76 白蛇
夢。
夢を見ている。
また、ここか。と俺は内心で息を吐く。
どうやら、しみったれた母は俺に用件があるようだ。
そして俺は、いつしか闇の中に立ち、怯える事なく目の前の闇と対峙している。
「よお、兄弟」
少しの距離を置き、現れたのは白髪痩身、盲の男。しかし兄弟とは馴れ馴れしいヤツだ。だが、それを不快に思わない俺がいる。
――白蛇。
砂と風に擦り切れ、草臥れた外套。その下に覗くトーガには剣に巻き付いた蛇の紋様が刺繍してある。『騎士』であると同時に『神官』でもある、世にも奇妙な変わり者。
その俺の思いを見越してか、白蛇は肩を竦める。
「我らの敬愛する母は嫉妬深い。俺をアルフリードに渡すのは嫌なんだとさ」
そう言って、白蛇は包帯を巻いた両目を虚空に向ける。その盲いた目は何も見えていない筈だ。だが――
そこには青いロウソクを持つ青ざめた唇の女が立っていて、僅かな距離を挟んで対峙する俺と白蛇を見下ろしていた。
「――!」
俺と白蛇は即座に膝を着き、しみったれた母の言葉を待つ。
『……新しい子よ……』
俺は頭を垂れ、小さく頷く事で直答を避ける。
アスクラピアは、酷く物憂い表情で言った。
『……お前はよくやっているが……まだ戦い方を知らない……』
それは……確かにそうだ。俺は『神官』。戦えない訳ではないが、能力の殆どは癒しの方向に振り切っている。弱ったアレックスを叩きのめした事は当然の帰結であり、あれは戦闘経験とは言えない。
「……」
沈黙を以て肯定する俺を、アスクラピアは静かに見下ろしている。
――静寂。
やはり物憂い表情で、アスクラピアは言った。
『……そこで……白蛇……新しい子に、少し稽古を付けてやれ……』
「御意」
白蛇が騎士の礼で答えた瞬間、心臓が激しく高鳴った。
――この男の力が見られる。
『神官』であり、『騎士』でもあるこの男は、間違いなく今の俺より強い。そいつが俺に訓練を付けてくれる。
気が付くと、俺は嗤っていた。
持ち得る全ての力をぶつけるとどうなるか。白蛇はどう応えるか。俺の目に何を見せてくれるのか。
刹那、俺は飛び退いてパチンと指を鳴らして十二の聖闘士を召喚する。
更にもう一度。念の為にもう一度。とりあえず三六体。
「……気の早いヤツだな……」
ゆっくりと立ち上がった白蛇は、小さく溜め息を吐いて首を振る。そして――
「身に纏う、錆び付かぬ鉄の魂」
その短い詠唱と共に現れたのは……のっぺりとした表情に甲冑を纏う『剣闘士』。右手に剣。左手には盾を構えている。それが十二体。
「……馬鹿な。剣だと……?」
母は『剣』によって殺された。故に剣を嫌う。
それに白蛇はこう答える。
「これは俺のオリジナルだ。お前に真似は出来んよ。出来たらまぁ……褒めてやる」
更に白蛇は二度指を打ち鳴らす。俺と同数の三六体。しかし、召喚された戦士の質は向こうがかなり上だ。
「……アルフリードの加護か!」
同数で押し合えば負ける。即座にそう判断した俺は次の手を打つ。
「星を射抜く孤独の魂」
アスクラピアの召喚兵の二。『狙撃手』の召喚だ。聖戦士と同じようにのっぺりとした顔に軽鎧を纏う所は同じだが、手にする武器は弓矢。それを十二体。
「……」
白蛇は呆れたように首を振る。
「数を揃えれば、どうにかなるとでも思うのか?」
それには応えず、俺は大きく息を吸い込む。
そして――叫んだ。
「 動 く な ッ ! 」
神力を込めた恫喝の正体は『雷鳴』だ。
「む……!」
雷鳴による攻撃は予想外だったのだろう。隙を突かれた白蛇は怯み、僅かに身体を硬直させる。
「今だ! 撃てッ!」
その俺の命令に、狙撃手は弓を引き絞り矢を放つ。
白蛇はポツリと呟いた。
「密集隊形」
剣闘士が白蛇を中心に集結し、菱形の陣形になって狙撃手の矢を受け止める。
被害は軽微。召喚兵の損失は三体という所。白蛇は無傷。
「今のは悪くなかった」
余裕、という訳ではないが白蛇は表情を崩さない。
勿論、俺は畳み掛ける。
そこに新たに三二の聖闘士が殺到するが……
「レギオー」
白蛇は口を動かすだけで、自らは一切動かない。召喚兵を動かすだけで、腰の剣を抜く事はしない。まだ本気じゃない。
だが、一つ分かった事がある。
白蛇……こいつは『指揮官』だ。
ヤツが一言呟く度に、召喚兵は陣形を組み、こちらの動きに巧みに対応する。
辺りは狙撃手が放つ矢の飛び交う乱戦になり、白蛇は新たに十二の剣闘士を召喚して周囲を固める。
その動きに合わせ、俺も聖闘士を召喚して周囲を固める。だがそこで……
「む……」
