55 ディートハルト・ベッカー1
ニヤニヤと嗤うアレックスに、知恵袋のマリエールが何やら小さく耳打ちしている。
「……軽く見ても第二階梯の力を持つ神官に……教会騎士……おまけに七人の癒者か……いいねえ。実に壮観。実に贅沢……!」
派手好きなアレックスは、甚くこの光景がお気に召したようだ。
「こんな事は滅多にない。先ずはお茶でも飲んで行きなよ」
特別、急ぐ訳じゃない。そのままサロンに通された俺たちは、アレックスの歓待を受けるという形でトリスタン製の上等な紅茶を振る舞われていた。
外界の生活に触れる事のない修道女たちは喜んでいたが、俺には職場でゆっくり茶を楽しむような優雅な癖はない。
だから、俺は言った。
「アレックス。お前は後でお仕置きだ。楽しみにしておけ」
その言葉にロビンは息を飲み、背後のルシールは震え上がったが、アレックスは実に嬉しそうに嗤った。
「お仕置き? あたしに? そんな事を言われたのは初めてだね」
「今は笑っていろ」
「雷鳴でも落とすのかい?」
「罰とは、感情的になって与える物ではない」
俺は鼻を鳴らし、紅茶を一息に煽ってその場を後にした。
◇◇
四日振りに会う遠造とは、サロン前の廊下で少し話し込んだ。
「よお、先生。ちょっと見ない内に、また力を上げたか?」
「そんな所だ」
遠造はニヤニヤと質の悪そうな笑みを浮かべている。
「神父ごっこを始めたとは聞いたが、まさか団体様でやって来るとは思わなかったぜ」
ごっこ扱いに、ロビンとルシールの二人は険しい表情になったが、遠造の言う通りだ。
俺が黙って小さい拳を突き出すと、遠造は笑ってゴチンと大きな拳を合わせる。
子供と大人という違いこそあるものの、俺は何故かこの遠造と相性がいい。おそらく、実年齢が近いせいだろう。
「まぁ……これもその遊びの内だ。付き合え、遠造」
「俺から診てくれんのか?」
「そうだ。団体様だが、お前は気にせんだろう」
挨拶代わりの言葉の応酬を交わした後は、ロビンが言う所の『見習い以下の紛い物』連中七人を連れ、場所を一階の治癒室に移した。
「なあ、先生。俺の話は考えてくれたか?」
「クランを割る話だったな。ヒュドラ亜種討伐の後でなら、真面目に聞いてやる」
遠造は、半数のメンバーを失ったこのオリュンポスに見切りを付け、自らクランマスターとなって新たにクランを起ち上げるつもりでいる。
「先生、悪い事は言わねえ。ありゃ怪物だ。止めとけ」
相手は、アレックスがパーティを崩壊させ、逃げ出したような代物だ。遠造がヤクネタ扱いする理由も分からなくはない。だが……
「お前は、一度口にした事を簡単に反故にするようなヤツを信用出来るのか?」
「……」
遠造はおどけたように肩を竦め、この話は打ち切りになった。
一方、初めて『治癒室』に入ったルシールと六人の修道女たちはこの異質な空間に困惑し、辺りを見回している。
「……神父さま。ここは……」
俺は頷いた。
「魔術師の魔法陣と、俺の張った聖印結界を合わせて作った特殊な空間だ。ここでは一定の室温が保たれ、清潔と静寂が確保される。特別な事情がない限り、全ての処置はここで行うようにしている」
ここは俺とマリエールが造り上げた『厳粛』な空間だ。外部の環境情報を全て遮断したこの空間では、耳を澄まさずとも互いの呼吸音すら聞こえる。
イメージしたのは『手術室』だ。
その治癒室にある寝台に寝そべった遠造は既に上着を脱ぎ、俯せの格好で寝転んでいる。
「皆、見ろ。こいつの背中が曲がっているのは、曲がった根性を体現しているのではなく、それなりに事情があるからだ」
俺の口が悪いのは今更だ。遠造は背中を揺らして笑いに噎せている。
「首筋のここと……背中のこの部分……少し膨らんで見えるこの辺り……」
俺が軽くその部分を指で押すと、遠造は身体を捩って悲鳴を上げた。
「痛ってえ! 痛い痛い痛い!」
俺は何事もなかったかのように続ける。
「こいつはA級冒険者で、それなりにタフな男だが、子供の指で軽く突つかれた程度で悲鳴を上げた。誰か、これを説明出来る者はいるか」
「…………」
修道女たちは困惑したように顔を見合わせるだけで、返答はない。修道院長のルシールですらもそうだ。
俺は溜め息を吐き出した。
「そんな事だから、シュナイダー卿に馬鹿にされるんだ」
そのシュナイダー卿は、この呼び方が余程嫌ならしく、口をへの字に曲げている。
「脊椎の幾つかに奇形が見られる。それが神経を圧迫しているんだ。こいつの姿勢が悪いのは、曲がった根性のせいじゃない」
今は肩凝りや軽い背中の痛み程度で済んでいるが、歳を追って慢性的な症状に悩まされるようになるだろう。具体的には手足の痺れ、それに伴う疼痛。最終的には麻痺へと至る。
