空虚
その日――帰って来た暗夜は血塗れだった。
狼の獣人であるロビンには分かる。一人や二人を殺した程度では利かない濃厚な血の匂い。暗夜が場を外したのは僅かな時間だ。その僅かな時間で、百人以上、手に掛けた筈だ。
地獄を散歩して来たと言っても通用しただろう。
誰もが恐怖を覚える光景だった。
ロビンが知っていた主は、激しくも優しい少年だった。目の前の男は……暗夜……虚無の闇から生まれた男。
時折、ロビンは思ってしまう。
ロビンの知っているあの少年と、この暗夜という男は別人なのではないか、と。
そして、暗夜は何でもない事のように、神官服の袖から聖女の目玉を取り出した。
ロビンの感性では――気持ち悪い。
自身も人を殺した事はある。なんなら、暗夜より残忍に殺した。だが、興味からその一部を持ち帰った事はない。
「見ろ、ロビン。少しエルナのものと違う。そう思わないか?」
これは違う。ディートと暗夜では、違う。中身は同じでも、全く違う存在だ。
ロビンは何度も首を振った。
思い出したのは、六年前の事だ。あの日、ロビンは愚かにも違う誰かを連れ帰った。
それきり、ロビンの主は戻らないままだ。
そんな風に思ってしまう。
一時、小さなディートと暮らしたが、目の前の残酷な男とはまるで感性が違うような気がしてならない。
黙り込む皆の態度に辟易した暗夜が聖女の目玉を踏み潰し、虚無の闇に消えた。
ロビンは掻き毟るようにして髪を握り締めた。
――そんな筈はない、と。
だが、心の何処かが納得しない。ディートハルト・ベッカーと死神暗夜は別人だ。狼人の鋭い感性が、そう強く訴えるのだ。
マリエール・グランデが、ぽつりと呟いた。
「血と肉……」
「どういう意味ですか……?」
「先生の状態は、あんまり良くない」
それだけ言って、マリエールは黙り込んだ。
◇◇
それから数日が経過して、ロビンが海の部屋に行くと、フランキーとジナの姿が消えていた。
海の部屋では、寡黙なドワーフのゾイが一人で鍛錬に励んでいる。
「ああ、シュナイダー。いい所に来てくれたね。早速だけど、やろうよ」
ゾイは嗤っている。その笑みは貪欲に強さを求めていた。
「それは構いませんが……フラニーとジナは?」
「ん~、出てった。一応、止めたとは言っておくよ。聖エルナが連れて行ったみたい」
「……暗夜さんの許可もなく、ですか……?」
「だから、一応は止めたって」
ロビンはこの状況を持て余し、軽く唇を舐めた。
フラニーとジナが出て行った。
ロビンですら困難なのだ。あの二人の力では、奇妙な部屋を出入りする事は不可能だ。きっとエルナを言いくるめ、誘導して力を借りたのだろう。ハイエナ種の獣人のやりそうな事だ。それに優柔不断な犬人が付いて行ってしまった。そんな所だろう。
ゾイが、クスクスと鼻で嘲笑った。
「フランキー、暗夜がイカれてるだって。ホント、笑っちゃう」
このゾイだけは、六年前から変わらない。ロビンはそれを訝しく思う。
「……お前は、暗夜さんとディートさんが違う人だとは思わないんですか?」
そこで、ゾイは思い切り吹き出した。
「あれから六年も経ってるんだ。違うに決まってるよ。でも、暗夜はディだ。優しくて……隙だらけ……!」
「……でも、残酷です……」
「それは、私たちもだよね。一面だけを見て、シュナイダーは決め付けるんだ。へぇ……フランキーとは違うと思ってたけど、同じだね」
ロビンは納得できない。がりがりと髪を掻き毟りながら言った。
「……血と肉です。マリエールさんは、そう言ってましたが……お前は理解してるんですか……?」
ゾイは、呆れたように溜め息を吐き出した。
「ディはディだよ。小賢しいエルフの理屈なんか、どうだっていい。そんな事だから、シュナイダーは先生に負けたんだ」
「――ッ!」
かっとして激昂しそうになったロビンに、ゾイは言った。