俺の『部隊』は、白蛇の部隊に半包囲されている事に気付いた。
元より召喚兵一体の力量差もあるが取り囲まれた事により、身動き出来ない遊兵が生まれた。
盾を持った剣闘士は、攻撃力、防御力共に聖闘士の上を行く。死兵が生まれた事により、大きな隙を作る事になった聖闘士たちは打ち砕かれ、虚空に消え去る。
「兄弟、遠慮するな。存分に術を使え」
「貴様もな、白蛇」
「そうするとも」
白蛇は嗤い、その周囲に無数の召喚兵が出現する。剣闘士だけじゃない。聖闘士も居れば狙撃手もいる。様々な兵種を備えたそれは――
『軍隊』の形成だった。
俺も負けじと召喚を繰り返し、数の上では劣らぬ部隊を形成する。
そこで白蛇は右の拳を掲げ、静かに祈る。
「百の勝利。千の栄光は金色に輝き映える」
召喚兵の強化。そんな事も出来るのかと感心する俺の前で白蛇は祝詞を重ね、更に戦力差を拡大させて行く。
勿論、俺も負けてはいない。
白蛇と同じく祝詞を重ね、召喚兵を強化して対抗する。
天上より、母は物憂い表情でこの光景を見つめている。
押されている。
形勢は白蛇の優勢であり、このままでは押し負けると判断した俺は、一度手を返し、戦力の集結に尽力した。
それを悟った白蛇が呟く。
「ファランクス」
攻撃型突撃陣。猛烈な攻勢が始まり、隙を突かれた事も相俟って勝敗は瞬く間に決した。
俺は必死に聖闘士を召喚して応戦したが、万事休す。
神力を使い果たし、せいせいと肩で荒い息を吐く俺の前に、抜剣した白蛇が迫る。
「詰み」
「……」
俺の喉元に、白蛇の剣が突き付けられた。
「なかなかよかったぞ、兄弟」
「馬鹿め、負けて喜べるか」
神力を使い果たした俺に対し、白蛇の口元は笑っている。まだ余裕を残している。
これで、もう一つ分かった事がある。
白蛇の正体……これは……
そうでもない限り、この神力の差は説明が付かない。人間が所持出来る神力を超えている。母が手離さない訳だ。
つまり、こいつは……本当に恐ろしい事だが……
その半分が、人間ではない。
俺は悲しくなった。
「……馬鹿なヤツだ……」
「……」
白蛇は口元だけに悲しそうな笑みを浮かべる。
秋の日射しのように、じんわりと優しくて寂しい笑顔だった。
俺を見つめるその眼差しは、草臥れた包帯の奥に隠されていて、何も伝えては来ないけれども。
だが、俺には分かる。この男と何かを共通する俺には分かる。
白蛇は言った。
「兄弟、俺のようになるなよ」
「ああ……分かった……」
◇◇
死せよ、成れ!
その一事を会得せざる限り、汝は暗き世界の悲しき住人に過ぎず。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
そして――
人は何処かへ至ろうとするとき、己というものを諦めねばならない。
この男には、そこまでしてでも譲れない物があったのだ。
それが何かは分からない。分かりたくもない。
俺は俺のまま。俺自身の足でこの道を踏み締めて行く。
白蛇は、ゆっくりと手を広げる。
「……今は戦おう。俺はそれしかやり方を知らん。お前には伝えたい事が山ほどあるんだ……」
「いいだろう。付き合ってやる……」
俺の中にはもう、神力の欠片も残っていない。ここから先は一方的な展開になるだろう。元より、人の身でこいつに敵うべくもなかったのだ。
何度もぶちのめされ、その度に引き起こされて戦いを強制される。
白蛇は容赦なく俺を苛む。
母の作り出したこの擬似的空間に於いて、俺は死ぬ事も逃げる事も出来ない。
「違う。その術はそう使うんじゃない」
叩き伏せられ、血反吐を吐きながら戦い続ける。神力を『絞り出す』。
「何をしている。母の手は二本ある。お前の手は一本しかないのか?」
今は戦い続ける。
きっと、白蛇の魂は戦いの中で練り上げられたのだ。
ある時は『騎士』として。
ある時は『神官』として。
合わせて十の徳と十の戒め。それらの上に白蛇の力は成り立っている。
「考える前に先ず動け。戦いの場に於いて、出遅れる事は何より致命的であると知れ」
母は、対峙する俺たちを見つめている。
生きるのに飽いたような物憂い表情。
その髪に星が舞っている。
女の名は――死。或いは……
白蛇は「俺のようになるな」と言った。だが、俺の進むだろう道の遥か先にこの男がいる。
おそらく……
俺は何かを与える代わりに、何かを奪われながら、この道を進むのだろう。
そう。白蛇のように。
だが、願わくば……
頭上に輝く清らかな銀の星が、新たなる道を指し示しますように……