30 母の戯れる指
ちらちらと視線を送ってくるガキ共が、俺にいったい何を望んでいるのかなんて知りたくもない。
ガキ共の偶像崇拝を加速させないように、その後の俺はひたすら沈黙を守り続けた。
「……」
俺は、ふいと視線を逸らし、その場に胡座をかくようにして座り込んだ。
ガキ共の視線が痛い。
石鹸を作っちゃいるが、神経は俺に集中させている。やりづらい事この上ない。その針の筵の上で、俺は暫く待たされた。
だから、やって来た人影を見た時、俺の落胆は尋常なものじゃなかった。
「……」
俺は虫でも追い払うように手を振って、そいつを追い払おうとした。
「…………」
だが、そいつは俺を凝視して動かない。何か言う訳でもない。ただただ、俺を見つめている。
……猛烈に居心地が悪かった。
それでも考えて言葉を選んだのは、そいつがジナなんかより余程厄介な存在に思えたからだ。
「……エヴァ、すまん。アシタとゾイを呼んで来てくれないか……?」
「……」
エヴァは、俺を凝視したまま喋らない。以前より、ずっと薄汚れた格好になっていたが、足元のふらつきや覚束なさは消えているように感じる。
長い沈黙が続く。
たかが一ヶ月。されど一ヶ月。お互い、立場は随分と変わった。
『メシ炊き女』と呼ばれるこの集団の底辺労働者と、『おくのひと』とか言う即神仏候補の睨めっこが続く。
「……………………」
この沈黙に先に音を上げたのは俺だ。長い沈黙を挟み、言った。
「……息災か」
「ああ……」
頷いたエヴァは『腕組み』の姿勢になって、胡座をかいたままの俺を見下ろした。
『腕組み』は警戒、防衛心理の現れ。俺は、はっきりとこいつに何かした覚えはないが、未だに嫌われているのだけは分かる。
「エヴァ……すまないが、アシタとゾイを――」
「知らないね!」
「……」
一ヶ月の時が流れ、お互いにおかしな立場になっても、俺たちの関係には変わりがないようだ。
エヴァは腕組みした姿勢で、ぐんと偉そうに胸を張った。
「あたしが聞いたげるよ。何の用だい?」
「……」
関係が変わらないなら、話す事は何もない。俺が黙り込むと、エヴァは勝ち誇ったように嘲笑った。
「……あんた、少し変わったねえ! 痩せっぽちになってまあ! 今にも死にそうな病人みたいだ!!」
「……」
どうやら俺を愚弄したいようだ。でもまぁ、その通りだ。レベル『ドレイン』の症状はなかなかキツかった。
昏倒、目眩、吐き気。最初の十日は食事を摂る事すら困難だった。なんでも、マリエールの話じゃ、俺の年齢だと『ロスト』の可能性があったんだとか。
まぁ、その『ロスト』とやらがどういう症状なのかは知らんが。
そしてこれは遠造から聞いた話だが、尻尾を失った猫人は、一時腑抜けのような状態になるらしい。なんでも、尻尾で繊細なバランスを取っているんだと。
だが一ヶ月が経ち、その影響は抜けているのだろう。嘲笑うエヴァの姿に弱々しい所は見られない。
「……」
「はンッ、今度は黙りかい。あんたのお陰で、こっちはご覧の有り様だよ!!」
今のエヴァは襤褸を纏い、ろくすっぽ風呂に入る事すら許されず、この集団の中では最低レベルの労働者である『メシ炊き』としてアビーに使われている。だが……
「それは俺のせいじゃない。その運命を選んだのは、あくまでもお前だ」
「ぁんだってえ!?」
「人には己の運命を選び取る権利がある。それがどのようなものであれ、今のお前の状況は、お前自身が望んだものだ」
「――つッ!」
エヴァは鋭い爪の伸びた右手を振り上げた。
俺は『人間』だ。亜人の力で打たれたらひと溜まりもない。死の危険すらあったが……
だが、エヴァは考え直したのか、右手を振り上げた格好で動きを止めた。
ニヤニヤ嘲笑いながら言った。
「……じゃあ、今のあんたのその様も、あんたが選んだ運命なのかい?」
「……そうだ」
エヴァの言っている事は正しい。正しく、今の俺の姿は俺自身が俺自身の覚悟と軽率さによって選んだものだ。
「…………」
ふと、エヴァは顔を歪め、苦しそうな表情になった。
振り上げた右手は動かない。
苦しそうに言った。
「勝ち誇りなよ。今のあたしを嘲笑いなよ……!」
「言っている事が分からない」
俺は簡潔に答えた。エヴァと何かしらの勝敗を競った覚えはない。
「……!」
エヴァの振り上げた右手が震えている。
俺は『人間』だ。腕力だけで言えば、猫人のエヴァに敵うべくもない。生殺与奪の権利はエヴァにあると言える。
怒りに震える声でエヴァが呻いた。
「笑えよ。笑え。今のあたしを笑えよ……! そうじゃなきゃ……!」
エヴァの振り上げた右手が震えている。それは何故か振り落とされる事はなく――
エヴァの頬に、涙の筋が伝って落ちた。
「……あんたが来て、皆、おかしくなった。アシタもゾイも、ビーも!!」
「……」
