63 当然の事
夜。
聖エルナ教会の司祭に与えられた一室で、俺はベッドを挟んでロビンと対峙していた。
「……なぁ、ロビン。お前は、変態なのか……?」
「違うよ?」
そう答えたロビンは、綿のシャツにパンツ一枚という格好だ。刺激が強過ぎる。
ロビンは震える程の美人だが、頭の中が残念な事になっている。俺自身が、今は『ディートハルト・ベッカー』という十歳の少年である事を差し引いても、こいつに性的な魅力は感じない。
そのロビンが、目の前で人差し指を突き立てて言った。
「もう何度も一緒に寝てるし、遠慮しなくていいんだよ?」
「……」
この聖エルナ教会に来て、二日間、俺が寝込んでいる内に、この狂信者はやりたい放題やっていたようだ。
年上ぶって、『お姉さん』ぶるのもかなり癪に障る。
「水を飲む時だって溢さないように、お姉さんが口移しで飲ませてあげたんだ。今さらだよ」
ロビンのその一大告白に、俺は頭の中が真っ白になった。
「なんだと……?」
俺は、ディートハルト少年に申し訳なく思った。やつの貞操を守れなかった事を済まなく思った。
だが、だからこそ、これ以上ディートハルト少年をこの狂信者に汚させる訳には行かない。
俺は少し考え……慎重に言った。
「ロビン……俺は、今のお前より、いつものお前の方が好きだ……」
方便とはいえ、この狂信者に『好きだ』等と言う事は、惰弱を通り越して、最早、怯懦というべき恥辱だったが、ここに至っては仕方がない。
「……いつもの、私……?」
アスクラピアの神官大好きな狂信者は、意味が分からないというように首を傾げて考えている。
「そ、そうだ。いつもの格好いいお前だ。オリュンポスでアレックスの剣を弾き飛ばしたお前が好きだ……!」
くそっ! この狂信者に媚を売るとは、なんという屈辱だ!
「…………」
ロビンは唇に手を当て、少し思い悩む様子だ。しかし――
「……こっちが、本当のお姉さんの素顔かな……」
嘘だろ……
痴女と狂信者。過酷過ぎる二択に答えたつもりだったが、まさか痴女の方が本性とは……
「さぁ、もう寝るよー!」
「や、やめろー!」
激しい抵抗も虚しく、ベッドに引き摺り込まれた俺は、己の無力を嘆いた。
◇◇
ゾイやスイとも添い寝はしていた。だが、あれは過酷な寒さに耐える為のもので、決して疚しい理由からではない。
司祭の部屋は、しっかりした石造りで、隙間風が吹き込むようなパルマの貧乏長屋とは違う。狂信者と添い寝してまで寒さに備える必要は全くない。
ベッドの中、ロビンは背後から腰に手を回し、足を絡めて全身で俺に張り付いて来る。
「……今日のキミは、よかったよ……何て言うか……うん、全部よかったんだ……」
「……」
「分かるよ。慰められるの、嫌なんだよね……」
ロビンが耳元で囁いて来て煩い。
「……もういいんだよ……」
なんだ、この状況は。
「……お姉さんが、ずっと守ってあげるよ……」
悩ましげに囁くロビンの声を聞いていると、俺はなんだか口説かれているような妙な気分になる。
ロビンが掠れた声で囁く。
「……二人でダンジョンに行こう。魔素がキミを強くしてくれる。失った命だって、お姉さんが取り返すよ……」
以前の邂逅で、母は『力を得よ』と言った。そういう意味なのだろうか。『魔素』を吸収する事で、俺という『存在』はどうなるのだろう。
「なぁ、ロビン。魔素を吸収すれば、俺は失った寿命を取り戻す事が出来るのか?」
「……正確には違う。生命力が上がるから、結果として寿命が延びるんだ……」
違いが分からない。同じ事じゃないんだろうか。
知ったような顔をして過ごす俺だが、この世界での知識は幼いディートハルト・ベッカーの朧気な記憶と、母から与えられたものだけだ。偏りがある。
この異世界に来て二ヶ月近く経つが、未だこの世界は謎に包まれた部分が多い。『ダンジョン』もその一つだ。
「このままだと、人間のキミは、あと二十年も生きられない。そんな事、お姉さんには耐えられないんだ」
俺もそう思う。計った訳ではないからこれは憶測だが、寒暖差が五十度を超えるこの地では、『人間』という種族の寿命は驚くほど短いだろう。
「アレクサンドラ・ギルブレスが腰抜けでよかった。キミが無理する必要は、もうないんだ」
「……」
あくまでも、俺の為。教会騎士、レネ・ロビン・シュナイダーの優先順位は変わらない。こいつの当為に、ヒュドラ亜種の討伐は含まれない。
