53 備えるという事は……
その晩、自室に引き取った俺の元へやって来たロビンの当たりは妙に強いものだった。
「ディートさんは、ああいう女性が好みなのですね」
「……なんの事だ?」
俺はといえば、この時には既に神官服を脱ぎ、簡素な平服に着替えていた。
「ルシールの事ですよ」
「まぁ……見た目は、そうだ」
素直に認めると、ロビンの追及は更にねちっこいものになった。
「もっと、若くて瑞々しい女が近くにいるでしょう。あのような行かず後家がディートさんの好みなのですか? 趣味が悪いとしか言いようがないです」
ちなみに、この日のロビンは帯剣こそしていたものの、一日中平服のままだった。
「ここに居ない者の事をあげつらうのはよせ。自らの価値を落とすぞ」
「……」
「食事は部屋で摂る。分かったら出て行ってくれ、シュナイダー卿」
「……!」
俺に『シュナイダー卿』と呼ばれたロビンは、一瞬、身体を震わせ、あからさまに傷付いた表情をして見せた。
ただの意趣返しだ。
『紛い物』等という酷い言い種や、いきなりルシールやポリーを張り飛ばした事といい、ロビンの修道女たちに対する態度は横暴を極める。これくらいの事はしてやらないと気が済まないというのが俺の心境だった。
ロビンはガツンと床を踏み鳴らし、踵を返して部屋から飛び出して行った。
その後はベッドの上で胡座をかき、夕食までの時間を静かに瞑想して過ごした。
『教会』はいい。
ここは静かで、瞑想も祈りも捗る。『寺院』では、もっといい環境が用意されているのだろうか……
漠然とした雑念を振り払い、心の奥深くまで瞑想する。
思い浮かぶのはやはり、母との邂逅の事だ。
元は善性の存在でありながら、アルフリードの非道に因って壮絶な怨念を以て神になった生と死の化身。
癒しと復讐の女神『アスクラピア』。
『神』とは超自然の存在だ。
善だの悪だのという価値観は『人』のものであり、『神』の思惑や判断は、人の価値基準では計れない。人の価値観など、とうに超越しているのだ。
その『神』とやらがやらかした事の意味が見えて来るのは、いつだって全てが終わりを告げた時だ。
全てが終わりを告げ、結果が出た時になって、初めて人は『神の手』の存在を思い知る。
俺は……
俺という人間は、いったいどのような意味を持ってこの異世界に紛れ込んだのだろうか……
◇◇
深い瞑想を経て、落ち着いた頃になって夕食を持って来たのは、元修道院長のルシールだった。
遠慮がちなノック音に入室の許可を出すと、ルシールはおどおどと怯えた様子で部屋に入って来た。
「あの、神父さま。夕食です……」
「うん。机の上に置いてくれ。あと、明日の予定だが……」
既に良くも悪くもルシールとの間には色々あった。俺はもう、ビジネススタイルは止めて地の態度で通す事にした。
「はい。なんでございましょう」
ルシールの方でも違和感は感じていないようで、気を悪くする事なく小さく頷いた。
「朝食を摂り次第、出掛ける。行き先はオリュンポスのクランハウスだ。平時の運営は……」
一任する、と言い掛けて俺は止めた。
暫し考える。
この聖エルナ教会はいい所だ。長い時間を掛け、よく考えて造ってある。神官であればここを魅力的に感じない者は居ないだろう。
おそらく、『教会』だの『寺院』だのという場所は、恐ろしく悪知恵の働くヤツが長い時間、試行錯誤を繰り返し、その末に造り上げた神官の牢獄なのだ。
或いは楽園か……
「あ、あの、神父さま……?」
金属バットが何か言っている。
「うるさい。考え事をしている。少し黙っていろ」
面白くない。底無しの泥濘に片足を突っ込んだ気分だ。
ここに留まる以上、俺は『俺』以上の存在にはなれない。成長が見込めない。居心地が良すぎる。
