86 夢幻
黄金の輝きで辺りが包まれる。
咄嗟の判断でロビンだけは逃がしたが……俺は駄目だ。逃げられない。部屋移動は既に封じられている。
白く滲む世界の中、俺は激しく毒づいた。
「……クソったれが……!」
目前に広がるのは、目も眩むような白銀の光景。無限に続く雪原。
そこは――
奇妙な部屋。ただし、母に属する空間ではない。
軍神アルフリードに属する空間。
見渡す限りの雪原に、しんしんと雪が降り積もっている。
マッチ棒が言った。
「お、おい、邪悪な子供。ここは……ここは、まさか……『夢幻』か?」
俺は、ぎょっとした。
「……マッチ棒。何故、お前がいる……いや、すまん。巻き込んでしまったのか……」
マッチ棒は忙しなく視線を左右に動かして、警戒するように辺りを探っている。
「……邪悪な子供。お前、何をした……ここが本当に『夢幻』なら、ここはアルフリードの縄張りだぞ……!」
「知ってるよ。それぐらい」
こんな時だが、俺は憐れなマッチ棒に同情した。
既に『部屋移動』は封じられている。俺がアルフリードに殺されるなら、それは自業自得だが、マッチ棒に至ってはただの巻き添えだ。
一面に広がる雪原。
他には何もない。そして身を切るようなこの寒さ。全てマリエールの知識にあった『夢幻』と一致している。
マッチ棒が、ごくりと息を飲み込んだ。
「邪悪な子供。いや……邪悪な女神の子……わ、私たちは……死ぬのか……?」
俺は、少し考えて言った。
「分からん。だが、向こうが『その気』なら、とっくに俺たちは死んでいる」
そう答える間にも、俺は冷気耐性の術を重ねて酷寒に備える。
アルフリードを祖とするアルフリード帝国は、年中、雪が降り積もる雪国だ。それ故の無限の雪原。
俺は言った。
「絶体絶命だな……」
この『部屋』から出るには、アルフリードの許可が必要だ。本体の力なら、或いは結界を破る事が出来たかもしれないが、人間の身体では無理だ。
「マッチ棒。なるべくお前を死なせないように努めるが、駄目な時は許せ」
「……」
マッチ棒は、諦めたように鼻で軽く微笑った。
こうなったのは、アシタを侮った俺のミスだ。ロビンだけでも逃がせたのは僥倖だった。
俺は聖印を切り、『夢幻』の雪原を踏み締めて歩き出す。
「……アスクラピアの二本の手。一つは癒やし、一つは奪う……」
本体との接続は切れたままだ。ここでアルフリードに殺られればアウトだ。俺は死ぬ。
口からは、自然と祝詞が溢れる。
「彼の者は永遠に一である。多に分かれても一である。永遠に唯一のもの。一の中にこそ多を見出だせ。多を一のように感じるがいい。そこに始まりと終わりがあるだろう」
さくり、さくり、と粉雪を踏み締めて進む。
俺は『アスクラピアの子』。軍神の剣により裂かれた母の腹より這い出し、遂には軍神をすら呪い殺した邪悪な女神の子。
俺が生きて帰る事は難しい。本体と分かれているのが悔やまれる。本来の力さえあれば、ヤツに一泡吹かせてやる事も出来たかもしれない。
「……邪悪な子供。何がおかしい……」
「……?」
「お前、さっきから笑ってるぞ」
「そうか。この身に背負う業ゆえの事だ。見逃せ」
さて、俺の知る限りでは、この『夢幻』と呼ばれる空間は、軍神の領域だ。
この世界に於いて、『十二』は神聖な数字だ。
理由は分からない。だが、召喚兵を呼ぶ場合、最大単位の倍数は十二で区切られるし、俺が纏う神官服のボタンもやはり『十二』だ。
膝まで沈む粉雪を掻き分け、夢幻を進む。
やがて、大きな切株が見えて来て、その切株を囲むように小さな切株が十二並ぶ開けた空間に出た。
マッチ棒が絶望したように呟いた。
「……軍神の円卓……」
正にそうだ。
俺は立ち止まり、腰の後ろで手を組んだ。瞬き程の間に殺されるだろうが、死のその瞬間までは胸を張ってやる。
そして――
十二の切株に、一人、また一人と戦士たちが現れて腰を下ろす。
アルフリードの使徒だ。
軍神に選ばれた戦士たち。全員が軍神の直系の子孫たち。祖先であるアルフリードから逆印の咎を受け継いでいる……筈だ。
九人の戦士たちが現れ、最後に一際大きな体躯を誇る長身の男が現れ、首席である大きな切株に腰を下ろした。
三つの空席がある。
一つは、カッサンドラのものだろう。母に付きはしたが、未だに強い軍神の加護を戴く証であるとも言える。
残りの二つは……誰のものだ?
