83 悪徳と困窮
夜が更け、そろそろ人間の俺には厳しい時間になって来た。
◇◇
夜遅く、寝もやらずにいるのは困窮と悪徳だけだ。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
用心深く扉を開くと、そこに居たのは、お互いにそっぽを向いた格好のアシタとゾイだった。
「……なんだ、お前たちか……」
俺がこの世界に来て、アビーの次に見た奴らだ。二人共、俺に抱き着いて眠っていた。
俺は少しだけ気が抜けて……
「……すまない。今の俺は少し所か、かなりおかしくてな。せっかく来てくれた所を悪いが、今夜は帰った方がいい……」
「駄目だね。今のあんたは、一人に出来ない」
答えたのはアシタだ。
「嫌な感じだよな。分かるよ」
なんだ、こいつ。分かったような顔しやがって。というのが、今の俺の心境だ。
俺は首を振った。
「ロビンの命令か? それなら、俺の方から上手く言っておく。帰れ」
「駄目だね」
アシタは強情に言った。
「ここに来たのは確かにロビン姉ちゃんの命令だけど、そうじゃなくても、あたいは今のあんたを一人にする気はないね」
俺は舌打ちした。
「お前に何が分かる。自分が自分でありながら、書き換えられて行くようなあの感覚の何が分かる。そもそも、お前は『魔物』を殺した事があるのか?」
魔物……魔素を持つ怪物の総称。勿論、アンデッドもそこに含まれる。
アシタは険しい表情で俺を睨み付け、一歩も譲らない。言った。
「あるよ。あたいだけじゃない。そこのチビだって、それぐらいの事はやったさ」
「なに……?」
意外……でもないのだろう。
アシタもゾイもスラムで育った。まだ子供の二人だが、普通の子供とは違う。
「何処で……」
そのスラム育ちの二人は何処で魔物を殺す羽目に、殺さなければならない事になったのか。
その疑問に答えたのはゾイだ。
「……下水道だよ。あそこ、なんでも流れて来るから……」
その言葉に、アシタが顔を逸らして頷いた。
「…………ゾイは三年。あたいは、あそこで六年間暮らしたんだ。魔物を殺した事ぐらいあるさ……」
それは取りも直さず、二人が魔素の吸収を経験した事を意味している。
「……そうか。そうだったか……」
俺は右手で顔を拭った。一人、特別な事をしたと自惚れていた。
「すまない。どうかしていた。立ち話もなんだ……入ってくれ」
と言っても、ベッド以外には小さな文机しかないような狭い個室だ。
俺がベッドに腰掛けると、アシタとゾイの二人は、その俺を挟むようにして隣に腰掛けた。
アシタが、ぐいと俺の顔を覗き込んで来る。
「あたいはダンジョンなんて知らねえ。でも、あそこより、大分マシな所なんじゃねえか?」
「……」
分からない。俺があの下水道で暮らしたのは、たった一晩だけの事だ。
見習い修道女の格好のゾイが、俯いたまま言った。
「大勢、死んだよ。ゾイが知ってるだけでも、百人近く仲間が死んだ」
命がクソみたいに安い世界だとは思っていたが、ゾイの言う事が本当なら、それは俺の想像など遥かに超えている。
「百……なんだって……?」
あの不衛生。悪環境。おまけに魔物まで居るのなら、それもあるのか? だとするとそれはダンジョンに近い環境だ。いや、何も得られない分、ダンジョンより酷い。正に地獄だ。
「聞かせてくれ。お前たちの話を……」
そして、二人は話し出す。
綺麗も汚いもない、この世界の『孤児』の現実を話し出す。
……『下水道』……
『震える死者』が天然のダンジョンとするなら、『下水道』はこの世界の人間が作った人工的なダンジョンだ。ありとあらゆる汚泥と危険とが流れ込む地獄。その中で、安全が確保された小さな縄張りを巡って子供たちが殺し合う。
「……」
いつしか俺は魔素酔いの影響など忘れ、アシタとゾイの話に聞き入っていた。
「……あそこには、本当に色んな物が流れて来るんだ。魔物もいっぱい居たよ。大きいのから小さいのまで、本当、色々……」
その過程で魔物を殺し、『存在』を強化出来た者が次のステージに進む。
アシタが肩を竦めた。
