77 神の手
俺は薄く嗤った。
「待たせたな、聖女。お前の番がやって来たぞ」
「……」
聖女はカチカチと歯を鳴らし、目に涙すら浮かべて震えていた。
俺は構わず言った。
「レディファーストだ。先手をやる。さあ、蛇を出せ」
『アスクラピアの子』がその身に飼うとされる『アスクラピアの蛇』だ。この人工聖女が俺と同じ類の神力を使うなら、『アスクラピアの蛇』を出せる筈だ。
「……」
暫しの沈黙を挟み、俺は鼻を鳴らした。
「……そこまでは真似られなかったか。まぁ、そうだろうな……」
だとしたら、どういう構造だ? グレゴワール……いや、軍神は、どうやって聖女を造った?
謎は深まるばかりだ。
「ふむ……少しサンプルが欲しいな……その目……紫のその目……聖痕があるな……一つ譲ってくれないか……?」
「…………」
聖女は動かない。いやいや、と子供のように首を振って、馬に跨るその足元から尿が伝っている。
「他所の子よ。実に汚らしいな。最初の威勢はどこに行った」
俺はもう、こいつらには容赦しないと決めている。
さて――
聖女には、今の俺はどう見えているだろう。悪魔か? それとも邪神の類か? 邪悪な母は復讐を推奨している。
聖女は、殆ど泣き出しそうな声で言った。
「よ、寄るな……」
「ふむ……」
目の前に、三名分の神力を持つ使徒がいると表現すればいいだろうか。聖女は俺との間に圧倒的な力の差がある事は理解しているようだ。そして、実に興味深い研究対象でもある。
「……多量の発汗、脈拍の向上、自律神経に乱れが見られるな……息苦しいだろう」
その瞬間、聖女が動いた。
神官服の広い袖に右手を突っ込み、何かを取りだそうとして――
「――!」
すかさず飛び出した俺は、力任せに聖女を馬から引きずり下ろし、右腕を毟り取って袖から引き抜いた。
「――うぎゃあぁあぁあぁあッ!」
「うるさい」
引き千切った聖女の右手には、赤い宝石が握られていた。
ルビーだ。
凄まじい神力を感じるが、俺とは反発する類のものだ。ちなみに、ルビーの石言葉は『情熱』、『良縁』、『勝利』、『自由』、『純愛』、『勇気』、『美』、 『威厳』。また『勝利の石』とも呼ばれる。軍神が持たせた切札の一つと見ていいだろう。これも実に興味深い研究対象だ。
ヴォルフを逃がした時にはどうなるかと思ったが……
「……今夜はツイてるな……」
闇夜に響くのは聖女の悲鳴。
右腕を千切られた肩口から、ばしゃばしゃと音を立て、大量の血液が噴き出している。
「どうした、傷を塞げ。それぐらいはできるだろう」
俺の中の『蛇』のざわめきが止まった。どうやら『勝利の石』に反応して騒いでいたようだ。
「……」
俺は、聖女の襟首を捻り上げたまま、黙って観察を続けた。
闇夜に冷たい銀の月が掛かり、俺のする事を見つめている……
ぱっと聖女の身体が金色に輝き、忽ち出血が止まるが欠損部位の修復はできないようだ。
怯えたように俺を見る聖女の表情は引き攣っていて、大量の出血を見た顔色は酷く青白い。重度の貧血の症状が見られる。
「ふむ……その辺りは人間の領域を出ないな……」
放って置いても、そのうち気絶するだろうが……俺の中の『蛇』が強く囁く。
――早く殺せ!
