不肖の弟子8
砂混じりの強い風が吹いていた。
『死の砂漠』じゃ、この風と砂が何もかも持って行っちまう。人間が生きて行くには、あまりにも過酷過ぎる環境だ。
その砂混じりの強い風をものともせず、拳聖ヴォルフは腕組みした恰好で静かに佇んでいる。
エルナが言った。
「貴方は変わりませんね、ヴォルフ」
使徒としての権能が使える『部屋』での安穏を良しとせず、今もまだ過酷な下界の環境に身を置き続ける。
「……」
ヴォルフは何も言わなかった。
師匠との事も、オレとの事も、何も。その瞳は、ずっと遠くを見つめている。
暫しの沈黙の後、ヴォルフが口を開いた。
「……聖エルナ。まさか、新たに神性を獲得する程とは思わなかった。母の加護に永遠の祝福を……」
一時は人間に堕とされたエルナが再び神性を得て、使徒として返り咲いた事は神の御業。
それがヴォルフの思う所なのだろう。
「……」
だが、エルナは首を振り、ヴォルフの祝福の言葉には何も言わなかった。
それは喜ばしい事じゃない。
エルナが再び神性を獲得する為に、聖エルナの娘たちが三人も死んだ。仮に……三人の娘が生きて帰るなら、今のエルナは自分の神性なんて喜んで捨てるんじゃないだろうか……
もし、エルナがそう思うなら、今のエルナは真の聖女に相応しい神性を持っているような気がしてならない。
それから暫く、エルナとヴォルフは他愛ない世間話をしていた。今はどうしているか、とか、互いの近況を知らせる本当にどうでもいい話だった。
ヴォルフとエルナは、一切、師匠の事に触れなかった。
エルナは、自業自得とはいえ、師匠に一度、神性を剥奪された。でも……再び神性を得て使徒として返り咲いた今も、師匠の部屋に留まっている。
ヴォルフは徹底的に師匠に叩きのめされ、戦いからの逃走という屈辱を味わわされた。
師匠は『成り立て』の新しい使徒だ。その成り立ての使徒である師匠との間に開いた『神性』の差に、拳聖ヴォルフは何を思うのだろう。
そのヴォルフと、エルナの抱く師匠への感情は、恐ろしく複雑なものである事は想像するに難くない。
俺も複雑な気持ちになった。
師匠は……俺の価値観じゃ計れない。優しくて甘くて、厳しくて冷たくて……恐ろしく残酷だ。
深く考えていると、ジナが唐突にオレの腕を引っ張った。
「フランキー。ヨルのとこに帰ろう」
それは、普段優柔不断な犬人には珍しい、はっきりとした物言いだった。
「あいつ、キライ。エルナもキライ。ジナは帰りたい」
オレは、そこでムッとした。きっと、意地になってたんだと思う。
「……んだよ。師匠は、どう見たってイカれてんだろ。テメーも今の師匠はコエーって言ってただろうが。そんなに言うなら、テメー一人で帰りやがれ!」
「フランキーも一緒」
「お断りだね」
ジナが何か言い返そうとした所で、エルナが振り返り、パチンと手を打って注目を促した。
時刻は夜だ。
辺りは出鱈目に冷え込んでいるけど、アンナの纏う炎のお陰でそこまでは寒くない。
アンナは殆ど喋らない。存在感を消して、ひっそりとエルナの背後に佇んでいるけど、居なくなった訳じゃない。エルナが注目を促したのと同時に強かった風が止み、辺りが静まり返った。アンナのやった事だ。
「……聖エルナのお話です。傾聴………」
エルナは一つ咳払いして、言った。
「ヴォルフと話が着きました。暫く、手解きしてくれるそうですよ」
……暫く。エルナは、これが一時的な出稽古の類だと思っている。暫くすれば、オレたちが師匠の下に帰るって信じて疑ってない感じの物言いだった。
「……」
ヴォルフの方でもそう思っているようで、難しい表情でオレたちを見て、小さく頷いた。
「ヴォルフが直に稽古をつけてくれるなんて、そうはない事です。二人とも、しっかり学ぶように」