「好きなように世界を見るがいい。世界は昼と夜の顔を持っていて、お前たちを嘲笑う」
「……アスクラピアの言葉ですね……」
「そういうこと。同じディなんだよ。それが理解できない内は、先生にも私にも敵わないよ?」
「……お前に?」
ロビンは、薄く嘲笑って腰の鞘からデュランダルを抜き放った。
「ドワーフの癖に、調子に乗ってますね……」
そのロビンの言葉には答えず、ゾイはかち上げるようにしてメイスを振るった。
「――ふッ!」
鋭い呼気と共に振るわれたメイスを躱し、即座に飛び退いたロビンは、鋭くゾイを睨み付けた。
さらさらとした雨が降っていた。
雨音が妙に大きく聞こえる。
不意討ち。遠慮のない、いい一撃だった。ロビンは薄い笑みを浮かべたまま、改めてデュランダルの切っ先をゾイに向けた。
「さすが、シュナイダー。でも、迷いがあるね」
ゾイは、メイスを肩に乗せて言った。
「そんなんじゃ、またディに迷惑を掛けちゃうよ? また庇われる。大事な時に、また役立たずになっちゃうよ?」
「……っ」
ロビンの脳裏に浮かんだのは、六年前の悔やんでも悔やみきれないあの選択だ。
「……お前に、私の何が分かるって言うんですか……」
ゾイは鼻を鳴らした。
「しっかりしなよ、シュナイダー。また暗夜を死なせたら、今度は許さない」
そこで、ゾイは踵を返してその場を去った。
今の状況で矛を交えれば、それは訓練に留まらず、きっと殺し合いに発展する。勿論、ロビンが勝つ。だからこそ、ゾイは去るのだ。
本当に忌々しいドワーフだ。
降り頻る雨の中、闇に消えて行くゾイの背中を見送って、ロビンは小さく舌打ちした。
暗夜とディートの顔が、脳裏に閃いて消えて行く。同一人物。理屈では分かっている。だが、心が納得しない。矛盾を背負ったまま、ロビンはデュランダルを鞘に納めた。
「胸に……穴が空いたままです……」
ロビンは、ディートに付いて行ったアイヴィが羨ましかった。
◇◇
現在、使徒暗夜の『部屋』は、マリエールが門番として管理している。
ロビンの権限は、非常時を除き、マリエールに劣る。具体的には、『書斎』に出入りできない。超能力で侵入する事もできるが、それには強い意思と力が必要だ。思ったからといって、すぐに実行できる訳じゃない。
暗夜のプライベートルームである『書斎』への常時出入りを許されているのはマリエールだけだ。
つまり、使徒暗夜の最側近は、マリエール・グランデだ。ロビンじゃない。ルシールが死んでしまうまでは、その立場に嫉妬していたが、今はそうでもない。
ロビンは自嘲気味に呟いた。
「……死人を羨む事になるとは、思いませんでしたね……」
おそらく、ルシールは本物の暗夜に会ったのだ。
漠然とそんな事を考えながら『リビング』に帰ると、そこには困惑した様子のアイヴィが居て、ロビンは眉間に険しい皺を寄せた。
「アイヴィ。何故、お前がいるんですか?」
詰問するようなロビンの口調に不愉快さを隠さず、アイヴィは答えた。
「突然、追い返されたんです。それより、主の力が上がっています。先日、血を吐いて倒れた事と関係ありますか?」
「血を吐いたですって!?」
ロビンは睨むようにしてマリエールに視線を送ったが、そのマリエールは、珍しく焦ったように口元を押さえ、深く考え込んでいる。
ややあって、言った。
「……聖女……」
ロビンにとって、今は聞きたくないワードだ。暗夜が踏み潰した目玉は既に『部屋』に取り込まれ消え去り、千切られた『右腕』に関しては、暗夜が書斎に取り寄せたまま返って来ない。それきり、暗夜は書斎に閉じ籠もって出て来ない。
マリエールは慌てたようにキーボードを叩き、何やら調査を始めた。
ややあって、言った。
「……聖エミーリアと、先生の反応がない……」
「なんですって?」
そこで――ロビンの視界は暗転した。