そして、ロビンの言葉は純粋な好意から放たれたものだ。それ故、俺はロビンを嗜める言葉を持たない。
「俺は……」
ロビンの甘ったるい匂いが揺れて漂っている。香水とは違う、女の匂いと呼べるもの。
「なんだってしてあげるよ」
理由や嗜好はどうであれ……
女の匂いと暖かさは、男を休ませるように出来ている。
「……だから今は……安心して、おやすみ……」
「……」
ロビンは……感情に寄り過ぎる。
底意地が悪く、傲慢な部分ばかりが目に付いていたが、それを抜いてしまうと一途で献身的な性分が際立つ。これは『戦士』の資質とは言えない。矯める必要がある。
それが出来なければ、ロビンは何れ死ぬだろう。
この女はムカつくし、頭の中身もかなりおかしいが、俺の為に死なせてもいいとまでは思わない。
この純真一途な性分がロビンの本性だとするならば、これを矯めるには長い時間が必要になるだろう。
意識に、眠りの帳が落ちる。
◇◇
そして、翌日早朝。
暖炉では、薪が燻ってぱちぱちと小さい音を立てていた。
その中で、濃く甘いロビンの匂いが揺れて漂っている。
……よく眠った。
ロビンは抱き着いているだけで、おかしな真似をする事はなかったし、適度の暖かさで熟睡できた。
しかし――
未だ、静かに寝息を立てて眠るロビンだが、俺の腰に回した手を放さない。苦しくはない。だが、身体を起こそうとしても微動だにしない。
「ぬう……!」
眠ったままのロビンと格闘する事暫し――
「……!」
不意に、ぱちりとロビンの目が見開かれた次の瞬間。
「おいごら! 出て来い! ディートハルト・ベッカー!!」
聖エルナ教会全体に、アレックスの凄まじい怒号が響き渡り、それが目覚ましの合図になる。
ゆっくりと身体を起こしたロビンは、恐ろしく低い声で唸るように呟いた。
「……負け犬に吠え立てられる事ほど、苛立つ事はないですね……」
余程、腹が立ったのだろう。
覚醒したその瞬間から、ロビンの瞳は鮮血の紅に染まっていた。
「ディートさんは寝ていて下さい。私が対応致します」
立ち上がり、忌々しそうにコバルトブルーの髪を掻き上げたロビンのシャツの袖を軽く引っ張って引き留めると、ロビンは、かくんと膝を落とし、案外簡単に足を止めて振り返った。
「……なにか?」
素っ気なく答えたロビンだが、これ以上なく困ったように目尻が下がり、瞳の色がたちまち元の色へと戻る。
「俺も行く。一緒に行こう」
「しかし……」
「まさか、その格好で行くとは言わんだろうな?」
ロビンはシャツ一枚にパンツ一丁という、事後を思わせるような格好だ。
「……そうですけど、いけませんか……?」
「駄目に決まっている」
階下にある前室では、アレックスが怒鳴り散らしているようだが、その怒声に混じってルシールの金切り声も聞こえる。
「とりあえず、顔を洗って着替えて来い。その後で俺の準備も手伝ってくれ」
「…………分かりました……」
教会騎士の責務上、ロビンの居室は俺の居室の隣にある。
アレックスの来訪に怒りを露にしていたロビンだったが、俺の言葉に従って、渋面を引っ提げて自分の居室に帰って行った。
そのロビンの背中を見送って、居室内にある桶の水で手早く顔を洗う。
神官服は格好いいし、お気に入りのユニフォームだが、着付けに多少の時間が掛かるのが難点だ。
扉口を抜けた前室ではアレックスとルシールが激しくやりあっており、予想外にルシールが優勢なように聞こえる。
かなり怒ってはいるが、理性を失うほどではない。それがアレックスの精神状態のようだ。
戻ってきたロビンは男物のレギンスを履いており、出て行った時と同様に渋面のまま、俺の着替えを手伝ってくれた。
しっかりと神官服に身を包み、いつもの俺に戻った所で、ロビンが大きな溜め息を吐き出した。
「……それで、ディートさん。あの負け犬を、今度はどうなさるおつもりですか……?」
勿論、俺は必要な事を言った。
「入院させて、直に管理する」
困った患者は、そうするに限る。
なんなら拘束だってする。
馬鹿に付ける薬はないと言うが、寛容な俺は、そんなヤツにも対処する方法を知っている。
「ヤツは、殴られるより強く身に滲みる事になるだろう」
俺がにっこり笑うと、ロビンもおかしかったのか、顔を逸らして吹き出した。