35 狂信者
俺が思うに……
『アスクラピア』という女神は、『不完全な神』だ。
癒しを司るのはいい。自己犠牲を好むのもいいだろう。しかし、その反面で復讐を好み、それに加護すら与えるというのはどうなのだ?
不完全な女神『アスクラピア』。
こいつは……なんというか、『人間臭い』。俺たち人間がそうであるように、こいつは罪深く、また慈悲深くもある。だからこそ俺は……母を信仰している。
◇◇
俺は再び馬上の人となり、手綱を持ったロビンの先導で道なりに進む。
俺は『オリュンポス』に行きたいのだが、ロビンにそれを言うのは不味いような気がする。
脳筋のアレックスはともかく、遠造やマリエールには迷惑をかけたくない。……アネット? 誰だそいつ。
「聖エルナ教会に行きましょう。今の私の逗留先です。小さい教会ですが、私とディートさんぐらいならどうとでもなります」
「いや、俺は……」
クランハウス、オリュンポスに行きたい。何度もそういい掛けて言葉に詰まる。俺の鋭くはない直感ですら『やめておけ』と警鐘を鳴らすのだ。
ロビンは、何がおかしいのか、口元を押さえてたおやかに笑う。
「……失礼ですが、お金はお持ちですか?」
「……ない」
今の俺は、びた銭の一つだって持ってない。真の素寒貧だ。アビーの元へ帰るか、オリュンポスに行くかしなければ路頭に迷う事になるだろう。
そして、このロビンには嫌な予感が付きまとう。
今は、パルマの貧乏長屋にも、オリュンポスにも行かない方がいい。そこへ向かうには、このロビンと『教会騎士』を見極めてからでも遅くない。
ロビンは、そんな事はお見通しだと言わんばかりに微笑んでいる。
「うふふ……それでは、今夜の宿はどうなさるおつもりだったのですか……?」
意地の悪い質問だ。
おそらく……いや、ロビンは絶対に神官の『五戒』を知っている。知っていて、あえて聞くのは、俺の口から『お世話になります』と言わせたいからだろう。
俺の勘は『それも不味い』と言っている。
一度貼り付かれたら最後。俺かロビンのどちらかが死ぬまで離れられない。そんな気がする。
だが……
これが『神さまの思し召し』とやらならば、俺は死んだって聞いてやらない。男には、つまらない意地というものが必要なのだ。
俺はビジネススタイルに切り替え、用心深く言った。
「……実は、さる御方より治癒の依頼を受けています。暫くは、その方にお世話になるつもりでいたのです……」
ちなみにこれは本音だ。暫く……或いはそれ以上。少なくともアレックスの怪我が治るまでの間、オリュンポスに留まるつもりだった。
「……そのさる御方というのは?」
ロビンは眉間に小さく皺を寄せ、少し不愉快そうだ。
「……すみません。有名なお方ですので、それは勘弁して頂けないでしょうか……」
ちなみにこれも嘘じゃない。アレックスは、もう元になるがAランクの冒険者で有名人だ。そのアレックスから、クランのランク低下を防ぐ為、怪我の事は内密にするように言われているのも事実。
「……」
黙り込んだロビンは思わしげに視線を伏せ……少し考え込むような仕草をしていたが、不意に顔を上げた。
「それでは、依頼先までお送り致します。近くまででも構いません。どうでしょう」
食い下がるか。こいつは、なかなか……
「それは、少し困ります。……すみませんが、ロビンさん。少しお金を貸して頂けないでしょうか?」
金さえあれば、馬車でオリュンポスに向かうまでだ。そこまで行けば遠造もマリエールも居るし、なんとでもなる。そう考えた俺だったが……
ロビンは即答した。
「お断りします」
「……」
先程までの笑顔が嘘のような拒絶の返答に、俺は思わず口籠る。
だが……だが、しかしだ。
俺は苦笑いを浮かべて頷いた。
「そうですね。初対面のロビンさんに、このような不躾なお願いをするのはおかしいですね。先ほどの事は忘れて下さい」
まぁ、簡単な大人のやり口だ。
まず二つの選択肢を用意して置いて、そのどちらに転んでも都合のいい答えを用意しておく。
「ここでいいです。馬から降ろして下さい」
最早、お前に用はない。言外に、そうはっきりと告げたつもりだった。
そもそも、金の話はオリュンポスに辿り着きさえすれば解決する。ロビンが首を縦に振ろうが横に振ろうが関係ない。
日本人の多くが無宗教で、多分に漏れず俺もそうだからか。こいつからは嫌な予感がぷんぷんする。少しでも早く離れたい。
だが、俺の返答が意外だったのか、ロビンは酷く狼狽えて視線を右に左に泳がせた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。まだ会ったばかりですし、聖エルナ教会はすぐそこです!」