分からない。考えるのは後だ。
軍神の九名の使徒は興味なさそうに腕組みの姿勢で俯いている。実際、俺には興味がないのだろう。ちらりとも視線を向けない。
一際目を惹いたのは、首席に座る褐色の肌の男だ。若い。長身で大柄だが、引き締まった筋肉質の男。
――軍神。
軍神は、俺を見て朗らかに笑った。
「よく来た。アスクラピアの子。あの陰気な女はどうだ。元気にしているか?」
「……さあ、どうだろうな。しみったれていて嫌な女だ……元気な所は見た事がない……」
俺の言葉にアルフリードは吹き出し、それに合わせて九人の使徒も失笑した。
腰に二本の剣を差した剣士が言った。
「父上。こいつ、殺すには惜しいぞ? 面白いヤツだ」
双刀の剣士『ランスロット』。
その言葉に待ったを掛けたのは、陽光の下で三倍の力を発揮すると言われる聖剣『ガラティーン』を持つ『ガウェイン』。
「ない。ないな。アスクラピアの子は須らく殺すべし」
「然り。所詮、蛇の子。強欲の本性には抗えん」
同意したのは隻腕の戦士『カラドック』。伝承では、アスクラピアの蛇に右腕を喰われた。
俺は強く鼻を鳴らした。
「……俺の事はどうでもいいが、このエルフの男は関係ない。見逃してやってくれないか……?」
そこで、アルフリードは片方の眉を持ち上げた。
「あぁ、エルフか……いいだろう……」
「……」
その言葉に安堵するのと同時に、何故か妙な引っ掛かりを感じた俺は、アルフリードを睨み付けるようにして凝視した。
見る。視る。観る。
何も分からない。アスクラピアと同様に、こいつを俺の価値観で測る事は不可能だ。
これもまた超自然の存在。
――神。
アルフリードは言った。
「レオンハルトはどうしている。あれの為に席を空けてあるのだ。あれを呼ぶなら、お前を見逃してやらん事もない」
「……」
残る空席二つの内、一つは白蛇のもののようだが……
俺は断固として言った。
「断る」
白蛇とは血の盟約を結んでいる。喚び出せない事もないが、この死地にヤツを喚び出す等、あり得ない。
「軍神、一つ問う。貴様の狙いはなんだ」
「ふむ……」
アルフリードは若い男だ。見た目の年齢でいえば二十代の半ばといった所か。顎を擦りながら、考え込むように言った。
「……混乱、混沌、戦乱……思う所は多々あるが……顕現まで行けば上等だな……」
「顕現だと……?」
アスクラピアにはアスクラピアの神性があるように、アルフリードにはアルフリードの神性がある。
エミーリアの言葉通りだ。
アルフリードは、混沌と戦乱の世界を望んでいる。
目眩がした。
軍神が率いる人工勇者と人工聖女の軍団。世界は完膚なきまで破壊されるだろう。
だが……その先に何がある?
アルフリードが壊し、アスクラピアが再生する。神々はその先に何を思う? こいつが余程の阿呆でもない限り、思う所がある筈だ。
俺は首を振った。
「軍神、その先に何がある。何を夢見ている」
アルフリードは笑って答えた。
「次の世界」
「……」
「より高き場所へ至る道」
「……」
分からない。
こいつは何を言っている。ただ……俺が探る『世界の謎』に関係している事はなんとなく分かる。そして、恐らくは母も同じ道を目指している。
世界の謎――神々の見る夢。それは……
そこで、アルフリードが思い出したように、ぽんと膝を打った。
「忘れていた。人質を返そう」
「人質?」
「アシタはよくやった。お前をこの場に送る事が返還の条件だった」
「なんの事だ。なんの事を言って……」
その次の瞬間、何もない空間から、つんのめるようにして一人の青年が飛び出して――その姿に俺は目を瞠った。
銀色の髪。ザールランドの国章を背負う白い神官服を纏ったその青年は――
ディートハルト・ベッカー。
眉を下げ、怯えた表情。青い瞳で俺を見て……申し訳なさそうに目を逸らした。
「ディートハルト……お前は……」
「ご、ごめんなさい。ヨルさん……」
負い目を感じる表情。ただ人質に取られただけなら、目を逸らしたり、言い淀んだりしない。
「……」
呆然とする俺に、アルフリードが笑い掛ける。
「さぁ、アスクレピウス。兄を呼べ。お前の叫びなら、レオンハルトも応じるだろう」
軍神の使徒は十二席。首席たるアルフリードを含めれば十三席。
十三番目の席には裏切り者が座るという伝承がある。その座に着く者は、永遠の服従を誓わされる呪われた末席。そこが白蛇の座る場所だとするならば……
「……ディートハルト……貴様……!」
激しい怒りに、俺は全身が沸騰する思いだった。
アルフリードが白蛇に拘泥する理由は分からない。だが、これだけは理解した。
俺と白蛇は、ディートハルトに売られたのだ!




