60 勇気を失うということは……
聖闘士に拘束されたアレックスが、地面を舐めるようにして押さえ付けられている。
◇◇
財貨を失うという事は、幾らか失うという事だ。気を取り直して、新たなものを獲得しなければならない。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
少し疲れた俺は、テラスにあるテーブルの紅茶を飲みながら、時折もがくアレックスを静かに見つめていた。
ルシールら七人の修道女たちは、顔を青くしてこの顛末を見守っているが……
お仕置きはここからが本番だ。
「左腕を折れ」
俺の命令を受け、聖闘士の一人が錫杖でアレックスの左腕を打ち、へし折った。
悲痛に満ちた悲鳴が上がり――
右手は元よりない。これで『戦士』アレクサンドラ・ギルブレスの戦闘能力は完全に失われた。
文句なしの完全決着。
「アレックス。何故、ここまで惨めな結果になったか分かるか?」
そこで割り込んだのは遠造だ。
「ま、待て、先生。待ってくれ……!」
「やかましい。今の俺は、この馬鹿と話をしているんだ。遠造、黙っていろ」
それでも、アレックスに駆け寄ろうとした遠造の前に、静かにロビンが立ち塞がる。
「アレックス。今のお前は、本来の十分の一も実力を発揮できなかろうよ」
俺の言う事に耳を貸さず、体力の回復に努めなかった結果がこれだ。それはもう、アレックスも身を以て知った事だろう。
俺は、一口紅茶を飲む。
「もう一度だけ、聞いてやる。何故だ」
「……」
アレックスは答えない。汗と土に塗れた表情をくしゃくしゃにして、不敵に笑っている。
「そんな事だから、仲間を死なせるんだ」
この馬鹿には、更なる罰が必要だ。
「右腕も折れ」
俺の命令を受け、再び聖闘士が無慈悲な錫杖を振るい、アレックスの義手を装着した右腕をへし折った。
苦痛に満ちた悲鳴が上がり、残酷なこの光景に、修道女の何人かが腰を抜かして座り込んだ。
遠造が叫んだ。
「待て待て、待ってくれ先生! ギルドから査察が入る所だったんだよ!!」
「……査察?」
そこからの遠造の話ではこうだ。
現在、このオリュンポスのクランランクはCだ。だが、先日のヒュドラ亜種との手酷い決戦の結果を受け、パーティは壊滅。そしてクランマスターであるアレックスには再起不能の噂が付きまとう。
冒険者ギルドとしては、その真偽を確かめる為、オリュンポスに査察に入ろうとした。その結果を踏まえ、再度このオリュンポスのクランランクを決定する為だ。
アレックスは、これ以上のクランのランク低下を避ける為、無茶を承知で幾つかの依頼を達成する必要があった。
と、言うのが遠造の言い分だが……
◇◇
名誉を失うという事は、多くを失うという事だ。
新しく名声を獲得せねばならない。
そうすれば、皆、考え直すだろう。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
「ランクの低下? 知らんな……」
そんな事は、やりたいようにさせて置けばいい。人の生は彩られた影の上にある。一時の浮き沈み等、取るに足らない出来事でしかない。
アレックスが呻くように言った。
「……オリュンポスは、あたしの全てだ……!」
呆れた。ここまで馬鹿だと、最早言葉がない。
「だからこそだ。今、遠造が言ったようなものは、取り返す事が容易なものばかりだ」
俺は続きを言うのが面倒臭くなり、視線を背けると、その先にいたロビンが得たりとばかりに頷く。言った。
「アレックスさん。貴女、尤もらしい事を言って、逃げてますよね?」
◇◇
勇気を失うという事は……
全てを失うという事だ。
いっそ生まれない方がよかっただろう。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
ロビンが嬉しそうに言った。
「アレックスさん、よかったですね。当為の達成には、私とディートさんの二人が向かいます。貴女は、ここで待っていればいい」
「……そうだな。そうしよう……」
最早、語るべき事は何もない。
『戦士』アレクサンドラ・ギルブレスは怖じ気付き、復讐の手を躊躇った。母も呆れているだろう。
「アレックス、お前に右手は必要ない。そのままでいろ。命冥加に暮らすといい」
強敵を前に、優秀な戦士であるアレックスの力を欠くのは残念だが、これで予定が早まった。
俺はトリスタン製の上等な紅茶を手に、アレックスの元へ歩いた。
「とても残念だが……」
聖闘士に押さえ付けられたまま、地べたを舐めるアレックスの頭に、静かに紅茶を振り掛けて言った。
「さよならだ。アレクサンドラ・ギルブレス」
「……」
紅茶と敗北の恥辱に塗れながら、アレックスは瞬きすら忘れて俺を見つめていた。
これにより、戦士としてのアレックスは死んだ。
礼儀として、俺は言った。
