思い出してしい、慌ててかぶりを振って頭から追い出した。
エレベーターに向かう細長い通路の床は古い大理石で、コツコツと靴音だけがこだまする。
突き当たりのエレベーターはたったの1台。「ホント、昭和のアナログビルは使えないんだよ」俺は口が悪いのではなく、真実に対して誠実なだけだ。
エレベーター待ちの先客が2人、コイツらはいかにも昭和世代のアナログ人間だ」。
1分近く待たされ、次第にイラついてきたところで、上から降りて来たエレベーターが「チーン」と間抜けなベルを鳴らす。
ガタガタと開いたドアにアナログの2人がのっそりと乗り込んだ。
「エレベーターもオッサンも昭和アナログはトロいぜ」と心の中でつぶやき、さらにイライラが増す。急いで乗り込み、早く動けよと振り向きざまに素早く「閉」ボタンを叩き、タンターンとリズムよく続けて8階ボタンを押した。確かに、そのつもりだった。
ところが動き出したエレベーターの中で、直ぐにけたたましくベルが鳴る。「キーン、キーン、キーン・・・・・」「おいおい、何だってだ」。
すると行き先パネルの上、小さなスピーカーからは「ハイ、コチラハボウサイセンター、ボウサイセンター、ドウシマシタカ?」途切れとぎれの声が聞こえた。まさか、俺がやってしまったのだろうか。
ドキッとして恐るおそるパネルに目をやると、俺が押したボタンは、黄色い非常ボタンだったのか。
まさか、
非常ボタンと縦に並ぶ8階のランプはついていなかった。のんびりと上がるエレベーターの中で、「ドウシマシタカ?」は止まらない。
俺がやっちまったんだなと状況を理解したけれど、さすがに小さな声で「間違えて押しました」と返答してみる。
それなのに呼びかけは続く、それどころか「ダイジョウブデスカ?」と、あっちはさらに緊急度を上げてきた様子。
恥ずかしくてたまらないけど、もう一度「間違えて押しました」と少し声を張ってスピーカーに向かってみる。
お陰でようやくスピーカーからは新たな反応が返ってきた。ホッとしたのも束の間、「ヨクキコエマセン、オチツイテ、シンコキュウシテ、オオキナコエデ、ジョウキョウヲオシエテクダサイ」と。
すでに俺は詰んでいる、さすがに観念してしまった。素直に指示通り大きく深呼吸してみた。
そして後ろのアナログ2人にもよく聞こえるよう大きな声で滑舌良く「ま、ち、が、え、て、お、し、ま、し、た!」と。数秒間があり「ハーイ、リョウカイデース」スピーカーは、からかい気味な声を最後にプッツと切れた。
でも、指示通りに深呼吸をしたせいか、思いのほか俺は冷静だ。
背中に刺さる視線も恥ずかしさも受け止められるくらいに。
また思い浮かんできた課長の顔にも、心は穏やかだっだ。
実際の経験を元に書いてみました。
街ですれ違うフワフワした見るからに頼りなさそうな若手営業パーソンたち。失敗から学ぶ一つひとつが、将来部下や取引先から信頼される企業人への糧となります。