64 悪魔神官
◇◇
無秩序を忍ぶより、むしろ不正を犯す方がよい。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
ここが異世界でよかった。
そんな事を考えながら、ロビンを伴って居住塔の階段を下った俺は、扉口を抜けた先にある前室で怒り心頭のアレックスと対面する事になった。
「おはよう、アレックス」
俺が爽やかに嘲笑って見せると、アレックスは即座に爆発した。
「このクソガキが! 調子くれやがって……!!」
俺は唄うように言った。
「汝、礼に倣わざるは卑賤の輩」
アスクラピアの聖書にある『五つのこと』の一節を諳じた俺の姿を見て、ロビンが楽しそうに言葉を継いだ。
「無頼の徒は大事を成さず」
そして、眉間に険しい皺を寄せてアレックスと対峙していたルシールが続ける。
「忘恩の徒に真の友情は遂に得られず」
ロビンが上機嫌で続ける。
「妬む者は優しさを知らず」
最後は俺が言った。
「傲れる者は誠と信を望み得ず」
これを肝に銘じ、努々、忘るることなかれ。
「……」
母が言う所の『警句』を黙って聞くアレックスの両肩が激しい怒りに震えている。
「……クソガキ……今すぐ、あたしの両手を治せ……ぶっ殺してやるよ……!!」
「そうか」
俺は嘲笑った。
「俺は無秩序を忍ぶより、むしろ不正を犯したい」
ここが異世界で、本当によかった。
俺は、パチンと手を打った。
◇◇
奇跡は信仰の寵児だ。
アスクラピアの術は、主に『癒し』に関するものが多いが、俺が母と信仰するアスクラピアの『癒しの手』は、何も優しいばかりのものではない。使い方によっては非常に危険なものだ。
俺は礼拝堂に修道女を全員集め、声高らかに言った。
「よし、皆、集まったな。このアホを見ろ」
その言葉にロビンが吹き出し、ルシールは嘲るように鼻を鳴らした。俺の指差した先には……
「…………」
涎を垂らし、ぼんやりとした表情のアレックスが虚ろな表情で立ち尽くしている。
「さて、ここに居る皆は知っているだろうが、我らの使命は優しく希望に満ちたものばかりではない。ここに居るアホのように、暴力を背景に癒しを強要する愚か者も居る」
身に覚えがあるのだろう。ルシールを含めた何人かの修道女が険しい表情で深く頷いた。
「皆、知っているだろうが、敬愛する母の術には精神の安定に作用するものがある」
本来は、混乱や錯乱のような精神的な不安や異常を鎮める為の術がこれに当たる。ここに居るルシールら修道女たち『癒者』の能力は治癒方面に特化しており、彼女らでもこの術は使用可能だ。
「我らの道は険しく厳しい。時には素直に癒しを受け入れない者もいる。そんな時にはこの術だ」
敬愛する母の術により、精神的に安定したアレックスだが、その状態を通り越して、今は非常に意識レベルが低下した状態にある。
術に込める神力を暴走過多の状態にすると対象はこうなる。ある意味では、非人道的な拘束とも言える。普通のヤツにする事じゃないが、勿論、狙ってやった。
「よし、皆、このアホに何か言ってやれ」
ロビンが笑いに震える声で言った。
「負け犬なだけでなく、頭の中身も非常に残念です」
ルシールが眦をつり上げ、厳しく言った。
「時折、お前のようなならず者がいるのです。獣と何も変わらない」
ここが異世界で、本当によかった。
俺が元居た世界なら、マスコミや人権団体に社会的に抹殺されていてもおかしくない。
「ちなみに薬でもこの状態にする事が可能だ。麻薬や向精神薬がそれに当たるな。依存性があるから、非常時を除いてはあまり勧めない」
さて……
これから、このアホの治療を本人の意思を無視して行う訳だが……
「念の為、このアホを拘束しろ」
これは、愚かで哀れなジナとの間で起こった出来事からの教訓だ。
ゴミはゴミ箱に。
俺は、アレクサンドラ・ギルブレスという個性が好きじゃない。徹底させてもらう。
「御意」
短く答えるロビンに修道女たちが太い縄を手渡して、アレックスの拘束は完了した。
「こいつには、暫くアホでいてもらう。まぁ、十日といった所か……」
その間、食事はドブ臭い豚のエサであるし、意識レベルが低下したこの状態では、下の方は垂れ流しになる。