「アレックス、お前はよくやった。後は俺たちに任せろ」
斯くして――
戦士の死と運命は見事に調合されている。
アレックスにとっては死刑宣告に等しい言葉だが、それを聞いた時のロビンの笑顔と来たら、それはもう嬉しそうな満面の笑みだった。
これで、今日オリュンポスでやるべき事は全て終わった。酷く残念な結果に、俺は右手で顔を拭った。
「……ロビン、少し疲れた。今日はもう帰ろう……」
「はい!」
何故、そうなのかは分からないが、ロビンは胸に手を当てて畏まり、騎士としての礼を尽くした格好で嬉しそうに頷いた。
◇◇
オリュンポスから聖エルナ教会への帰りの馬車の中で、ロビンはとにかく得意な様子だった。
「ディートさん。オリュンポスでの振る舞いは、お見事でした」
「……ああ」
別にロビンの機嫌を取る為にした事じゃない。だが、それなりに神力を消費して疲れていた俺は特に反論する気にもなれず、眠気に潰れそうな目で馬車の外を見つめていた。
ロビンは上機嫌だ。
「ルシール、見ましたか? これがディートさんです」
「……」
ルシールもそうだが、他の修道女たちは完全に萎縮している。視線が合っても、すぐさま逸らされてしまう。
……どうでもいい。
マジックドランカーには至らないものの、あまりに多い神力を消費すると、何事に対してもやる気が萎んでしまう。
俺は、突っ立っていただけで、なんの役にも立たなかった修道女たちに豚のエサを食わせる事でこの日の締めとした。
食堂でのロビンは絶好調だった。
「どうしました、ルシール。遠慮なく食べなさい。お前たちがいつも作っているものでしょう」
修道女たちは、自らが作ったドブ臭い粥にえづきながら、涙目になってその日の夕食を食べていたが、俺の方はロビンが用意したシチューにパンという普通の夕食を摂った。
アレックスのプライドをへし折り、修道女を苛め抜いた事で、ロビンとしては、この日の仕事は充分満足が行くものだったようだ。
「今日は完璧! だからもう、お仕事は終わり!」
そう宣言した後、ロビンはスキップして自室に引き取った。
そして――
◇◇
すっかり日が落ち、居住塔に戻った俺は、司祭に宛がわれた少し大きな自室で、ロビンと睨み合う事になった。
「ロビン……なんの用だ」
自室に引き取り、再び俺の下へやって来たロビンは、綿のシャツ一枚に下はパンツ一丁という奇抜な格好だった。
「うん。今日、すごく良かったから、一緒に寝よう!」
「……何故、そうなる」
「遠慮しなくていいよ。今日はもう、お姉さんも、お仕事は終わりにしたんだ。キミも神父さまはおしまい!」
俺には、こいつの頭の中が分からない。上機嫌の理由も、同衾したがる理由も全てが分からない。
「いや、遠慮する……ここは壁も厚いし、暖炉もある。俺一人でも困るような事はない……」
ベッドを挟んで対峙するロビンに、俺は用心深く言った。
「なあ、ロビン。その格好は……年頃の女性がする格好じゃない……」
ロビンは頬をリスのように膨らませ、ダメダメと首を振った。
「キミは子供なんだから、遠慮しなくていいんだって!」
「いや……遠慮はしてない……」
「そもそもさあ、キミが寝込んでた間、誰がキミの面倒を見ていたと思うのさ!」
それは、この聖エルナ教会で目覚めた最初の朝の事を言っているんだろうか。
確か……目が覚めたあの時、唇が触れ合いそうな距離にロビンの顔があった。
「……………………」
どうやら、俺の知らない間に、ディートハルト・ベッカーという少年は汚されてしまっていたようだ。
「この痴女め……! なんて破廉恥なヤツなんだ!」
「だから、大人ぶってもダメ! キミは子供なんだからさあ! 子供で居られる時間が必要なんだよ!!」
ロビンの相変わらずの突き抜けっぷりに、俺は恐怖を覚えた。
「や、やめろ。やめてくれ……!」
聖闘士を召喚してもよかったが、如何せん理由が間抜け過ぎる。
この日、俺が最後にするべきだった事は、アレックスへのお仕置きじゃない。この教会騎士の処分だった。
そして、この時のおめでたいロビンは何も知らずにいる。
アレクサンドラ・ギルブレスという戦士が、あれしきの事でへこたれる訳がないのだという事を。
ロビンがそれを知るのは、翌早朝の事だ。
聖エルナ教会全体に凄まじい怒号が響き渡り、それが目覚ましの合図になる。
「おいごら! 出て来い! ディートハルト・ベッカー!!」
万事、よし。
ダンジョンでの試練には、アレックスの力が必要だ。
俺の目的は達成された。
アレックスに俺の力を認めさせた上で、試練に臨む弾みにする。
俺とヤツとは共闘するのだ。舐められていていい訳がない。荒療治だったが、どうやら上手く行った。
持てる全てを使うとは、こういう事だ。万難を排し、全力を以て事に当たるとはこういう事なのだ。
闇に潜む死の大蛇をなぎ払う。
そのための準備は、着々と進んでいる。