おや、心理戦はお得意ではない。これしきで焦るとはまだまだ。日本でサラリーマンは勤まらんな。
「……」
俺はアスクラピアの神官らしく、沈黙を以て拒絶の返答とした。すると……
ロビンは焦ったように言った。
「分かりました。お金を払いましょう。金貨二枚でどうです? これは返さなくていいです。ヒール屋の二十倍儲かります、よ、ね……」
それに対して俺が沈黙と冷たい視線で答えると、ロビンの言葉は徐々に勢いをなくし、最後には項垂れて黙り込んでしまった。
「……」
無欲の戒律を持つ俺に、買収は無益なだけでなく、有害ですらあると気付いたのだろう。
俺は面倒臭くなって言った。
「愚か者が。金でどうにかなる相手だと思ったか」
「…………」
「お前のやり口を見るに、教会騎士とやらも底が知れるな」
さて、この分かりやすい挑発にどう出るか。教会には興味があるし、返答次第になるが、付いて行ってやってもいい。
この時の俺は何も知らなかったんだ……。
アレックスたち冒険者が『教会』を嫌う理由も、アビーやアシタのような孤児が『教会騎士』を恐れる理由も、何も知らなかったんだ。
「……!」
項垂れていたロビンが顔を上げた。その瞳が、赤く燃えている。
血の赤。鮮血の紅。
燃えるような怒りに瞳を染め上げ、ロビンは唸るように言った。
「子供の癖に……!」
おやおや、地金が出た。まぁ、俺も他人の事は言えないが。
俺は可笑しくなって笑った。
「お前も無欲の戒律は知っているだろう。子供かどうかは関係ない」
「金貨十枚までなら、大丈夫ですよ!」
「そうなのか?」
こいつは得難い情報だ。
『無欲』の戒律を持つ俺だが、金貨十枚……銀貨なら百枚までは所持しても母の怒りに触れないようだ。
ロビンは鼻で嘲笑った。
「やっぱり子供です。何も知らないんですね!」
「その子供を買収しようとしたヤツが何を言う。しかも思い通りにならぬからといって、今度は居丈高に振る舞うとは呆れたものだ」
「ぐぬ……!」
俺は深い溜め息を吐き出した。
「……まぁ、所詮は母もこの程度という事なのだろうな」
この頭の悪い女騎士に、そろそろ最後の一言をくれてやらねばならない。
ロビンは俺の挑発に反応し、ますます強い怒りに瞳を燃やしている。
「母が、なんですか。馬鹿にすると、許しませんよ!」
俺は言った。
「所詮、神というものは信ずる者次第だ。そうでなければ、ここで母が笑い者になる事はなかっただろう」
まぁ、要するに。
お前の程度が低いから、その信仰対象である母も程度が低いものになる。と言ってやった訳だ。
「…………」
ロビンは怒りのあまり絶句して、言葉もないようだ。両肩がぶるぶると激しい怒りに震えている。右手が剣の柄に掛かり……
「さあ、試されるな? 誇りか、信仰か。お前が真に大切に思うのは、この二つのどちらだ?」
結局……この言葉が悪かったんだろうと思う。俺の挑発は一周回って突き抜けて、ロビンの怒りに冷水をぶっかけた。
ロビンはその場に膝を折り、頭を垂れた。
「……貴方の仰る通りです」
「あ?」
この時までの俺は、こう思っていた。
その分厚い面の皮、引っ剥がして笑ってやるって。
調子に乗ってたんだ。
ロビンは落ち着き払って言った。
「……時として、優秀な神官は処刑されました。何故か分かりますか?」
「知らんな。俺が興味あるのは生きてるヤツだけだ。死人に興味はない」
ロビンは笑って答えた。
「事実を言ったからですよ。事実を言ったからこそ、彼らは焼き殺されたり、切り殺されたりされなければならなかったんです」
「そうか。それも時代の為せる業だろう。ところで、もう行っていいか? お前と話すのは酷く退屈だ」
「……」
ロビンは笑っていた。見え透いた俺の挑発は、この時、もう見切られていたと言っていい。
「そう。時代です。全ては時代の為せる業でした。過ちを認めた識者たちがそれに気付いたのはごく最近ですが、貴方はこの場で理解してしまわれた」
「…………」
「本物、見付けました」
こいつが本格的に不味いヤツだって分かったのは、この時だったと思う。
ロビンは、にこっと笑った。
「……だからね、お姉さんと行こう? キミは小さいのに、すごいんだよ。寺院に行って、いっぱいいっぱい勉強したら、すごい人になれる可能性があるんだ」
俺の本性見ただろうに、なに言ってんだ、こいつ。いきなり人拐いみたいな事言いやがって。
俺はこの時まだ余裕ぶっていて、事態の深刻さに気付いてなかったんだ。
「さあ、行くよ。依頼なんて、放っといていいよ。大丈夫、お姉さんがずっと一緒に居て、一生守ってあげるから……!」
そんな事を大真面目に言うロビンの目は、キラキラと輝いていて……本気で言ってるんだって分かった。
こいつ……
…………狂信者だ。