73 小さな死神5
――ヴォルフを仕留め損ねた。
計画が狂った。これでは力が足りない。神に対抗するなど夢のまた夢……
フラニー、あの馬鹿……
身を挺してエルナを守ったアンナは背後から七本もの矢を受けて死んだ。ルシールとクロエは礼拝堂で消し炭になって死んだ。
人間とはこうなのか? それとも子供の身体――人間の身体を使っているからか?
眠ると夢を見てしまう。
俺は眠らない。だが、俺じゃない俺が見てしまう。失ったものの大きさを突き付けられる。
そして夜がやって来る。
待ち焦がれた夜だ。
この国の太陽は少しばかり眩しすぎる。俺という男に、夜明けはいらない。
◇◇
ぱちりと目を開けると、そこには眉を下げ、心配そうに俺の顔を覗き込むアイヴィの姿があった。
「よかった。ヨルさま、目を覚まされましたか?」
「……」
……呼び方が『主』から『ヨル』に変わった。
それはいい。俺はアイヴィを隷属させるつもりはない。いつか……このアイヴィにも、俺とは関わらず、人としての生活を送ってほしいと思う。
身体が重い。
鈍く痛む頭を軽く振ると、アイヴィが背後に何か隠したのが見えた。
「……どうした、アイヴィ。何を隠した……」
「……っ」
アイヴィは鞭打たれたように表情を歪め、視線を背けた。
「……」
俺は何も言わない。アイヴィが何を隠したのか分からないが、無理をしてまで確認しようとは思わない。
特に圧を掛けた訳ではないが、ややあって――
アイヴィは軽く唇を噛み締め、背後に隠したそれを俺に差し出して見せた。
「……俺が?」
アイヴィが差し出して見せたのは、両手に持ち切れない程の泪石だった。
「……酷く魘されておいででしたが、夜まで起こすなとの命令でしたので……」
「……」
アイヴィは、今にも泣き出しそうな顔だった。
しかし……と俺は考える。
この人間の身体で、何故、涙が固まるのか。分からない。だが、本来の身体の影響を強く受けていると考えるべきだろう。
「……水を」
その言葉に、アイヴィが慌てて枕元の水差しからコップに注いだ伽羅水を差し出して来る。
情報が足らない。
受け取った伽羅水を一息に煽り、喉を潤すと鈍かった意識が急速に戻って来て、俺は短く息を吐く。
「……すまん、心配を掛けた。次からは起こしてくれ……」
次があればの話だが。
その後はアイヴィの用意した手拭いで顔を拭き、神官服に着替えた。
「……監視は?」
その質問に、アイヴィは表情を曇らせた。
「……百人近くまで増えてます。一晩、帰らなかったせいでしょう。邸を取り囲むように展開しています。もう隠れる事すらしていません……」
「そうか」
やはり、冒険者ギルドと帝国は繋がっている。俺の動向は帝国……勇者たちに筒抜けだったと言っていいだろう。
「アレックスとアネットはどうしている。通じている様子はあったか?」
「いえ……固く邸の門を閉ざして警戒しています。酷く怒っています」
「そうか」
ならば、アレックスたちに迷惑を掛ける訳には行かない。
俺は小さく欠伸した。
「……まず腹拵えだな。軽く何か摘んで……それから、出掛けようか……」
ちょうど誰か殺したかった所だ。
隠れる事をやめたという事は、そういう事だろう。死にたいなら、俺としては、その願いを叶えてやる事が誠意というものだ。
「このままでは埒が明かないと思っていたからな……ちょうどいい……」
太陽は怯え、その姿を消した。
冷たく青い月が支配する夜になり、死神の時間がやって来た。
「……ところで、アイヴィ。フラニーをどう思う?」
「フラニーですか?」
事情を知らないアイヴィは、唐突な問い掛けに少し困惑している。
「フラニーは、荒っぽいけどいい人です。それが何か……」
俺は鼻で笑った。
「いい人か。誠に結構だ」
それだけで生きていけるなら、世界はもっと幸福で溢れているべきだ。
◇◇
階下で暫くゆっくりして、ティモの用意してくれた食事を摘む。
「あいや、やんごとなきお方。もう夜でございまする。お出掛けは、お控えなすった方がよろしいかと思いまする」
相変わらず、ティモの口調は突っ込み所が満載で面白い。
「ふふふ、ただの散歩だよ。心配するには当たらん。すぐ帰る。熱めの風呂を入れておいてくれると嬉しい」
ティモは恭しい仕草で一礼してその場を去り、アイヴィは複雑な表情を浮かべてそのティモの背中を見送った。