神父、か……。
ロビンは好きにやれと言っていたが……そうするつもりはなかったが……
思い出したのは、気取った仕草で闇に消えて行った『白蛇』だ。
このまま教会という名の泥濘に嵌まり、のんべんだらりとしている俺を見れば、あいつは、きっとがっかりするだろう。
――脆い子は、迷い躊躇う。
白蛇の言葉を思い出し、俺は鼻を鳴らした。
「真面目にやるか……」
何故かは分からない。だが、俺は白蛇にだけは失望されたくない。あいつをがっかりさせ、軽蔑されるのだけは嫌だ。そんな事になるなら死んだ方がましだ。
決して、あいつを憎んでいるのではない。怒りや嫌悪を感じている訳でもない。個人的には寧ろ好感すら抱いている。
だが、あいつ……白蛇にだけは、ナメられたくない。
言った。
「ルシール。この教会に修道女は何人いる」
「わ、私を含めて、七人です……」
「明日は『実践』の特別講義だ。全員、オリュンポスに付いて来い」
「え……?」
「以上だ。下がれ」
ルシールが困惑したように言った。
「し、しかし、私たちには炊き出しの義務が……」
「あのクソ不味い豚のエサか。一日、二日休んだ所で誰も文句は言わんだろう」
「ぶ、豚のエサ……? しかし『奉仕』の義務は……」
『奉仕』は神官の五徳の一つだ。だが……
「人に豚のエサをやるのは奉仕とは言わん。尊厳を嘲弄しているだけだ。そんな事だから、お前らはシュナイダー卿に馬鹿にされるんだ」
「……」
この時、ルシールは初めて『俺』という『神官』を見たのだろう。ハッとして鼻白み、そして小さくなって項垂れた。
「ルシール。お前にとって『奉仕』とはなんだ?」
「え? そ、それは……」
「何故、即答できない。奉仕とは、私心を捨てて力を尽くす事だ。人に豚のエサを施して、いい気になっているお前らは何様のつもりだ。修道院長が聞いて呆れる」
母は備えろと言った。
ならば、俺は備えなければならない。
やがて『刈り取る死』が来る前に。闇の中、弾け鳴る死が俺を捉えぬように。
俺が備えなければならない試練は『二つ』だ。
一つは、闇の中に潜む死の大蛇の打倒。
アレックスと共にアンデッド化したヒュドラを討ち取り、新たに力を得なければならない。
もう一つの試練は……
おそらく、俺一人では対処できない。しくじれば……
『別れが泣き、世界に死が満ちる。そこでは誰もが死に身を任せる事を学ぶだろう』
母は、俺でなければ駄目だとも言った。そして『備える』という事は……
必要なら、名誉も財産も擲ってしまえ!
俺がすべき事は、そういう事だ。今、持っている全てを使って万全の態勢を築く事だ。そして、それすらも擲ち、迫り来る困難に打ち勝つ覚悟を持つ事だ。
「全員、叩き直してやる。今夜を以て、眠れる夜は終わりと知れ」
今持つ全てを使うとは、こういう事だ。俺は狂信者にも金属バットにも楽をさせるつもりはない。
「下がれ。今日はもう、誰とも会いたくない」
「……」
俯き、視線を伏せたルシールは、今にも泣きそうな顔で深く頭を下げ、逃げ出すように部屋を出て行った。
『困難を乗り切ったとき。それらは後から付いて来るだろう』
(信じるぞ、母よ……!)
◇◇
俺は知らなかった。
死んでいると思ったジナが、俺が作り置きしていた薬によって命を繋いでいた事。
アビーには半端に甘い所がある。俺の強い抵抗を経て躊躇い、『逆印』の意味を見誤った。
その瞬間、母はあの地を見捨てたのだ。
これは俺の生み出した試練であると同時に、俺の罪でもある。
俺もまた『逆印』の意味を見誤った。母の警告を見誤った。
俺はまだ知らずに居る。
パルマの貧乏長屋の片隅で、恐ろしい業病が今正に芽吹こうとしている事を。
全ての因果は、母の戯れる指先に因って紡がれている。