62 彼方の上
シュナイダーが上機嫌で言った。
「これがディートさん……高位の神官の姿です。私の見立てでは、確実に第二階梯の力はあります」
確かに少年の力は凄まじい。遊び心で振り撒く祝福で井戸を浄化してしまうような事は、ルシールには到底出来ない芸当だ。
しかし――聖女ほどではない。
これが聖女なら、井戸に触れる必要なく、事を済ませてしまうだろう。それが『第一階梯』だ。本当に少年が『第二階梯』の神官だったとしても、そこには天と地ほどの力の差がある。
シュナイダーが当然の事のように言う。
「さて、ルシール。ディートさんが幾つ井戸を蹴飛ばしたか、ちゃんと数えていますか?」
ルシールには蓄財の趣味がある。彼女はいずれ還俗し、世間から離れて暮らすつもりでいた。
「九つです。その内、六つが民間に開放されています」
「そうですか。なら、喜捨は金貨で三百枚という所でしょうか……」
「妥当な所かと」
これをルシールが死ぬほど後悔する事になるのは、もう少し後の事だ。
◇◇
その晩、ルシールは少年から強い叱責を受けた。
いつも行っている炊き出しは『豚のエサ』と罵られ、『奉仕』の意味を即答出来なかった事を強く詰られた。
既に信仰を失って久しいルシールが、少年の問いに即答出来なかったのは当然だった。
ルシールの心に小さな迷いが生じたのはこの時だ。
これが『聖女』なら、決して怒らない。懇々と諭すだけだ。それで駄目なら諦める。だが少年は怒りを露にし、ルシールの行いに痛烈な皮肉で答えた。
失った筈の信仰心が痛むのだ。
少年の言う事は全く正しく、ルシールは返す言葉もなかった。たかが十歳程度の少年に叱責され、酷く落ち込むルシールがいた。
そして運命の日がやって来る。
ルシールは母への信仰を失ったが、母は、まだルシールを見捨ててはいないと強く知る事になる。
新たに司祭となった少年の指示で訪れたオリュンポスのクランハウスで、ルシールはあの悪魔の種子と再会する事になった。
ルシール・フェアバンクスはそれなりに経験を積んだ癒者だ。マリエール・グランデのそれはかなり進行しており、最早手の施しようがないように思えた。
少年は険しい表情で言った。
「……これが『癌』……悪性腫瘍だ」
見る者全てに不吉を連想させるそれは、エルフであるマリエールの美しさと相俟って、絶望という名の花が咲いているように見えた。
聖女、エリシャ・カルバートの言葉が脳裏を過る。
――それは運命なのです。
だが、ディートハルト・ベッカーという少年は言った。
「治す」
この瞬間、ルシールの胸に小さな明かりが灯った。
しかも、その手段は幾つもあるようだ。少年はその小柄に、恐るべき知性と知識とを秘めていた。それは、母の術を信奉する『聖女』にはないものだ。躊躇いなく外法を使う事で、この悪魔の種子から命を救う事が可能だと言う。
その時、ルシールは確かに母の大きな意思を感じた。
だが、少年は苦悩していた。
マリエール・グランデという女性の身体を切り刻む事は出来ないと苦悩していた。
これこそが人間性であった。
ディートハルト・ベッカーという少年は非常に苛烈であるし行動も過激だが、命を救う為とはいえ、何をしても良いと思うほど自惚れては居ない。これぞ正しく人間であった。断じて聖女のような怪物の類ではない。
少年は、この惰弱を笑えと言った。
誰も笑わない。
つん、と鼻の奥が熱くなる。ルシールの心は感動で震えていた。
この優しさを惰弱と笑う者は、絶対に許さない。
その覚悟で周囲を見回すと、あの傲慢なシュナイダーですら、少年の優しさに泣きそうな顔になっていた。
その小柄な身体に背負った苦悩を思うと、ルシールはひたすら頭の下がる思いだった。
生きとし、生ける者が救いを求める事は罪ではない。命というものは『運命』等という簡単な言葉で切り捨てていいものではない。
ルシールは正しかったのだ。
だからこそ、偉大な母は、この少年を自分の元へ遣わせたと思った。
色褪せた信仰が甦る。
それを決定付けたのが、あの説教だ。
希望と愛を秘めた信念を胸に、死と罪を糧にして進む道は、正に絶望の花が咲き乱れる蕀の道だろう。だが、その道には永遠の希望と使命とが燦然と光り輝く。
ルシールは確かに母の吐息を感じた。
母はいつだって見ている。見守っていてくれる。
裁くのでなく、憎むのでもなく、忍耐強い信仰が。信仰する忍耐が、神聖な目的へと導く灯火となる。
それは傲慢なシュナイダーに向けての忠言ではあったが、ルシールには、母と己の事を言っているように聞こえた。