そんな事は分かっている。聖女を逃がすような間抜けじゃない。またどんな隠し玉を所持しているとも限らないし、即殺する事に忌避の感情はない。
だが、その前に――
「サンプルをもらう」
俺は、聖女の右目に指を突っ込んでくりぬいた。
「――ひぎゃあぁあぁあッ!」
「うるさい。傷なら自分で治せばいいだろう。目玉も腕も二つあるんだ。一つぐらい取られたからってなんだ」
俺は残酷に言って、聖女の顔を右手で掴んで吊り上げた。
――なるべく酷く。残忍に。
「……ルシールとクロエは消し炭になって死んだ。遺体はおろか、骨も残らなかった……」
全て炎の中に消えた。特に生きたまま焼け死んだだろうクロエの苦しみを思うと、俺の胸は強く痛んだ。こいつも簡単には死なせない。
聖女の爪先から青白い神力の焔が上がり、肉を焼く匂いと共に恐ろしい悲鳴が上がる。
「お前の悲鳴は聞き飽きた。もう黙れ」
聖女の悲鳴がピタリと止まる。
無詠唱の術も有効。もがき苦しむ聖女の抵抗は些かも弱まらない。文字通り、死力を尽くして暴れ狂うがそれは『運命の手』で抑えつける。
◇◇
たっぷり十五分は掛けただろうか。俺の蛇は、ゆっくりと聖女を焼き、喰い殺した。
後には遺体すら残らなかった。
「まずまずだ……」
喰って分かったが、俺のようなアスクラピアの使徒とは神力の類が違う。使徒と比べれば力は弱いが、質の方は悪くない。
軍神の力を得た俺は、また次のステージに進む。
身体が燃えるように熱い。
まるで、軍神の熱血が身体を駆け巡っているように感じる。
今だ。今ならやれる。俺には、その確信があった。
「終わった……トビアス、もういいぞ。立て。逆印を取ってやる……」
この惨劇の生存者はトビアスを含めて二十名程だ。降伏したトビアスに倣って剣を捨て、平伏して死神の寛恕を請うた者だけが生き残っている。
惨劇の中、動かず、平伏していたトビアスの全身は、俺が撒き散らした血と臓物とで汚れていた。
「……」
面を上げたトビアスの表情は、狂気の滲む泣き笑いの表情だった。
目が合って、俺が、ニッと嗤って見せると、トビアスも肩を揺らして狂った笑みを返した。
「大丈夫だ。悩みも死も、お前の魂を脅かしはしない」
身体を駆け巡る軍神の熱血が叫ぶ声が聞こえる。――やれる。
逆印を消す祝詞が溢れる。
「鳥の心。海の心。土の心。死にゆく者を兄弟と呼び、生くる者を愛の名をもって呼ぶ。硬い石であるとはいえ、決して生き長らえはしない。それは微笑みつつ消える」
陽の光に消える玉響な塵の中で……瞬間々々に、新たな喜びと悩みに向かって永遠に蘇る。
俺の『運命の手』が、赤くぼんやりと光り輝く。やれる。自信がある。これぞ――
狂気に震え、涙を浮かべて寛恕を請うトビアスの額に刻まれた逆印に触れる。
その瞬間、眩い輝きが闇夜を切り裂き暗がりを追い払う。
「……」
トビアスの顔から狂気の色が消え失せ、重い鎖から解き放たれた罪人のような安堵の色が浮かぶ。
そのトビアスの額からは、呪われた逆印は影も形も残さず消えていた。
俺は左手を差し出して、相性のいい真銀を創造する。
「…………?」
トビアスは顔に疑問符を浮かべ、じゃらじゃらと音を立て、地面にばら撒かれた真銀のコインを見つめていた。
「餞別だ。売って路銀にするといい」
俺は静かに言った。
「疾く去れ。この国は滅びの道を選んだ。速やかに妻子の下へ向かえ、お前は赦された。妻子は暖かくお前を出迎える。生きよ、増えよ、もう悩みも死も、お前の魂を脅かしはしない」
俺は神官だ。赦しは徳の一つ。そして、高位神官の言葉には力が宿る。
アスクラピアの二本の手。
一つは癒し、一つは奪う。
「その者、全にして一つ。全にして多に分かたる」
善と悪とは表裏一体。俺は善と悪とを知り、その上で越えて行く。
「その者、多にして全。全にして永遠にただ一つなり」
俺は新しい力を取り込む事により、一つの『真理』に到達した。
立ち塞がる困難に立ち向かい、あらゆる暴力に逆らって自己を守り、決して屈する事なく力強く振る舞えば、アスクラピアの子は神の手を引き寄せる。
これぞ、『神の手』。
もう、誰も俺を止める事はできない。
死と静寂とが匂いのように揺れて漂う暗がりで、俺は神官服の裾を翻す。
「お前の道行きに、新しい銀の星の導きがある事を祈る」
背を向け、祝福の言葉を贈るその俺を、トビアスは平伏したままで見送った。
――あと、二人。
俺は、いつだって俺のままでいようと思う。
その俺の手が神を捕まえる。
決戦の日は近い。
夜空に輝く銀の星が、俺のする事を見つめていた。