86 死神
十層のボス部屋にて待ち受けるのは、偉大なる不死者、吸血鬼が十体。
「風のように命が吹き去って行く」
青白い肌にスキンヘッドの異形。涎を垂れ流す口には長い牙が覗いている。
「部屋の中に死の吐息を感じる。
全ての苦痛と困難が閉じた目の奥で溶け去り、区別する由もない」
俺が祝詞を詠み上げる間、吸血鬼たちは怯えたように逃げ惑い、最早、戦いにもならない。
「全ては甘く。全てが燃える。
やがて青ざめた唇の女が現れる。女の名は『死』」
さて、今は怯えた吸血鬼共が逃げ惑う『ボス部屋』だが、ここはアレックスが大剣を振り回せる程の広さが確立されている。
「お前は、もう考えることも泣くことも笑うことも出来ない。
眠りを望み焦がれる。百年も千年も眠れ」
俺は首を振った。
「焔の中で眠れ。呪われし者よ」
この祝詞は長過ぎる。実戦向けじゃない。
「使えんな、これは……」
神官服を翻す俺の背後で、十体の吸血鬼たちの身体中から青い焔が噴き出して阿鼻叫喚の悲鳴が上がる。
「お見事です。ディートさん」
「何処がだ。今の術は、あれでも半ば祝詞を端折ったんだぞ? 使い物にならん」
知恵もない獣同然の魔物だからこそ、術が発する気配に怯えて逃げ惑うばかりだったが、これが知性ある魔物だとこうは行かないだろう。
結局――
アレックスたちは間に合わなかった。散開した召喚兵たちは現在七層を殲滅中であり、二人はその召喚兵を追って七層に居る。
「頭の悪い奴等だ……」
俺は、溜め息混じりに指を鳴らした。
「勝手にやってろ」
今頃、七層では突如として召喚兵が消え去った事で、アレックスとアネットは右往左往しているだろう。
「ロビン、帰るぞ。明日は十一層から攻略を開始する」
大量の魔素を吸収したが、精神の高揚から来る不快感や苛立ちにも慣れた。今の俺は落ち着いているし、これからの予定も既に考えてある。
明日、二十層まで攻略し、そこまでの経験を元に、ヒュドラ亜種に対する本格的な討伐プランを構築する。
「ディートさん。今日はお疲れ様でした」
「うん。思い切りやって清々したぞ。お前は少し退屈だったろう。明日は、お前の力に期待している」
「全て、このロビンにお任せあれ」
ロビンとそんな会話を交わす間にも、吸血鬼たちは盛大に燃え盛り、断末魔の悲鳴を上げてのたうち回っている。
「なんだ、割としつこいな……」
アスクラピアの高位神法『断罪の焔』だが、祝詞を略したせいか、今一燃えが悪い。
俺が術の具合に愚痴っていると、ロビンが、ついと顔を逸らして失笑した。
「……ディートさん。これは呪われた者を断罪する焔です。酷い言い方をすれば、苦しめてから殺す術ですよ」
「そうなのか? それは悪い事をしたな……」
この吸血鬼共が完全に息絶えるまで、エレベーターに繋がる玄室への扉は開かない。かと言って、新たに術を掛けて殺し直すというのも不細工な話であるし、そもそも面倒臭い。
「……」
腰の後ろに手を組み、やむを得ず吸血鬼たちが燃え盛る様を見ていると、寄り添うように背後に立つロビンが口を開いた。
「部隊を率いてのダンジョン掃討戦。今日は勉強になりました」
「そうか。以後も任せる。お前の将才に期待している」
やがて断罪の焔が吸血鬼たちを焼き尽くし……玄室へ続く扉が重々しく音を立てて開いた。
そこで――
「誰か空間転移して来ます。失礼」
言うや否や、俺を抱き上げたロビンは数メートル程も飛び退いた。
「空間転移……?」
顔を上げると、ボス部屋の中央部分の空間が陽炎が立つように歪んでいる。
流石、異世界。空間転移とは恐れ入った。
ロビンは油断なく抜剣し、ボス部屋中央で揺らめく空間を見つめている。
「魔力の流れを感じませんでした。巻物を使ったのでしょう。おそらく、負け犬とクソ女です」
「ああ……そんなものがあるなら、早く使えばいいだろうに……」
「ボス部屋は特殊な結界が張られています。吸血鬼が死んで、その結界がなくなったのでしょう」
これは新事実だ。
つまり、『ボス部屋』というのは特殊な空間で、一度戦闘に突入してしまえば、外から新たに戦闘に参加する事は出来ない。
だが、待て。
ヒュドラ亜種は、てっきりボス部屋を支配する魔物だと思っていたが、アレックスは何と言っていた? 確か四二層と言っていた。という事は……ヒュドラ亜種は『ボス』ではない?
