76 血風
虚無の闇の中で、俺は喜びに震えていた。
ああ……今すぐにでも……殺したい。
いや、駄目だ! まずは捕まえて尋問するのだ。馬鹿な! この機会を逃すのか!? 愚かなフラニーが何をした?
――木偶の坊のヴォルフを逃がしやがった!
迷わず殺せ!
それで、間違いなく厄介事が一つ減る。またどんな邪魔が入るか分からない。
俺は頭を掻き毟った。
理性と本能とが猛烈な綱引きを始めるが、今はこの苦悩すら愛おしい。狂おしい。
「暗夜さん?」
「黙れ」
「先生?」
「うるさい。今の俺に話し掛けるな」
俺の中の蛇が騒ぐ。アルフリードの立てた聖女を殺せと悶え狂う。
俺は、この渇きにも似た衝動に逆らえそうにない。
◇◇
俺は嗤っていた。
もう二度と会えない。
――手を振る影。
もしかしたら、あり得た未来。
全ては炎の中で失われた。もう、二度と元の姿には戻らない。
ことん、ことん、と小さな音を立てて新しい泪石が石畳の床を打ち――それらを踏み躙って消した。
「……はじめまして、アルフリードの聖女……」
俺は恭しい仕草で頭を垂れる。
あぁ……親愛なる母は……復讐が大好きなのだ!!
ガキで殺るのは勿体ない。やはり……
闇が深くなる。錬金術『赤』。アネットの仕業だろう。
帝国騎士約四個小隊に聖女を含め百三十三人。全員揃った。
銀色の髪。エルナに似ているが、中性的な風貌。白い神官服。そして紫の瞳には聖痕が浮かんでいる。
『焼き付け』の邪法は、未だ謎が多い。グレゴワールは……どうやって『聖女』を造ったのか。
薬物を使って『刷り込み』を長引かせる。それだけではない筈だ。そんなに簡単に『聖女』や『勇者』が造れるなら、世界はもっと聖女や勇者で満ちている筈だ。
――特別な素材が必要だ。
騎乗し、帝国騎士を率いる白い神官服の聖女が言った。
「……これは驚いた。本当にディートハルトだ……」
「……」
俺は目を眇め、聖女を見る。観る。視る。その人格と力を値踏みする。
聖女は馬上から俺を見下ろし、鼻で嘲笑った。
「なんの真似か分からないが、アスクラピアの使徒が送り込んだ尖兵だな。まずは王宮まで御同行願おうか、聞きたい事がたっぷりある」
「……」
神経質。潔癖症。杓子定規。頑固。高圧的。男嫌い。手には白い手袋を嵌めている。
俺は言った。
「お前は何者だ」
聖女は鼻でせせら嘲笑った。
「貴様が知る必要はない」
そこで、聖女は平伏して動かないトビアスの姿を見て小さく吹き出した。
「トビアス、何を遊んでいるんだ。まぁ、役に立つとは思ってなかったが……目の前の子供を捕らえろ。それぐらいはできるだろう?」
「……」
その聖女の言葉にも、トビアスは平伏したままで動かない。
少し興味深い。
トビアスの行動の真意は、この聖女より、俺の方がまだマシといった所か。
「……」
俺は、更に視る観る見る。より深く観る。
「男に嫌悪感があるな。匂い、汗、血、涙……年齢すら関係なく、その全てに強い不快感を覚えてならない。それ故、髪を短く切り、男物の神官服を着ている。女に見られたくない。男より女の方が好きだ」
「……ッ!」
聖女は眉間に皺を寄せ、一瞬で険しい表情になった。
「覗き野郎。その嫌らしい目玉をくり抜いてやる」
「やれよ」
更に闇が深くなる。アネットの術にアイヴィも術を被せている。夜空に暗雲が垂れこめ、闇が深くなる。
聖女は気付かない。俺を鋭く睨み付け、霧のように漂う闇に気付かない。
垂れこめる暗雲が、冷たく輝く月明かりを飲み込んで行く。
「……ばら撒け、アイヴィ……」
その刹那、アイヴィは高く跳躍し、黒い泪石を聖女とその部隊に向かってばら撒いた。
名付けるなら黒泪石という所か。
「まず、プレゼントだ。遠慮せず受け取ってくれ」
強い呪詛を込めた黒泪石から闇が噴き出し、辺りに災厄を撒き散らした。
「む……!」
聖女は素早く神力のバリアを展開して難を逃れたが、背後に控える騎士たちについては、一切援護しなかった。
ある者は死に、ある者は病を得、ある者は盲、ある者は気絶し、ある者は歳を取る。
聖女の背後で恐ろしい阿鼻叫喚が響き渡り、のこのこと死地に踏み込んだ帝国騎士がばたばたと倒れ伏す。
「こんなもの!」
聖女が大喝し、手を振り払うようにして薙ぎ払うと、黒泪石の闇は流れて消えた。
神力の方はまずまずだ。
この程度の呪詛は効かないようだが、それでいい。ただの目眩ましだ。
――勇者と聖女は俺が殺る。
オリュンポスでの宣言に従って、アイヴィは即座に離脱した。
アイヴィは賢い。
愚かなフラニーとは雲泥の差だ。
聖女の神力によって闇は払われる。