ティモの姿が完全に見えなくなるのを待って、俺は言った。
「時に、アイヴィ。お前は人を殺した事があるか?」
「ええ、はい。それが何か……」
当然の事のように答えるあたり、そこがムセイオン育ちという事なのだろう。アイヴィは大人びているが、まだ十二歳である事を思えば、俺は重苦しい気持ちになった。
「付き合わせるが、構わないな?」
俺は卑怯者だ。ここに居たのがゾイなら、俺は逆の事を言っただろう。
「はい。お供いたします」
アイヴィは逡巡する事なく、むしろ嬉しそうに笑って頷いた。
神官服の襟元を正し、髪を整える。俺にはもう思い出せないが、身に付いたルーティン。
腰の後ろで手を組み、玄関に繋がる広いエントランスに向かうと、そこには帯剣したアレックスとアネットが恐ろしく不機嫌な表情でソファに腰掛け何やら話し合っていたが、現れた俺を見て、困ったように眉を下げた。
まず口を開いたのはアレックスだ。
「起こしちまったか。すまねえな、煩かったか?」
「いいや、とても静かだった。こちらこそ、すまない。俺の知り合いが迷惑を掛けているようだな。帰るように言ってくる」
その言葉にアレックスは顔を青くしたが、一方のアネットは、パッと笑顔を浮かべて俺に駆け寄って来た。
「やるの? ねえ、殺るの? だったらさあ、ほら、アレ! 大人! あっちになるの!?」
「……ならない」
今は、まだ。そう内心で付け加えた俺だったが、アネットの呑気な様子に呆れる思いだった。
アネットは、ぷりぷりと怒りながら言った。
「あいつら、チョ→ムカつく! 何度も帰れって言ったのに、全然聞く耳なくてさ! 結構、強めに言ったのよ!?」
矢印入りの超音波に、俺は肩を竦めて笑った。
「では、もっと強く言う事にしよう」
決して明けない夜に、覚めない眠りに就くように。
「あ、あの、ヨルさま。これは、どうなさいますか?」
呑気に笑っていたアネットだったが、アイヴィが差し出した泪石を見て、一瞬で険しい表情になった。
泪石を知っているのだろう。
「うん? ああ……結構あるな……」
いつものようにゴミ箱にでも突っ込めと言いそうになって……俺は少し考える。
俺にはゴミ同然の代物だが、下界ではそれなりに価値のある代物だ。
――『天使の涙』。
『泪石』ともいう。俺の神力で作られたそれは、俺自身にはなんら寄与しないただの石ころだが、他の者が使えば……特に人間が使えばそれなりの『奇跡』を発現させる。
「……」
受け取った泪石を明かりで透かして見ると、青く澄みきっている。
とりあえず、それを一つずつアレックスとアネットとアイヴィに渡しておく。
「困ったら使え。それなりに効果がある」
修道女や修道士などの母の加護がある者が使えば、神力の上限が上がる。他の者にとっては傷や病を治す程度の代物だが、願いを込めれば、それなりの奇跡を起こす。
「なんだこれ、あたしは宝石には興味ないけど……なんか……綺麗だ……」
アレックスは泪石を知らないようで怪訝な表情を浮かべているが、アネットの方は、ごくりと息を飲み、目の色を変えた。
「ひょ〜……や、うわ、すご……こんなの初めて見る……」
俺は肩を竦めた。
「……ただのゴミだ……」
「え、ウソ。なら、もう一個ちょうだいよ……」
「……」
呆れる思いで泪石をもう一つ投げ渡すと、アネットは右手と左手の両方に泪石を握り締め、にへら、と笑った。嫁入り前の女がしていい表情じゃない。
「お宝、ゲットぉ!!」
アネット・バロアはクソ女だ。
「……」
俺は深い溜め息を吐き出した。
手元には、まだ三十粒以上の泪石が残っている。
「……石投げでもして遊ぶか……」
この泪石は、俺自身にはなんら寄与しないただのゴミだが、目先を変えればそれなりに使い途がある。
「……」
手元の泪石を見て、俺は細く長い息を吐き出して集中する。
「……意識の最後の境に、精神が疲れ果て見張っている。刹那の内に無数の生を幻のように生き、熱に疲れ果て、死への憧れが燃え盛る……」
呪詛を吸収し、泪石が禍々しい黒に染まる。透明感をなくし、一切の光を反射しなくなった泪石は異様な存在感があった。
「ふむ……いい感じだな」
泪石は性質を変え、それなりに強い呪物になった。
夜も更けて、まだ帰らずにいるのは困窮と悪徳だけだ。そんなものに、俺は死神として挨拶する。
「……それじゃあ、行ってくる……」
待望の夜だ。
今夜は眠らずにいよう。