「あ、ああ……」
オレは何か言いそうになって、その言葉を飲み込んだ。事を急ぐ必要はない。暫くは、あの拳聖ヴォルフを改めて見極める時間があっても構わない。本格的に師事を求めるのは、それからでも遅くない。そう思った。
エルナが重ねて言った。
「私も付き合います。肩の力を抜いて行きましょう」
格闘の訓練に怪我は付き物だ。エルナの申し出は、素直に有り難かった。
オレは、どんとジナの胸を叩いた。
「……そういう事だ。テメーも暫くは黙って付き合え……」
「……」
ジナは眉間に皺を寄せ、何か言いたそうにしていたけど、結局は何も言わなかった。少し怒っているように見えた。
◇◇
そして――ヴォルフとの訓練が始まった。
って言っても、ヴォルフは何もしなかった。
ずっと突っ立っていて、何もしない。深く瞑想して、過酷な陽光にも砂嵐にも微動だにせず、腕組みの恰好で立ち尽くすだけだった。
ヴォルフは何もしない。
でも、オレたち生身の獣人には、それだけでキツい。身を守る為に、常に気を張って闘気を使ってなきゃいけないし、腹が減りゃ、眠くもなるし排泄だってする。
エルナがパンと水を出してくれたけど、力が制限される下界じゃ、それが限界みたいだった。
「私には分かりませんが、ヴォルフは思う所があるのでしょう」
エルナは少し困惑していたみたいだったけど、ヴォルフのやり方に異議を唱える事はしなかった。
そのヴォルフが口を開いたのは、三日後の事だ。
「……死神は……どうしている……」
その時には、オレもジナもへとへとだった。殆ど寝てなかったし食ったのはエルナの出したパンだけだ。
オレは、少し離れた場所で胡座をかき、深い瞑想に沈むエルナを確認して言った。
「師匠なら、完全にイカれてます。人工聖女の一人を殺りました」
「……」
使徒は互いに不干渉。その事を思えば、ヴォルフが師匠の事に言及するのは意外な事だって言える。
「部屋に帰って来た時、全身血塗れで、その人工聖女とやらの右腕を持ってました。引き千切って持って帰ったみたいです」
「ふん……やりそうな事だ……」
ヴォルフが軽蔑したように鼻を鳴らした。
「それだけじゃありません。聖女の目を持ってました。恐ろしい事です。くり抜いて持って帰ったんです。完璧、イカれてます。なんでも『聖痕』の形が少し違うとか言ってましたが――」
「――なんだと?」
そこで、ヴォルフはギョッとしたように振り返り、慌てて思い直したように、まるでもぎ取るみたいにして視線を元に戻した。
それから、ヴォルフはまた黙り込んでしまった。その様子は瞑想しているのではなく、深く考え込んでいるように見えた。
また何もせず、棒立ちする時間が続く。
フォルター砂漠。
別名『死の砂漠』の異名は伊達じゃない。容赦なく照り付ける太陽と吹き荒ぶ砂嵐とが、オレとジナの体力を削って行く。
更に三日経って、ヴォルフは気が変わったのか、漸く組打ち稽古する気になったようだった。
短く息を吐き、静かに言った。
「……二人とも、掛かって来い。少し見てやる……」
その時点でオレたちはヘロヘロだったけど、あの拳聖ヴォルフが直に稽古をつけてくれるなんて名誉はそうそうない。
オレもジナも一時の消耗は置き、全力でヴォルフに立ち向かった。
でも駄目だ。身体に力が入らない。死の砂漠の過酷な環境が、オレたちから体力を奪っていた。
そんなオレたちの攻撃を軽くいなしながら、ヴォルフは呆れたように言った。
「……なんだ、その腑抜けた攻撃は。もっと本気で打ち込め。殺す気で――」
言い掛けて、ヴォルフは険しい表情で黙り込んでしまった。
「……?」
漠然と考える。