「これは生まれつきのものだから、母の術による回復は望めない。治療には長い時間とそれに見合った根気が必要になる」
「そ、そんな……母の力でどうにもならない訳が――」
「黙れ」
噛み付いたルシールを遮って、俺は続ける。
「母の力は偉大だが、万能ではない。そもそも、万能等という力は世界の何処にも存在しない」
「しかし……!」
余程、母の力に対する信仰が強いのだろう。再び俺の言葉を遮ったルシールに、俺は言った。
「ルシール、二度目だ。俺は馬鹿と騒がしいのは好かん。次はないとだけ言っておく」
「……」
ルシールが悔しそうに黙り込んだのを見て、俺は講義を続ける。
「術の効果はないが、痛みの処置自体は簡単だ。この少し膨らんだ部分に悪い血が溜まっているから、それを抜いてやるといい」
そう言って、俺は、あらかじめ聖水に浸しておいた器から針を取り出し、遠造の背中に打ち込んだ。
針自体は非常に細く、付いた傷もそれに比例してごくごく小さいものだが、針を打ち込んだその瞬間、遠造は全身を震わせて反応した。
「痛っ!」
素早く針を引き抜くと、その小さい傷から噴水のように血が噴き出して、二人の若い修道女が腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
これも母の術の弊害だろう。術に頼りきるあまり、外傷や出血に対する耐性がない。惰弱と断ぜざるを得ない。
傷自体は小さく、出血も勢いこそ強かったが、それも一瞬の事だ。ごく少量で健康を害する程のものではない。針を打たれた遠造はと言えば……
「全身にビリッと来た! なんか背中が軽くなったぜ……!」
悪い血を抜いたのだから当然だ。一時的にだが、症状は緩和され楽になる。
「行っていいぞ、遠造。リハビリのメニューはメイドに手伝ってもらえ」
「おう」
と答えた遠造は、いつもなら、さっさと治癒室から出て行ってしまうのだが、この日は何故か困ったように俺の顔を見ている。
「遠造、俺は、お前の情婦をやっているメイドじゃない。言いたい事があるならはっきり言え」
「いや、金だよ。金。もう狐目に払う訳にはいかんだろ。誰に払えばいい」
「ああ、そういう事か……」
報酬はいつもアビーに支払われていたが、今の俺はアビーの組織に所属している訳じゃない。そういう意味では、当然の言葉だった。
「正面玄関での祝福込みで、金貨で三十枚という所です」
口を挟んだのはロビンだが、その言葉にはルシールも強く頷いた。
「……だ、そうだ」
俺の場合は冗談で相槌を打っただけだが、遠造は目を剥いて口元を震わせた。
俺は慌てて言い直した。
「お、おい、遠造。冗談だ。そんな顔してビビるな」
「……この状況で、冗談に聞こえねえよ……」
遠造は並み居る修道女たちと、教会騎士であるロビンを見て顔をしかめた。
「勿論、冗談ではありません」
答えたのは金属バットだ。真面目腐った顔で言った。
「神父さまの祝福と施術には、それだけの価値があります」
「然り。これでも大分、遠慮しています」
俺は強く舌打ちした。
「お前らは指を咥えて見ていただけだろう。差し出口を叩くんじゃない」
金貨で三十枚というと、三百万シープ。銀貨なら三百枚になる。悪たれのアビーが天使に思えるほどの暴利だ。そもそも『無欲』の戒律からも大きく外れている。
しかし……
ロビンは平淡な表情を崩さず言った。
「ディートさん。今の貴方は教会に所属する第三階梯の神官であり、聖エルナ教会の司祭の立場になります。これは正当な要求であり、代金は教会が預ります」
何事にも抜け道はある。無欲の戒律があり、所持金に制限のある俺だが、代金の受け取り先が『教会』であるなら問題ないという訳だ。
「この、守銭奴めが……!」
俺は針を打っただけだ。術は使ってない。祝福の事は母の力であり、この場にいる誰の功績でもない。
ロビンは言った。
「ディートさん、全ての物事には金が掛かるものなのです。貴方の信仰は素晴らしいですが、その貴方も霞を食べて生きている訳ではありません」
その言葉に、金属バットも我が意を得たりと強く頷くが、それにしたってやり過ぎだ。
こいつらは……そんな暴論が俺に通用すると本気で思っているのだろうか。ここまでコケにされたのは久し振りだ。
「……」
強い怒りに黙り込んだ俺の顔を見て、遠造は頭を抱え込むようにして耳を塞いだ。
賢いヤツだ。
これで遠慮なくやれる。
「シュナイダー卿、真の『雷鳴』を聞かせてやる。光栄に思え。この代金は、お前らの大好きな教会に付けておくといい」
これも母の奇跡だ。狂信者も金属バットも、価値ある奇跡の力に涙を流して喜ぶだろう。
間抜け面して眺めているだけの奴らも同罪だ。皆、『公正』に罰してやる。
そして――