75 急戦
俺は眠らない。
虚無に浮かぶソファに腰掛け、少し考え事をしているだけだ。
……俺じゃない俺が見る夢は……
浅い眠り、夢の中……束の間なら、ただ抱き合っていたい。もう、これきりかもしれないから……
「暗夜さん?」
「……」
「暗夜さん? 眠っているんですか?」
「……うるさい。今は話しかけるな……」
ロビンが離れない。
瞑想している時も、深く思索に沈む間も、ロビンが引っ付いて離れない。鬱陶しくて仕方がない。
せっかく……いい夢を見ていたのに。
――少し寒い。
下界の影響だろう。耐性防御の術を重ねた方がよさそうだ。人間の身体は不便でいけない。
そんな事より……
「トビアス・バーナー? 知らん。聞いた事もない名だ」
面倒臭そうに呟いた俺に答えたのはロビンだ。
「トビアス・バーナーは、ザールランド帝国憲兵団団長の名前ですね」
「ここ数年、公的行事の参加は確認されてない。生きているのは確かみたいだけど……」
そう付け加えたのはマリエールだ。ロゼッタから得たUSBの解析を任せていたが終わったようだ。
さて、これで世界の謎に一歩近付いた訳だが……短時間で解析が終わった事からして、大した情報は得られなかったようだ。
「それにしても、暑苦しい男だ。その被り物を脱いで顔を見せてみろ」
「?」
ロビンとマリエールは、揃って首を傾げた。
◇◇
夜のザールランドにて、俺は全身鎧の大男と対峙していた。
兜の面頬を下ろしていて、その表情は分からないが、俺の顔を見て酷く興奮している。
鼻息も荒く、肩を揺らして言った。
「――ふッ! ――ふッ! 大神官から聞いて全て知っている! お前の正体は使徒だろう……あの黒髪の神官だ。違うか……!」
使徒の名乗りは、そう褒められたものじゃない。
噴水の見える広場。
明るい内は市場が開かれてそれなりに賑わうが、凍てつくような寒気が流れる今は人影一つ見えない。
誠に結構だ。俺は肩を竦めた。
「違うな。お前たちの敬愛するディートハルト・ベッカーだよ。見て分からないかね、トビアスくん」
お話に興じる間にも、神力を薄く伸ばすようにして広範囲に展開し、状況を把握する。
オリュンポスを包囲していた帝国の連中が集結するのに、もう少し時間が掛かる。別に、一足早く始めても構わない。そう思っていた俺だったが……
「む……」
集結する憲兵の一団に混じって、一人大物がいる。エルナとは比べ物にならないが、神力の質が似ている。
なんという僥倖! 三人の狙いの内の一人。人工聖女の一人が、自らここにやって来る。
素晴らしい!
昼間はヴォルフを逃がした事で運命を呪ったが、こういった幸運もある事を知れば、世の中というのも捨てたものじゃないと思える。
ガキの身体で来た甲斐があった。
本体の方なら、こうは行かなかっただろう。この身体の俺なら、どうとでもなると油断している。
引き付けて殺す。
俺はこの機を逃がす馬鹿じゃない。
「ところで、トビアスくん。聖女も同伴のようだね。ママの事について、幾つか聞きたい事があるんだが、いいかい?」
「ふ、ふざッ、けるな!!」
激昂したトビアスが抜剣すると同時に、周囲の憲兵共も抜剣して臨戦態勢に入った。
まだだ。まだ早い。聖女が『間合い』に入っていない。この距離では結界を張っても逃げられる。巻物を使った転移は防げるが、物理的に逃げられる。目に映る距離に入るまで待つ必要がある。
……聖女は、俺の伸ばした神力のアンテナに気付いたようだ。速度を緩め、周囲の憲兵を集結させている。
なかなか慎重だ。こっちが二人と知って油断しているが、単独で突っ込んで来るほど油断し過ぎてもいない。
面倒臭い。
いつだってそうだ。世の中は、半分賢く、半分愚かな者が最も厄介に出来ている。
俺は微笑み、鷹揚に言った。
「少し落ち着けよ、トビアスくん。何をそんなに怒っているんだい?」
「……ッ!」
俺の安い挑発に身体を震わせ、トビアスはゴツい兜を脱ぎ捨てた。
「……忘れたとは言わさんぞ。これのお陰で俺は……俺は……」
厳つい大男。トビアス・バーナーの額には逆印が刻まれていて、俺は思わず吹き出した。
「なんと逆印か。いったい何をやらかしたんだ? 流行っている訳じゃない……よな?」
そこまで言って、俺は、ぽんと手を打った。
「ああ! 思い出した! お前、あいつか!」
奇妙な部屋……アイヴィが『天界』と呼ぶそこで、権能による解析で見た顔だ。
