69 ファンタジーの逆襲
壁に神官服を掛け、一気に静けさを取り戻した室内で、俺は深く椅子に腰掛けて大きな溜め息を吐き出した。
……ルシールに大きな借りが出来た。
一つ、偏りがなく正しいこと。
俺は、ルシールを『公正』に裁けるか。
◇◇
人間らしい過ちは、人間をより一層美しいものにする。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
「……くそっ」
近くルシールの罪は明らかにするつもりだが、俺にはルシールを公正に裁く自信がない。
母は、こういった人間の葛藤が大好きだ。
今も、何処かで俺のする事を見つめているのだろう。手を貸す事なく、ただ見守っているのだろう。しみったれていて、本当に嫌な女だ。
思い出したのは、両目共に盲いた白蛇の事だ。
『相変わらず、しみったれた女だ……』
ヤツも、散々、母には苛め抜かれたのだろう。今、思えばそれが滲み出るような言い種だ。
『母よ。俺も力を貸していいか』
そう。母の試練はいつだって手加減なしだ。助力は幾らあっても足らない。
母の課した試練を前に、困り果てた白蛇の姿を想像し、少し可笑しくなった俺は一頻り笑いに噎せた。
ヤツと俺の道が何処で交わるのかは分からない。だが、困難な道を進むのは俺だけじゃない。そう思うと、少しだけ楽になったような気がする。
『また会おう。果てしない旅の行く末に』
白蛇とは不思議な繋がりがある。ヤツの言う通りなら、いつか、この旅の行く末で交わる事になるのだろう。
俺は静かに聖印を切り、ほんの少しの間だけでも、この胸の葛藤を忘れさせてくれた白蛇の為に祈った。
その時が楽しみだ。だから……
「白蛇、死ぬなよ」
『俺』と『白蛇』と『ディートハルト・ベッカー』とは、不思議な繋がりを共有している。
◇◇
短い祈りを終え、寝巻きのローブに着替えて壁に掛けてあるランタンを手に取り、就寝の為に中の光石を外してしまう正にその時の事だ。
外の通路に繋がる扉から遠慮がちなノック音がして、俺は手に取ったランタンを壁に掛け直した。
「ようやく来たか。もう寝る所だったぞ。入れ」
一拍の静寂の後、僅かに開いた扉の隙間から、ひょこっと顔を出したのは口元に悪戯っぽい笑みを湛えたアシタだった。
「ようっ」
「ああ」
短い挨拶を交わした後、アシタは用心深く室内を見回して、それから部屋に入って来た。
「ここで話すのもなんだ。奥で話そう」
「おう」
アシタの来訪は、どうせロビンの差し金だろう。分厚い石造りとはいえ、壁一枚向こうはロビンの居室になっている。
どうせ聞き耳を立てているだろうロビンの為に思い切り壁を蹴飛ばすと、隣室から微かに物音がしたのが聞こえた。
「ちょっ、勘弁してくれよ……!」
「冗談だ。行こう」
慌てるアシタに笑い掛け、俺は寝室に向かった。無駄に有能なロビンに話の内容を聞かせないようにする為だ。
司祭の寝室には結界が張ってある。霊体や悪魔のような邪な存在は入れない他、多少の防音効果もある。ロビンの狂信と有能を以てしても、石壁と結界の防御を抜けて俺たちの話の内容を伺うのは難しい。
そう告げるとアシタはホッとしたのか、胸を撫で下ろすように大きな溜め息を吐き出した。
「それで、差別主義者の手下よ。なんの用だ」
「レイシス……なに? すっげーヤな響きの言葉だな、それ……」
俺は応えず、ベッドの脇にあるテーブルから水差しを取り、二つのコップに中身を注ぎ、一つをアシタに突き出した。
アシタは少しコップの匂いを嗅ぎ、それから少し中身に口を着けた。
「ハッカ水だ。少し甘くしてあるから、飲みやすいだろう」
「ああ、伽羅水か。あんたらしいよ」
俺もコップを手にベッドに腰掛けると、アシタも倣って隣に腰掛ける。少し距離が近すぎるが、寝室に来客用の椅子はない。気にしない事にした。
「……」
アシタは寝巻き姿の俺を値踏みするようにじろじろと見て、それから言った。
「ロビン姉ちゃんの事、許してやってくれよ」
俺は鼻を鳴らした。
「あの差別主義者には、暫く会いたくない」
「暫くって、どれくらい?」
あいつは有能だが、度々以上に俺を怒らせる。最早、愛想が尽きかけているというのが本音だ。
ハッカ水を一口飲み、俺は言った。
「とりあえず、三年ほどは見たくない顔だ」
俺がそう答えると、アシタは怯んだように少し仰け反った。
「あ、あんた、本当に変わらないな。マジ容赦ねえ……」
「これでも、ヤツには寛容に接しているつもりだ。他に言う事がなければ出て行け」
「だから……」
アシタは、ほとほと困り果てた様子で頭を抱えた。