この時、ルシールは、これと思う者と出会ったと思った。この少年は、ぼんくらのシュナイダーに任せていていい人物ではないと思った。
この一事により、ルシール・フェアバンクスは失った信仰心を取り戻した。
◇◇
そして、A級冒険者アレクサンドラ・ギルブレスとの決闘である。
ぼんくら騎士のシュナイダーと同様、ルシールはディートハルトの勝利を信じて疑わなかった。
高位の神官を敵に回す事は、軍隊を敵に回す事と同義である。それを侮って掛かったアレクサンドラ・ギルブレスは圧倒され、屈辱的な敗北を喫した。
だが、それにしてもディートハルトは苛烈に過ぎる。
危なげなく勝利を得て尚、アレクサンドラ・ギルブレスに対する処遇は厳格を極めた。
両腕をへし折った上、頭から紅茶を引っ掛けたあと、その小さな口から発したのは子供とは思えぬ残酷な決別の言葉だ。
「さよならだ。アレクサンドラ・ギルブレス」
これにはさしものルシールも恐怖に震えた。この苛烈さが己の方を向いた時の事を想像して、失禁しそうになった程だ。
しかし、ぼんくら騎士のシュナイダーは万事に於いて上機嫌だった。
「ルシール、見ましたか? これがディートさんです」
「……」
ディートハルトは苛烈過ぎる。
ルシールは聖女をおぞましいと思っていても、聖女個人を恐ろしいと思った事はない。そのルシールをして、ディートハルトの苛烈な性分は恐怖の対象だった。
帰りの馬車で、シュナイダーはベラベラと饒舌に喋り捲り、ディートハルトは終始鬱陶しそうにしていた。
聖エルナ教会に帰ってからもシュナイダーの上機嫌は続いた。
夕食時には、如何に己の頂いた主人が有能であるか、そして果敢であるかを滔々と語り、ルシールら修道女たちがいかに無能であるかを執拗に論った。
「どうしました、ルシール。遠慮なく食べなさい。お前たちがいつも作っているものでしょう」
自業自得だが、ルシールは、嬉々として『豚のエサ』を勧めて来るシュナイダーを激しく憎んだ。
レネ・ロビン・シュナイダーは青い狼の血を引く青狼族だ。ディートハルトに取り入る為だろう。能力を使って上手く尻尾と耳を隠して人間らしく装っているが、興奮時、瞳の色が赤くなる事までは隠し切れてない。
金、銀、青、赤、白。狼人の種族は五つあるが、どれも共通して言える事は、傲慢で粘着質である事だ。
狼人はとにかくしつこい。
よく言えば純情一途だが、一度これと定めた相手には死ぬまで付き纏う。今の内に遠避けるよう、ディートハルトには強く警告しなければならない。
だが、シュナイダーはディートハルトの苛烈な性分をこの上なく気に入っている。最早、耽溺していると言っていい程の入れ込みようだ。
……もう手遅れかもしれないが、その時は自分が何とかするしかない。
少しばかりとうが立っているように見えるが、ルシール・フェアバンクスという女は、妖精族の血を引いており、見た目よりかなり長命だ。ディートハルトはまだ子供だが、あと二十年ぐらいなら待てる。よし、行ける。
釣り合いが取れるようになった頃、二人揃って野に下り、離れた土地で小さな教会でも開けばいい。
別に邪な事を考えている訳ではない。アスクラピアに仕える敬虔な牧師とそれを支える修道女の関係でいいのだ。子供が何人か出来るかもしれないが、それはそれだ。
「……」
そこでルシールは首を振って、この妙な妄想を追い払った。
ディートハルト・ベッカーという少年は、子供のなりをしているが、立ち振舞いは子供のそれではない。あるべき『幼さ』がない。それがルシールをおかしくしている。
……そう。
ディートハルト・ベッカーは、知れば知るほどに、何処かおかしいのだ。
彼の感性や考え方は子供のものではない。それは、決して忌々しい『刷り込み』の影響などではないとルシールは胸を張って言える。
彼が子供なのは外見だけだ。中身はまるで……
そこまで考え、ルシールはまた首を振った。
それは、『焼き付け』以上にあってはならない事だ。
もし、そうなら……ディートハルト・ベッカーは『聖女』とは別の『何か』という事になる。
そして困った事に、ルシールはその『何か』を嫌いになれそうにない。
長所も短所もあるそれは、正しく人間であったからだ。
ディートハルト・ベッカーと聖女エリシャ・カルバート。
出会ってしまったその時は……
全く逆の個性の二人は強く反発するだろう。そして、どちらかが破滅する。
アスクラピアの戯れる指先は、如何なる運命を示唆するのか。
全ては彼方の上の出来事だ。
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