俺自身を解析する事で知った事だが、『成り立て』の俺は、女王蜂を助けた際、確かにこの男に逆印の咎を与えた。
恨まれる訳だ。
俺は妙に納得して頷いた。
「でも、それはトビアスくんが悪いぞ? 大の男が挙って女の子たちを苛めるなんて、あっちゃいけない事だろう?」
トビアスは激しい怒りに震えている。
「何が女の子だ! 女王蜂が、そんな可愛らしいタマか! ネロ、ヴェルデ、ジャーロ……あれに下区画の大半が焼き払われたのだ! それだけじゃない! 俺には金貨三百枚の懸賞金が懸けられている! お陰で今じゃ日陰の身よ!!」
女王蜂は侠客だ。ヤクザは面子で食っている。トビアスは派手に追い込みを受けているようだ。
トビアスは、額の逆印を指して呻いた。
「……逆印のお陰で妻子には逃げられ、立場も失った。怪我や病気に見舞われた際には、寺院の恩恵も受けられん……」
「……それは……気の毒に……」
俺は本気でそう思ったのだが、トビアスはそれも挑発と受け取ったようだ。ますます激昂し、口角から泡を撒き散らして絶叫した。
「この邪教徒が! よくもやってくれたな! 殺されたくなければ、逆印を外せぇえぇえぇえ!!」
「……」
俺は少し考え、言った。
「分かった。構わないぞ」
その瞬間、張り詰めていた空気が弛緩して、辺りは静まり返った。
「……」
トビアスは、意外な言葉を聞いたように、目を剥いて俺を凝視している。
隣に立つアイヴィが、天を仰いで嘆息した。
「……あの、ヨルさま? それはどんな冗談ですか……?」
「冗談じゃない。見れば、まあ後悔しているようではあるし、もう十分に罰を受けているように思う。赦しもまた神官の持つ徳の一つだ」
勿論、それだけじゃない。
今の俺に逆印が外せるか。外せるようなら、俺は母の力に対抗し得る。
トビアスは、まさか俺が赦しを与える等と思ってなかったのだろう。口をぱくぱくさせ、喘ぐように言った。
「ほ、本気か……? 大神官でも、どうにもならなかったのだぞ……?」
「ふむ、話し合いの余地はあるようだな。誠に結構。だが、タダでとはいかん。条件がある。如何が?」
ぽかんと大口を開けるトビアスの向こう。辺りを一望できる一際高い鐘楼の上で、こちらを伺うアネットの姿が見え、わざとらしく視線を動かし、小さく頷いた。
――部隊を編成した聖女が、漸くやって来る。
時間稼ぎは上手く行っている。このまま事態を引き延ばし、膠着させれば……力を振るわずにいれば、事態の見えない聖女は確認の為に必ずやって来る。
俺は腰の後ろで手を組み、胸を張って言った。
「トビアス。その場に跪き、剣を捨てろ。そして、この場で帝国憲兵団団長である事を放棄しろ」
「……」
長い沈黙があった。
トビアスは、散々苦しんだのだろう。激昂の狂気は鎮まり、今は困惑したように辺りに視線を泳がせている。
――3
憲兵の一人が、困惑したように言った。
「あ、あの、バーナー団長?」
「……」
トビアスは答えない。
俺を見てはいるが、剣の切っ先はこちらに向いてない。
――2
「お前が帝国への忠誠を捨てるなら、俺も約束を違える事はしないと約束しよう」
皆殺しだ。
だが、帝国への忠誠を捨て、跪き赦しを乞うというのなら、神官の俺としては赦しを与えるに吝かではない。
――1
「第十七使徒『暗夜』は、母に誓う」
この言葉が決め手になった。
トビアスが手に持った長剣を捨て、その場に手を着いてひれ伏した。
「バーナー団長!」
そのトビアスの様子に、憲兵共が悲鳴を上げた。
「赦す」
時に、慈悲を与えるのも神官の徳の一つだ。
◇◇
独立する良心こそ、道義の太陽である。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
――0
そして、微かな馬の嘶きが耳を打つ。
「トビアス。俺がいいというまで、そのままでいろ」
先頭に見えるのは白い神官服の女だ。
年の頃は十七〜十八という所か。
短髪。エルナに似ているが、中性的な雰囲気がある。馬に乗り、四個小隊の憲兵を連れている。
来たぞ来たぞ!
◇◇
狭い本性の中に、人間は愛と憎しみという二つの感情を必要とする。
人間は昼と同様、夜の存在を必要としないだろうか。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
俺は嗤った。
「待ちかねたぞ!!」
そして――
暗夜の帳が落ちる。