「それをロビン姉ちゃんに伝えるあたいの身にもなってくれ。殺されちまう」
「ふむ……そうか。少し考えさせろ」
アシタとは、アビーの下で一緒に生活した仲だ。この聖エルナ教会でも、しばしば顔を会わせる事になるだろう。そう思えば奇縁。少しぐらい顔を立ててやっても罰は当たらない。
「……」
コップを両手で回しながら暫く考える。あの差別主義者が骨身に滲みるような罰を考えていると……
アシタが思い出したように言った。
「そうだ。ゾイの事だ。あんたに言いたい事がある」
「うん? ゾイがどうかしたか?」
アシタは眉を寄せ、厳しい表情でシャツを捲り上げ、脇腹の部分を見せた。
「……!」
アシタの筋肉質な脇腹は、重量のある鉄の棒で突かれたように少し陥没しており、痛々しい青痣が広がっていた。
「なんだそれは。誰に――待て、すぐ治してやる。何故、先に言わないんだ」
間違いなく肋が折れている。祝福程度では治らない重傷だ。
右手に蛇を喚び出し、そっとアシタの脇腹に触れるとエメラルドグリーンの光が射して、ぼんやりと辺りを照らす。
「あっ……」
傷に触れた事で少し痛みが走ったのだろう。アシタは、一瞬、身体を震わせたが、次の瞬間には表情を緩めて癒しを受け入れた。
痛々しい青痣が消え、陥没していたように見えた肉が盛り上がり治癒してしまうと、アシタは痛みから解放された為か、またしても大きな溜め息を吐き出した。
アシタは一拍の間を置いて言った。
「ゾイにやられたんだ」
「なんだって……?」
意外。その思いが顔に出たのだろう。アシタは溜め息混じりに首を振った。
「あんたはゾイを信用し過ぎる。ロビン姉ちゃんは、まるっきり間違った事を言った訳じゃない」
「…………」
人には二面性がある。俺自身もそうだ。オリュンポスでの残酷とも取れる行動は、ゾイには語って聞かせたくない。
アシタは真剣な表情で続ける。
「あいつがあんたの所に行くって言ったから、一緒に行こうって言ったら、いきなりズドンだ。あたいじゃなかったら、マジで死んでるぜ、これ」
「む……」
「ゾイはあんたにぞっこんだし、あんたがそれを憎からず思ってるのは知ってるけど、ゾイだって孤児なんだ。あたいも人の事は言えないけど、ゾイだって、それなりのワルなんだぜ?」
「……」
俺は黙ってアシタの忠言を聞いていた。
一つ、偏りなく正しいこと。
アシタの言葉には耳を傾ける価値がある。俺の心情は、確かにゾイに寄り過ぎている側面がある。
「さっき、ゾイが来てたよな。きっと、自分が何したかは言わずに、あたいの事を悪く言っただろう」
「……」
ここでアシタと一緒になって、ゾイの事を悪し様に言うのは違う。俺は沈黙を選んだが、この場合の沈黙は雄弁な肯定でもある。
アシタは小さく舌打ちした。
「やっぱりかよ。いいか? ゾイは以前からカマトトぶるとこがあったけど、あんたの前では特にそうだ」
「……分かった。気を付ける……」
苦々しい思いで忠言を受け取った俺に、アシタは厳しい表情で頷いて見せた。
「それと、あんた、ロビン姉ちゃんを殺そうとしたよな。あんとき、すげえ嫌な予感がしたからな。ロビン姉ちゃん、傷付いてたぜ?」
「……」
耳に痛い話だ。俺はゾイの心情に寄り添うあまり、公正を欠いた。
「……すまなかった。ロビンには詫びておく……」
「ああ、そうしな。ロビン姉ちゃんは確かに性格悪いし、無茶苦茶意地悪い所があるけど、あんたの為を思ってるのは間違いないんだ。そこは少し評価してやりなよ」
「……分かった」
素直に頷いた俺の様子に満足したのか、アシタはそこで険しい表情を緩めた。
「……まぁ色々と言ったけど、ゾイは確かにいい子だよ。素直だし、賢くて気が利く。嘘つきってのも違うからな。あんたが気に入るのも分かる。でも、だ。分かるよな? これ以上は言わねえぜ?」
「……」
俺は溜め息混じりに頷いた。
難しく考える事を嫌い、肝心な所が抜けていて、中途半端な印象が強かったアシタだが、『公正』であるという一部分に於いては評価できる。少なくとも、俺などより余程公正な視点からの忠言だった。
俺は言った。
「……アシタ。これからも頼む……」
もっと気が利いた言葉があると思うが、我ながら不器用過ぎる自分が情けない。最早三十代の男と言うのが躊躇われる程だ。
謝意を示す為、何度も聖印を切る俺をアシタは困り顔で見つめている。
ぽそりと呟くように言った。
「まぁ……あんたは……分からず屋ではない、よな……そういう所は……いいよ……嫌いじゃない……」
俺の知識には偏りがある。
