闇の中にて、邂逅。再び。
夢。
夢を見ている。
俺はいつしか闇の中に立ち、怯える事なく目の前の闇と対峙している。
その闇の中に、青いロウソクを持つ青ざめた唇の女が立っていた。
「なんだと……!」
ぎょっとした俺は身を固める。
すると、隣から、呆れたような若い男の声が聞こえた。
「脆い子は、悩み躊躇う」
誰だ、こいつ。
そう思う間もなく俺はハッとして、若い男に倣ってその場に膝を突く。
母は言った。
『間もなく……』
俺は強い興味から、隣で身を屈める男をちらりと見やる。
白髪、痩身の男。両の目に包帯を巻いていて、盲である事が伺い知れる。
俺は戦慄した。
この男が母に捧げたであろう犠牲のなんと多い事か。
この男もまた、『アスクラピアの子』と呼ばれる神官なのだ。
砂と風に草臥れた外套を身に纏い、そこから覗く足は金の拍車の付いたブーツを履いている。驚いた事に腰には剣を差していて――
騎士だ、こいつ。
あり得ない。
聖書に於いて、かつての母は癒しを司るだけの善性の存在であったとされる。
だが醜い蛇の姿を忌み嫌った軍神アルフリードの剣に因って、命乞いの甲斐なく無慈悲に斬り殺された。
故に、母は剣を持つ者を嫌う。
癒しを与える事はあっても、力を与える事はしない。だが、目の前のこの男は腰に剣を帯び、総身から沸き立つような神力の滾りを感じる。
初めて見る俺以外の『神官』は、母の加護を持つと同時に、軍神アルフリードの加護を頂く『騎士』でもあった。
(馬鹿な! 有り得ん!)
俺が『五戒』と呼ばれる戒律を持つように、『騎士』にもやはり戒律が存在する。
軍神アルフリードの定めた『忠誠』『礼節』『武勇』『名誉』『信念』がこれに当たる。これらは神官の五戒と反するものではないが、この男は騎士としての戒律を為しつつ、尚も五戒を守ったのだろうか。
男が咎めるように言った。
「今は止せ。しみったれた母は、二度も同じ事は言わん。それぐらい知っているだろう」
俺は慌てて視線を伏せ、しみったれた母の言葉に耳を澄ます。
『全ての者が闇に覆われ、色褪せて行く』
白髪の男は身を屈め、微動だにせず母の言葉を聞いている。
『砂漠の蛇、白蛇。お前の半分に、我の側に侍るよう命じる』
「は……」
男は静かに頭を垂れる。
『残りの半分は、死の砂漠にて運命を待て』
「御意」
なんだ、これは。
白蛇と呼ばれるこの男の身を半分に引き裂いてしまわぬ限り、この問答は成り立たない。
『そして――新しき子よ』
俺の事だ。
直に向けられた母の視線に震え上がり、俺は身を固くして言葉を待つ。
『お前は、備えなければならない』
「……」
俺は……
いつだって俺だ。緊張する事はあっても、怯えてなどやらない。例えそれが――生と死の化身の女神であったとしてもだ。
『……別れが泣き、世界に死が満ちる。そこでは誰もが死に身を任せる事を学ぶだろう……』
くそ。また、けったいな事を。
母は超自然の存在だ。そんなヤツの言う事が理解出来る訳がない。抽象的過ぎる。
だが今回は聞かねばならない。
俺は真剣に言葉の意味を探り、思考せねばならない。母の言葉を額面通り聞くならば……これから恐ろしい事が起こるのだ。
つまりは、警句。
『これより、先。お前の行く手に巨大な困難が立ち塞がる。
備えよ。
闇の中に潜む死の大蛇を凪ぎ払え。
力を得よ。
やがて刈り取る死が来る前に。
闇の中、弾け鳴る死がお前を捉えぬように』
「……」
俺は呆れる思いだった。
今回、母は特大の試練を俺にぶつけるつもりのようだ。
そこで、白蛇が立ち上がった。
「母よ。俺も力を貸していいか」
やるじゃないか。神の言葉に口を挟むとは、こいつは中々イカれてる。
『駄目だ』
それが拒絶の言葉であれ、母が答えを返すとは思わなかった。
驚くばかりの俺の前で、母は尚も言葉を重ねる。
『人には向き不向きがある。白蛇、お前は確かに役に立つだろう。だが、今回の試練にお前の差し入る余地はない。この子でなければ駄目だ』
それだけ言い残し、母は闇に包まれて消えて行く。
その闇の中、やはり朧気に姿を消しつつある白蛇が小さく舌打ちした。
「相変わらず、しみったれた女だ……」
「……」
その言葉に、俺は思わず顔をしかめた。
母をしみったれと呼ぶこの男と、同じくそう呼ぶ俺の感性は非常に似ている。
母が消え去り、緊張から解き放たれた俺も立ち上がる。
「なあ、あんた。誰だ? 名を教えてくれ」
「……」
母に『白蛇』と呼ばれていた男は白髪を掻き回し、少し考え込む様子だった。
ややあって――肩を竦めて笑った。
「……忘れた。蛇に食わせちまったぁ……」
「そうか。それ故の『半分』か」
「仲間は、団長って呼ぶな」
「……」
こうする間にも、世界は闇に覆われて消えつつある。
俺たちの出会いには、まだ時の経過と運命の導きとが必要なようだ。
白蛇は口元に笑みを湛えている。
「また会おう。果てしない旅の行く末に」
「……!」
いつか俺は、闇の中に消え去ったあいつに似たような事を言った。それは、忘れていいほど昔の話じゃない。
『俺』と『白蛇』と『ディートハルト・ベッカー』とは、似たような何かを共有しているのだ。
白蛇は半分包帯を巻いて隠してあるような顔に、笑みを湛えている。
それは敵に向けるものではなく、親愛を向ける存在に向けるものであったと思う。
白蛇は気障な仕草で聖印を切って身を屈める。
最後に言った。
「青ざめた唇の女。その本性は蛇。しみったれた女神、アスクラピアの祝福(災い)あれ!」
そして右手を胸に当て、気取った格好で闇の中に消え去った。
この共通点をどう解釈すればいいのだろうか。
俺もまた、聖印を切った。
「白蛇、また会おう。母の戯れる指先が虚空に貴様の名を描く事がないよう祈る」
そして、俺もまた闇の中に消えて行く。
母は、いつだって死を思わせる静寂を好む。
後に残るは静寂のみだ。