本当におかしな事だが、誤りと真実とは源泉を同じくする事が多い。エヴァの言葉は一方的でありながらも、ある種の真実を捉えている。
俺は異世界人だ。
その存在がアビーたちに影響を与えていないとは断言出来ない。
「……笑えよ。笑え! じゃなきゃあさあ! あたしがあんまり惨めじゃないか……」
……憐れだった。
目の前で泣いているのは、十二、三歳のガキだ。亜人だの人間だのという種族の違いは関係ない。
俺はやり過ぎたのだ。
俺は『大人』で、『子供』の失敗を赦す義務がある。諭す義務がある。俺は狭量な事に、その義務を怠った。
「…………」
だが、ここで謝るのは更にエヴァのプライドを傷付けてしまう気がして……
不器用な俺は沈黙を選ぶ。
そして、エヴァの涙は止まらない。振り上げた手は、いつの間にか力なく下に向いていた。
低い声で言った。
「……クソ野郎……」
「あぁ……」
「クソ野郎!!」
「……」
言い訳は全て卑劣だった。何故ならば、俺は、エヴァが納得するように行動した事は一度だってない。アシタと比べ、エヴァの扱いに著しく『公正』を欠いた事がその最たる例だ。
戒律を破った結果がこれだ。
石鹸作りのガキ共が、困惑したように俺たちのやり取りを見つめている。
存分に見るがいい。
ここにはお前たちが望むような偶像は存在せず、居るのは狭量な一人の男だ。
エヴァの涙は止まらない。
屈辱だろう。惨めだろう。腹が立つだろう。だが、怒りのぶつけ所は何処にもない。それが、俺のやった事だ。
「……二十年って、なんだ……?」
涙を流すエヴァは唇を噛み締め、苦しそうだった。
「……アシタもゾイも……あたしがこき使っても、文句の一つも言いやしない……」
「…………そうか。そうだったか……」
アシタもゾイも、二人なりに責任を感じたのだろう。だから、この一ヶ月、俺の元へは来なかった。
「……」
長い沈黙があった。
不器用な俺は受け入れるだけだ。返す言葉もない。一人、自分だけが大人だと傲っていた。
……母よ。あんたは本当に性質が悪い冗談が好きなんだな……
その述懐はあまりにも苦い。
そしてエヴァの涙は止まらない。
「何で幸せそうにしてない……」
『幸せ』も『不幸』も主観によるものだ。見方によって答えは変わる。俺は生まれてこの方、自分が『幸せ』だと感じた事は一度もない。だから……
「……意味が分からない……」
「笑えよ。笑え。あたしを笑え」
「おかしくないのに笑えない」
「……!!」
そこで、とうとうエヴァの感情が爆発した。
「なんなんだ、お前! なんで死にかけてる! なんで幸せそうにしてない! 二十年ってなんだ! 二十年ってなんなんだ!!」
「……」
俺の狭量さに与えられた罰が二十年という寿命なら、それは皮肉が効いている。
どうやら母は、俺の人生哲学を、もう一度見直せと仰るようだ。
俯き、エヴァの言葉を受け入れる俺は、胸の内で小さく息を吐く。
◇◇
お前は生き続けよ。
そうすれば、分かって来るだろう。
◇◇
母は超自然の存在だ。こいつの考えている事や思惑は、虫けらの俺には分からない。だが、見つめている。俺のする事を見守っている。
俺は何かを感じ取る。
新しい哲学が生まれる。頭上に輝く清らかな銀の星が……
刹那。
ぐしゃり、と肉の潰れるような音がして、俺は吹き飛んだ。
「……?」
何が起こったか分からない。
とにかく、凄まじいスピードとパワーで吹き飛ばされた俺は、長屋を支える太い柱にぶつかって、跳ね返るようにして庭に転がり落ちた。
「うぶぶぶ……!」
なんとか立ち上がろうとして両手を着くと、口と鼻から大量の血が溢れて地面を赤く染めた。
「……」
やったのはエヴァだろうか。見えなかった。速いとは思っていたが、これ程とは……
「…………」
だが、そのエヴァは涙を流した表情をぽかんとさせ、血を吐く俺を見つめている。まるで、予期せぬ何かに襲われでもしたかのような忘我の表情だった。
「…………」
ぎ、ぎ、とエヴァの首が動いて『そいつ』を見た。
微かな獣臭が鼻を衝く。生理的に受け付けない匂いだ。
そいつが言った。
「ジナのかち。これで、ジナがにばん」
「……」
何が起こったかは理解した。
こんなヤツが居たなぁ、なんて考える。折れた肋骨が肺を傷付けたのか、吐血が止まらない。
俺は自ら作った血溜まりに倒れ込んだ。
すると、不思議な事が起こった。
朦朧とする意識の中、ごきん、ごきん、と固いブロックを組み換えるような音がして、エヴァの体つきが変わって行く。
……豹?
身に纏う襤褸をばりばりと引き裂き、そこに現れたのは、闇を溶かしたように美しい巨大な黒豹の姿だった。
だが、残念な事に尻尾がない。
それさえあれば、彼女は完璧な姿だっただろうに。
「ガアァアァアァアッ!!」
それは、正に悲憤慷慨の咆哮だった。
最後に見たものは――
怒りに満ちた咆哮を上げると共に、狼狽するジナに飛び掛かる黒豹の姿だった。