師匠なら、こんな消耗した状況での訓練は止めるように言っただろう。でも、戦いってのは待ってくれない。だから、ヴォルフがこの極限に近い状況で組打ち稽古するのも、オレたちの力の上限を引き上げる為でもある。納得はできる。でも……
そこで思った。
なんだか既視感がある。
師匠がヴォルフを徹底的に追い詰めた時、なんて言った? なんか、おかしい。でも戦いは待ってくれない。疲れも相俟って、頭の中は滅茶苦茶だった。
その日、オレとジナは、徹底的にヴォルフに叩きのめされた。
怪我はエルナが治してくれたけど、オレとジナは衰弱しきっていた。アンナの炎で暖が取れなきゃ、色々と危なかったと思う。
そして、パンと水だけの食事。
オレとジナの消耗具合に、エルナは焦っていた。
「その、一度、暗夜の部屋に帰って休みましょう。暫く休んで、今度はしっかり準備を整えてくればいいんです」
ジナは、全くそうだと言わんばかりにオレを見つめている。
ここは『海の部屋』とは違う。
師匠は厳しくて、度々、クソ野郎のシュナイダーや、あの複製ザームエルを送り付けて来て、試練を与えて来たけど、あそこの環境は恵まれていた。怪我をしても修道女かエルナ、エミ姐さんが治してくれた。メシは海でどうとでもなったし、なんならアイヴィの差し入れだけでもやって行けた。
おそらく、師匠とヴォルフの考え方は違う。
まず環境を整え、極限に追い込もうとする師匠に対し、まず極限に追い詰め、それから試練に取り組むヴォルフ。
戦士としては、ヴォルフの考え方が正しいように思う。甘えを許さない。
ここは寒いし暑い。ろくに食う物もない。使徒であるヴォルフやエルナはともかく、オレやジナがやって行けるような環境じゃない。
オレたちは……大事にされてたんだ。
そう思うと、なんだか泣きそうになった。
別に後悔してる訳じゃない。
でも、オレは師匠の事を何も理解してなかったように思った。
その晩、砂の部族から襲撃を受けた。
有力な砂の部族は、白蛇に滅ぼされちまったけど、生き残りが居ない訳じゃない。カスみたいなヤツは何処にでもいて、そいつらが徒党を組んで新しい部族が出来上がる。
元はザールランドやトリスタンに居て、そこでやって行けなくなったクズの下らない集まりだ。ただの盗賊集団。
オレとジナの消耗具合に気を揉むエルナの横で、ヴォルフがつまらなそうに言った。
「ぶちのめして来い。だが、殺すな」
「……」
ヴォルフなら、そう言うと思った。
エルナの癒しじゃ、怪我は治せても、体力までは万全にならない。これはエルナの力が弱いんじゃなく、それだけオレとジナの消耗が激しく、衰弱しているという事だ。
オレとジナは、疲れた身体に鞭打って立ち上がる。
なんだこれ……
ムセイオンを思い出した。こんなに消耗した状態での戦闘は久し振りだった。
師匠なら許さなかっただろう。
だから、ムセイオンを滅ぼした。
馬鹿なオレには、師匠とヴォルフのどちらが正しいかなんて分からない。
でも――
その、下らない盗賊集団との戦いで、ジナが死んだ。
「……」
黒塗りの投げ刀子だった。
衰弱と消耗で、注意が散漫になってたんだろう。音もなく、夜陰に紛れた黒塗りの刀子が見えなかったんだ。
刀子はジナの心臓に突き立っていた。
慌ててエルナが駆け付けた時には、ジナはもう、息をしてなかった。
遅れてやって来たヴォルフは、ジナの死体を見て、何でもない事のように言った。
「こんな事もある」
なんだって? よく聞こえない。
オレの妹分が死んだのに、そんな言葉で簡単に片付けるのか?
エルナは、呆然としてヴォルフを見ていた。
多分、オレと同じ事を考えてるんだと思う。
何を言ってんだ、コイツ。
ジナは、最初から嫌だって言ってた。最初から嫌だって言ってたんだ!!
オレは、ヴォルフに飛び掛かった。
殺すつもりだった。