深層では予想外の何かが起こっていて、それこそアレックスがパーティを壊滅させてしまった原因だろう。
「……少し話してみるか……」
アレックスが話すその事情によっては、攻略プランを練り直す必要がある。
そして――
陽炎のように揺らめく空間から姿を現したのは、ロビンの予想通りアレックスとアネットの二人だった。
◇◇
空間転移により現れたアレックスは、燃えカスになった吸血鬼共を見て、一瞬だけ驚愕の表情を見せた。
「ディート、これは……」
そう。俺が一人でやったのだ。言葉を切り、やや視線を伏せたアレックスは俺と目を合わせない。
その方がいい。
俺とロビンは、今日一日で膨大な量の魔素を吸収した。それがどういう意味を持つか。
アレックスは苦い表情で煙を上げて燻り続ける吸血鬼共を一瞥して、漸く俺と視線を合わせた。
「凄い魔素量だ……派手にやったな……」
「ああ」
俺は腰の後ろに手を組み、静かに頷いた。
「それで、アレックス。お前に聞きたい事があった。ヒュドラ亜種は『ボス』か?」
「……多分ね。おそらく『ボス部屋』から出て来たんだ……」
「ふむ……そうか。分かった」
どういう理由か分からないが、ヒュドラ亜種は『ボス部屋』から出て来た五十階層のボスだというのがアレックスの考えのようだ。
不意の遭遇戦がアレックスの悲劇になったとすれば、パーティ壊滅の納得出来る理由になる。
「そうか……なるほどな……」
もっと聞きたい事がない訳じゃないが、これ以上のお喋りは、もう沢山だ。
俺は改めて言った。
「さて、アレックス。お前の選択肢は二つある」
「……?」
「今、俺を殺しておくか、それとも見逃すか」
今の俺はダンジョン探索を終えて疲弊している。勿論、簡単にやられてやるつもりはないが、アレックスが俺に本気で殺意を抱くなら、それを叶えるには今が絶好の機会だ。
「分かっていると思うが、俺は大量の魔素を吸収した。明日の俺は、今日の俺とは別人だ。殺すなら今しかない」
それ故、ロビンは抜剣したまま警戒を解かない。冷たい視線はアレックスとアネットを見つめたままだ。
そのロビンの冷えきった視線を躱し、アレックスは小さく舌打ちした。
「……あたしらは、パーティの仲間だろ……」
「いいえ。違います」
答えたのはロビンだ。
「貴女は私たちを馬鹿にしています。仲間でも何でもない。寧ろ敵対していると言っていい」
俺は腰の後ろに手を組んだまま、アレックスがどう反応するかを見つめていた。
「貴女は何度もディートさんに対する殺意を仄めかし、今朝に至っては連絡の一つもない」
俺は肩を竦めて笑った。
「今日は休みだったんだ。なあ、アレックス」
その俺の冗談に、ロビンは肩を揺らして失笑した。
「どうした。笑えよ、アレックス。お前の好きな冗談だ」
「……」
俺の言葉を静かに受け止めるアレックスは、にこりともしない。額に汗を浮かべ、ただ口を噤んでいる。
「……なあ、お前は何処まで本気なんだ? 本気で仲間の仇を討つつもりがあるのか……?」
「…………」
アレックスは俯き、険しい表情のままで答えない。
つまらない。
だが、俺の怒りが深刻である事は理解しているようだ。そこだけは評価してやってもいい。
俺は小さく息を吐く。
ここから先は、話すつもりがなかった事だ。
「……俺は……お前が最強の戦士の一人だと思っていた……」
これは、何の根拠もない一目惚れに近い述懐だ。
一目見たその時から、俺は、このアレクサンドラ・ギルブレスが最強の戦士の一人として完成していると思っていた。
「……っ!」
調子の変わった俺の言葉に、アレックスはハッとしたように俯きがちだった顔を上げた。
「だからこそ、お前を厳しく諌めもしたし、治療にも尽力したつもりだ」
そこでアレックスは唇を噛み締め、肩を落として項垂れた。
「……ああ、悪かったよ……」
「謝るな。感覚ではない。判断が誤るのだ。俺が間違っていただけだ」
その過ちの代償が、俺の寿命二十年とは腹立たしい。こんなヤツの為に命を削ったかと思うと、俺は自身の愚かさが許せなくなる。
「アレックス……お前は、暴力的で不誠実で……短慮だ。貸していた物を返してほしい」
母の手は二本ある。
これも白蛇から教わった事だ。
制限は厳しいが、母の『奪う手』には対象の命を奪い取る術がある。
俺は、ゆっくりとアレックスの前に進み出る。
その身体が青白く輝いている。その髪の中に銀の星が舞っている。
見る者全てが『終わり』を覚えずには居られない。その姿は正しく……
無防備に進み出た俺を庇う事すら忘れ、ロビンが、ごくりと息を飲む。震える唇から思わず溢れ出た言葉は……
「……アスクラピア……?」
そしてアレックスは動けない。
「ちょっ、待っ……!」
『蛇』に睨まれた蛙のように動けない。
「あたしは、まだやれる……戦える!」
俺を見るアレックスの表情が、恐怖に歪んでくしゃりと潰れた。
「……仲間が……仲間の為に……」
己の最期を予感して、アレックスの言葉は徐々に萎んで行く。
俺は優しく微笑む。
「……大丈夫だ、アレックス。戦士は、皆、そう言うんだ……」
その光景を見つめるアネットも額に大汗を浮かべ、一言も発する事なく成り行きを見守るだけだ。
「だが、そんな事はない。お前が居なくとも、残された者はなんとかやって行く」
誰もが動かない。その『運命』を前にして、誰もが動けない。
「お前は良くやった。後は任せろ」
「あたしは……まだ……」
迎えが来たのだ。
それを悟ったアレックスの顔が絶望に歪む。
俺は……
「冗談だよ、アレックス! そうビビるな!!」
小さい手で、ばんばんとアレックスの背中を叩きながら、俺は破顔して見せた。
「あは、あはは……!」
その場にへたり込んだアネットが、乾いた笑い声を上げた。
アレックスは溶け出したのではないかと思う程の大汗を浮かべ、それが滝のように太い筋を作って顎先に伝っている。
人に殺す等という冗談を言う時は、本気で殺すつもりで言うものだ。そうでなければ意味がない。
そうでなければ効果がない。
例えば……こんな風に。