その偏りある知識の幾らかでも埋める為に素直に耳を貸す俺を、アシタは唇を尖らせ、困った物を見るように目尻を下げていたが、ふと思い出したように付け加えた。
「後……あの妖精族の血を引いたおばちゃんの事だけどな……」
「妖精族……? おばちゃん?」
まだ何かあるのだろうか。うんざりだと言いたい。俺に説教を食らうアビーの気持ちが痛い程理解出来た。
アシタは困り顔で言った。
「妖精族自体は、とっくに滅んでてもういない。でも、あのおばちゃんは、あたいでも分かるぐらい妖精族の特徴が出てる」
「……誰の事だ? まさかとは思うが、ルシールの事を言ってるのか?」
こいつ、死にたいのか? 妙齢の女性に年齢の事は禁句中の禁句だ。大人の男なら知っていて当然の常識だが……
「そう。そのおばちゃん。……あ、なんだ? まぁいいや。あんたには言いたい事が山程あるんだ。この際だから言っとく」
アシタも三十歳を超えれば理解出来るだろうが、この常識を知るにはまだ幼すぎる。恐怖に震える俺に、当のアシタは首を傾げて不思議そうにしている。
「妖精族っつうのは、すげえ悪戯好きなんだ。『人間』とは無茶苦茶に相性がいい」
そこからの話はこうだ。
妖精族というのは、元々が希少種族であり、数が少なかったらしい。人間とは非常に相性がよく、度々手を組んで、あっと驚くような悪戯をしたり、とんでもないお宝を手に入れたり、凄まじい英雄や悪人の導き手になったりと、『人間』との間に作った伝説のようなお伽噺は数多く存在する。
「気を付けろとまでは言わねえよ。妖精族は人間好きだからな。でも、あっと驚くようなとんでもない事があるかも知れねえ。見た目だけで判断しない方がいい」
わ、分からん! 金属バットが俺に有害な存在ではないという事は分かるが、何をどう注意すればいいのか全然分からん!
そこでアシタは片方の眉をつり上げた。
「あんた……頭は悪くねえのに、なんも知らねえように見える時があるな……」
俺の中身は異世界人だからな!
そう言ってしまう訳にも行かず、俺は顔をしかめる事でアシタの言葉をやり過ごした。
「……まあ、あのおばちゃんについてはゾイの方が詳しい。ゾイに聞くんだな……」
「ゾイが?」
そこでアシタは、呆れたように髪を掻き回した。
「そんな事も知らねえのか? ドワーフも人間に負けねえぐらい、妖精族とは相性がいいんだよ」
なんでもドワーフの作り出した伝説的な工芸品は、妖精族の力なくしては語れないものが殆どだそうだ。
「そ、そうなのか……」
そこからアシタは、妖精族の特徴について語った。
光り物が好き。嘘つき。悪戯好き。
そのどれもが今のルシールとは相反する性質のものばかりのような気がして、俺は少なからず困惑した。
「ロビン姉ちゃんの種族とは、無茶苦茶相性悪いからな。間に入る時は匙加減に気を付けるんだな」
「わ、分かった……」
種族相性というやつだ。
例外がない訳ではないが、これは本能に根差したものだから克服は難しいというのがアシタの話だった。
正に異世界。
アシタの語るゲームのような世界観は、聞いているだけでも目眩がした。
この時のアシタは、包み隠さず本当の事を教えてくれた。
ただ、言わなかっただけだ。
鬼人と妖精族との相性は、とことん悪いという事を。
話の最後に、アシタはこう言った。
「もう遅い。そろそろ寝ようぜ」
「ああ、そうだな……」
頭がずきずきと痛んだ。
ロビンの人種主義は、種族の特性のようなものなのだろうかと考える。だとすれば、これを矯正するのは不可能に近い。少なくともアシタの話から判断するにそうだ。
そこまで考えた所で、アシタは当然のように俺のベッドに寝転んだ。
「アシタ……なんの真似だ?」
「いいじゃん、一緒に寝ようぜ。ロビン姉ちゃんとは、もうヤってんだろ?」
「……」
中身はともかく、ディートハルト・ベッカーはまだ十歳だ。当然のように言うアシタの言葉は、正にスラム育ちの悪童の科白にしか聞こえない。
「このマセガキが……!」
◇◇
放埒に流れてはならない。常に自制せよ。赤裸々な人間の本能は、我が子に相応しくない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
俺は扉を開け放ち、大声で叫んだ。
「ロビン! ここに破廉恥な女が居るぞ!!」
「ばっ、おま、ちょっ……!」
すぐさま動けるように待機していたのだろう。隣室から金属音を伴う激しい物音がして――
一呼吸の間もなく狂信者が現れる。
「アシタ・ベル。いい度胸をしていますね……!」
破廉恥な鬼人の少女は、俺に忠実な狂信者の手に依って成敗、連行されて行った。