そして――再び冷たい月が闇を照らし出したとき。
俺は、俺に入れ替わった。
「な! お前は……!」
本性を現した俺を見て、聖女はギョッとしたように目を剥いた。
俺は恭しい仕草で頭を垂れる。
「改めて挨拶する。聖女、その他の雑魚と同様、絶対的な死を約束しよう」
さて、今の俺ですら扱えない、じゃじゃ馬の運命だが、これも扱い方次第だ。
新しい右手が白蛇の干渉で簡単に機能不全に陥ったのは、力が強すぎるからだ。ならば、その有り余る力を外に出してやればいい。
目の前に、身の丈を超える大鎌が出現する。『死神』と来たら、武器はこれ一択だ。
さて、夜遅く帰らずにいるのは困窮と悪徳だけだ。そんなものに、俺は死神として挨拶する。
「聖女、五秒だけやる。祈るなり逃げるなり好きなようにしろ」
入れ替わった俺を見て、聖女は激しく動揺した。それも当然。俺の力は、聖女を遥かに凌駕している。ガキとは比べ物にならない。
「き、貴様は誰だ!!」
俺は失笑した。
「もう、お前が知る必要はない」
こうして話す間にも、俺は無詠唱で強化術式を行使している。聖女の目には、俺の身体から陽炎のように湧き立つ神力が見える事だろう。
逆の立場なら、俺は後ろも見ずに逃げ出すが、聖女は動揺しながらも、なんとかその場に踏み留まった。
本能的に俺を恐れ、激しく嘶き、背を返して逃げ出そうとする馬をなんとかなだめ、更に聖女は叫んだ。
「エリシャを殺したのは、貴様か!」
「……」
アスクラピアの蛇は悪食でなんでも喰らうが、好き嫌いが激しい。エリシャの死は、当時の俺にとって、余程、不味い記憶だったのだろう。その言葉で少しだけ思い出した。
俺は嘲笑った。
「違う。あいつは自爆したんだ。凄かったぞ。脳みそが弾け飛んだ」
仲間の悲惨な死に様を聞いて、聖女は眉をひそめた。
「な、なんだと!?」
一方、俺が覚えているのは嫌悪感だけだ。
「実に汚らしい最期だった」
細かい事までは思い出せないが、吹き飛んだ脳みそで神官服が汚れた俺は、実に不愉快だった。
「き、汚い……?」
茫然とする聖女は、俺の言いように言葉を失っている。
そこで五秒が経過した。
「それでは始める。お前は最後のデザートだ」
俺は不偏不党ではないが、公正である事だけは約束できる。
「名無しで死ね」
遊びは終わりだ。もう、こいつの名前にも興味はない。各個撃破のこの機会を逃がす訳には行かない。
足元に迸る青白い神力の軌跡を残し、猛スピードで突っ込んだ俺は、無造作に大鎌を振り回した。
血飛沫と共に帝国騎士の首が十ほども飛び、地獄のような悲鳴が上がるが、アネットとアイヴィの展開した闇がそれらを掻き消し、飲み込む。
既に『間合い』に入った。結界を張り、転移の類は封じた。もう誰も逃げられない。
「…………」
大鎌を振り回し、一方的に殺戮を開始した俺を、聖女はぼんやりと見つめている。
俺は首を傾げた。
「おや、血には免疫がない? ビビってないで、早く抵抗した方がよくないか? あと七十二人しかいない」
『鎌』は扱いづらい武器だ。そもそも神官としての俺は、神力の殆どを術の方に振り切っている。
「えい、この、逃げるな!」
帝国騎士たちは逃げ惑うが、少しばかり闇が深すぎる。アネットとアイヴィの錬金術(赤)。この場合、夜という環境を利用している。
視界は酷く悪く、音も色も闇に溶けて消える。
俺は、またしても首を傾げた。
「何故だ。何故、誰も剣を抜かん」
黒泪石のはったりもあったが、今の俺は、聖女を遥かに上回る神力の持ち主だ。
仮にも帝国の騎士たちだ。
それなりに鍛えられているのだろうが、それが却ってよくない。俺との間に広がる絶望的な力の差を理解してしまう。
使徒と人間の間にある差は大きい。為す術なく怯え、逃げ惑うしかない程の相手に、何故、手を出したのか。
「……」
殺戮を黙って見ている聖女は、唇を震わせて怯えていた。
軍神の狙いが分からない。こんな雑魚を使って邪悪な母をどうにかできるとでも思っているのだろうか。
俺が大鎌を振るう度に、聖女の白い神官服が、騎士たちの断末魔と血に汚れて行く。
俺は、第十七使徒『暗夜』。
厳しい生贄を求め、夜に荒ぶる嘆きの天使。自己犠牲を好み、復讐をこよなく愛する邪悪な女神の子。
「つまらん……」
大鎌を肩に周囲を見渡すと、辺りは血に汚れ、首が転がる地獄絵図になっていた。
「ニンゲンが……調子に乗りやがって……」
聖女は動かない。まるで『蛇』に睨まれた蛙のように動けない。
夜空に冷めた銀の月が輝き、俺のする事を見つめている……
俺は、血で濡れた髪をかき上げた。
あまり美味しくはなさそうだが……
デザートの時間だ。