「分かるよ。何でも出来るような気持ちになるんだろ? そういうヤツは何人も居たよ。皆、死んじまった。慣れて来たら分かるんだ。魔素はそういうもんだって」
「そういうもの……?」
「命知らずの馬鹿を、奥に引きずり込む為のエサだよ」
「……」
「あそこじゃ、殆どのヤツが生き残れない。あたいもゾイも、偶々、生きてるだけなんだ」
そこでアシタは立ち上がり、暖炉の中に薪と赤石を投げ込んだ。
ジリジリと薪が燻り、燃え上がるまでの間、俺たちは黙って火が立ち上がるのを見つめていた。
「ビーは、あんたは特別だって言って凄く大事にしてたよ。んで、確かにあんたは特別だ。訳が分かんねえ事知ってて、金が稼げて、度胸もあって、神さま の力まであって、あっという間に、あの地獄から、あたいたちを引っ張り上げちまった」
「……」
ゾイは寡黙なドワーフの少女だ。話してるのは殆どアシタだが、話の腰を折るような事はしない。それは、アシタと同じ気持ちである事を物語ってもいる。
その寡黙なゾイが、黙って懐から取り出した木彫りの人形を俺に差し出した。
「……?」
受け取ったそれは、アスクラピアの偶像だった。
だぼだぼの擦り切れたローブを来て、身体に蛇を巻き付けた復讐と癒しの女神。実際、俺が見たものとは少し違うが、それは確かに俺が信仰するしみったれた女神だった。
母は、いつだって見つめている。見守っている。
「……」
俺は強く母に窘められた気持ちになって、深く長い溜め息を吐き出した。
「……ありがとう、二人共。落ち着いた。もう問題ない。つまらない事で心配させてしまったな……」
俺は聖印を切り、アシタとゾイの二人に謝意を示した。
「…………いいよ」
答えたのはゾイだ。
そして……おかしな間がある。セクシャルな響きがある。
アシタが居て良かった。
今の俺は少し弱っていて、もしゾイと二人きりだったなら、必要以上に弱い部分を晒していたかもしれない。
なんとなくだ。本当になんとなく。殆ど無意識の内にした事だ。
俺は、この物静かなドワーフの少女を気に入っている。抱き寄せるようにして肩を引き寄せた所で――
アシタが火掻き棒で暖炉の中を乱暴に掻き回して、ハッとした。
低い声で言った。
「ああ、そうそう。少し気になる事があったんだ……」
振り返ったアシタは、火掻き棒で肩をとんとんと叩きながら、鋭くゾイを睨み付けた。
「おい、チビ。テメーはなんでここに来たんだ? ええ、おい」
それは、俺とゾイとの良くなり掛けた雰囲気を台無しにするのに充分な怒気と迫力を持った言葉だった。
「先生が、行って来なさいって……」
「……あのおばちゃんが、ディを垂らし込めって言ったってか? 違うだろ……?」
「……」
ゾイは黙り込み、目を細めてアシタを睨み返している。
「……先生を悪く言わないで……」
「なあにが、先生だ。思ってもねえような事を言いやがって……!」
ロビンはアシタを俺の元へ送り込み、ルシールはゾイを俺の元へ差し向けた。
しかし、四人共、狙いは全然別の所にあって、複雑な糸のように絡み合っているような気がする。
俺は、母の叡智と力を以てしても理解不能な謎を覗き見た感じがして、少し複雑な気持ちになって……欠伸した。
落ち着くと眠くなってしまった。
夜ももう遅い。こんな時間に寝もやらずにいるのは、困窮と悪徳だけだと母も言っている。
視線だけで火花を散らす二人を他所に、俺は神官服を脱いで壁に掛け、寝巻きのローブに着替えた。
「いっつもカマトトぶりやがってよ……テメーにいきなり殴られた事、あたいは忘れてねーぞ?」
「……なんのこと言ってるか、分かんない……」
俺はベッドに横になり、眠気にしょぼつく目を擦った。
眠りに就く前、ふと思い出したのはアビーの顔だ。
捨てられたガキ共の女王蜂陛下。
俺を拾ったのもあいつだった。今は何をしているだろう。人殺しで悪たれのアビーだが、あいつとの間には色々あった。全く情が湧かない訳じゃない。
元気にしているだろうか……
あいつに助けを求められたら、俺は、きっと、あいつを助けに行くのだろう。
(アビー……)
あいつの隣は、俺にとって、決して居心地が悪い場所じゃなかった……