人権って、大事だよなあ……
と、のんびりと考えた所で、扉口から足音がして、慌てた様子のアネットが礼拝堂に駆け込んで来た。
そして――
ぼんやりした表情で拘束され、涎を垂れ流すアレックスの姿を見て、アネットは右手で顔を押さえて嘆息した。
「む、アネットか。身体の調子はどうだ?」
「え? あ、うん。ちょっと怠いかな……」
「そうか。後で診てやるから、少し待っててくれ。まさかとは思うが、このアホのように俺を殺しに来たと言う訳じゃないだろうな?」
アネットは顔を押さえたまま、少し呆れたように言った。
「アレックスを止めに来たの……遅かったみたいだけどね……」
その後のアネットの言い分はこうだ。
オリュンポスで、俺に徹底的な敗北を喫したアレックスは、その後、へし折られた両腕の治療の為『寺院』に向かった。
「……まあ、その時はまだ良かったのよ……」
その時のアレックスは意気消沈甚だしく、俯いて一言も発する事はなかったようだ。
「角を折られたみたいに大人しかったわ。あんたにやられたのが、余程ショックだったみたい」
「うん? 鬼人は、角を折ると大人しくなるのか?」
そこでアネットは顔をしかめた。
「鬼人の角は力の象徴よ。折られたら、おしまいね」
「猫人の尻尾のようなものか?」
「それ以上よ。角を折られた鬼人は鬼人じゃない。死んだも同然よ」
「……」
思い出したのは、悪たれのアビーに折られた角を接いでやったアシタの事だ。あの時のアシタは、アスクラピアに深い感謝を捧げていたようだったが……
漠然と過去を振り返る俺の内心とは別に、アネットは続ける。
「……それでね、寺院で出て来た神官が五階梯の新米で酷い事になったのよ……」
「何かあったのか? 寺院といえば、割とマシな神官が居るというイメージだったが……」
途端にアネットは眉を寄せ、厳しい表情で吐き捨てた。
「そうでもないわね」
アネットの話では、寺院に居る神官の腕前はピンキリで、いい神官に当たった時は問題ないが、悪い神官に当たると大変だそうだ。
そして、この時のアレックスは、正に悪い神官を引き当てた。
「あれ、神官とか言ってたけど、多分癒者ね」
「ふむ……まあ、素人目には分からんだろうからな……」
「信じられる? 骨を接ぐのに五回も失敗したのよ?」
「あ?」
アレックスの治療の場合、骨折箇所を元通りの形に『接ぎ』、母の術を使って骨を繋ぐ。この『骨を接ぐ』というのは非常に重要な事だ。この時点で失敗すると、骨折は治ってもその後の活動に大きな支障を与える。
「しかも、痛み止めの処置すらなかったわね」
「……それは、幾らなんでも、ないな……」
タフで痛みにも強いアレックスだが、それには流石にキレた。
その癒者だか神官だか分からんヤツの股間を思い切り蹴り上げた所で寺院から追い出され、二度と来るなと出禁を言い渡されたらしい。
「ははは、間抜けめ!」
俺は爆笑した。
その顛末にロビンは嘲笑し、ルシールと修道女たちは失笑する。
アネットは深い溜め息を吐き出した。
「そうね。でも、あんたの撒いた種じゃない」
「いい気味だ」
アレックスの奸計で、アビーに角を折られたアシタや、尻尾を切られたエヴァの事を思えばそれぐらい言っても罰は当たらない。
「そして、今か」
アネットは呆れたように首を振った。
「そう。あんたが、あれだけ苦労して繋いだ左手を、あんたが自分でへし折ったんだから、アレックスがあんたを恨むのも当然よ」
そう聞けば酷いマッチポンプだが……
俺はアスクラピアの子。
軍神アルフリードの剣により裂かれた母の腹から這い出し、軍神アルフリードですら呪い殺した癒しと復讐の女神の子。
さて、こいつは如何なる存在か。
「俺の敬愛する母は、しみったれていて復讐には寛大だ。多少やり過ぎたとしても問題ない。むしろ喜んで下さるだろう」
俺が浮かべる笑みに、アネットはごくりと息を飲む。
「アレックスを、ど、どうすんのよ……」
「五体満足に戻して返してやるから安心しろ」
さて、この俺は如何なる存在か。
善なる者か。悪なる者か。
俺が信仰する神は、二本の手と二つの顔を以て嗤う。