65 小さな死神3
見たこともないハーフエルフの女だった。
長い金髪に青い瞳の女。
身に覚えはない。だが、ロビンやマリエールから聞いて存在だけは知っている。
二人の話が確かなら、あの女は――
――アネット・バロア。
経緯は知らないが、アレックスの最も古い親友兼相棒。
時刻は夕暮れ時だった。
「……」
俺は足を止め、暫くアネットと見つめ合った。
過去の記憶は蛇に食わせた。
おそらく、この女との間にも思い出のようなものが存在するのだろう。勿論、何も思い出せない。何も感じない。俺の中の蛇は、この女の思い出を全て食ってしまった。
アネットが、よたよたと覚束ない足取りで歩み寄って来るが、俺はそれに構わず、ちらりと一瞥して外庭を真っ直ぐ邸の方へ向けて歩いた。
アネットが震える声で叫んだ。
「ディート!」
その呼び掛けに、ちらりと視線を飛ばしたアイヴィが俺の耳元で囁いた。
「……お知り合い、ですよね……?」
「知らん。会ったこともない」
「……向こうはそうでないようですが……」
今の俺には身に覚えがない事だ。あの女に用はない。
構わず進む俺の前に、行く手を遮るように進み出て、アネットがまた叫んだ。
「ディート! あんた、ディートよね!?」
俺は、この女に用はない。ただ、うざい。早くアレックスに会いたい。
「ディート! あんた、生きてたの!?」
アネットは、ぱっちりとした青い瞳に大粒の涙を溜めている。
俺は口の中に伽羅を放り込み、行く手を阻むアネットを目を細めて睨み付けた。
「退け。アレクサンドラ・ギルブレスに会いに来た」
俺には初対面の相手と馴れ合う趣味はない。
「……」
黙ってアネットと見つめ合う。
アネットが震える声で言った。
「……アレックスから聞いたわ。私の事も、エンゾの事も全部忘れてたって……」
「そうか。そのまま、お前も忘れてくれて構わない。放っておいてくれないか?」
全ては忘却の彼方だ。アスクラピアの蛇は悪食だ。なんでも喰らう。よい思い出ほど、俺の中から消え去る。何も感じない。きっと、過去の俺は、この女に気を許していたのだろう。
なんという皮肉。
俺は、いいヤツほど思い出せない。冷たく笑う。これから、アレクサンドラ・ギルブレスを尋問する。六年前、共にダンジョンの深層で死線を潜ったようだが関係ない。
手応えのない俺の反応に、肩を怒らせたアネットは、瞬き一つせず俺を見つめている。
「……アスクラピアの蛇。力の代償として、術者から様々なものを奪う……」
俺は鼻で嘲笑った。
「ふん、よく知っているな」
その程度の事は、アスクラピアの聖書にも書いてある。アネットは特別な事を言った訳じゃない。この女には何もできない。俺を止められない。
俺は、改めて言った。
「先日、聖エルナ教会が燃やされてな。やったのはアシタ・ベル。筋肉ダルマからの紹介だ。今日は、その手厚い歓迎に礼をしに来たんだ」
「……」
アネットは答えない。
身体を小さく震わせ、忙しなく青い瞳を揺らしている。
何か一つでも思い出せれば、おそらく何か変わるのだろう。だが、俺には何も思い出せない。暖かい記憶は全て蛇に食われた。失ったものは還らない。そういう決まりだ。
俺は、パチンと指を鳴らした。
「そこで待ってろ。すぐ終わる」
高位神官の言葉には力が宿る。元Aランク冒険者とはいえ、ハーフエルフの女一人の動きを封じるぐらい訳はない。
「……つっ!」
アネットは、ぎくりとしたように身震いして動きを止めた。
「さらばだ。もう会う事もないだろう」
だが――
歯を食い縛ったアネットは、ぎぎ、と僅かに動いた。
「ほう……エルフの血を引くだけあるな。まだ動けるか。何か言いたそうにしているな。うん? 言ってみろ」
それは、ちょっとした戯れで言った事だ。何気ない惨劇の余興。その筈だった。
アネットの身体の震えが強くなる。
元Aランク冒険者。見る限り、よく鍛えられている。かなり高い次元で平均的に纏まっているが……ニンゲンの枠は出ない。話せても、一言二言といった所だろう。
限られた言葉の中で、アネットはどの言葉を選択するのか。
意地の悪い興味があった。
幸せな言葉や暖かい思い出では、俺の心を揺さぶれない。思い返す事すら躊躇う苦い記憶。悪食の蛇が食うのを躊躇う思い出でなければ、俺は止まらない。
アネットは、ぽろぽろと涙を流しながら、苦しそうに呟いた。
「ぎ……銀貨五枚……」
「あ……?」
なんの事だ? と続けようとして、ぶん殴られたみたいに頭が痛んだ。
「ん……」
酷い頭痛がして、顔を顰める俺に、アイヴィが怪訝な表情を浮かべた。
「主……?」
「……銀貨五枚……銀貨五枚……」
なんだ、これは。妙に引っ掛かる。『銀貨五枚』とは……なんだ?
アネット・バロア……銀貨五枚……
くらくらする。その銀貨五枚は、大した額面じゃない。今の俺には小銭の部類に入る。だが、その小銭が引っ掛かる。
その瞬間、頭に稲妻が走った。
俺は強い怒りに震え、呻くように言った。
「……銀貨五枚……銀貨五枚……それは……それは……!」
いつか、このクソ女が言った俺の命の価格だ……! 思い出して、俺は力の限り叫んだ。
「アネット・バロアはクソ女だ!!」
そこで金縛りが解け、にっこり笑ったアネットは親指を突き立てた。
「そう、私はクソ女よ!」
「……」
俺は呆然として、微笑むアネットを厳しく睨み付けた。
ムカつく女だ。
でも、何故か……毒気を抜かれてしまった。酷く馬鹿らしくなった。白けてしまった。
「……なんなんだ……?」
◇◇
本当に……運のいいヤツだ……
憂さ晴らしは、皆が見ていない場所でやりたかった。アネットのヤツに毒気を抜かれるまでは、本気でそう思っていた。
それが……
邸の中に通された俺は、ダイニングルームのデカいテーブルを挟み、向かって正面に座るアレックスの首から上辺りを見つめて言った。
「……アネットに感謝しろ。お前は、本当に運のいいヤツだ……」
聖エルナ教会が燃え尽きて、既に一ヶ月以上の時間が経過している。
当然だが、アレックスも知っているだろう。問題は、その件についてどれくらいの真実を把握しているかだ。
「まず……お前とアシタ・ベルの関係について簡潔に述べろ……」
「あ、ああ……」
アレックスは息をするのも苦しいのか、頻りに唾を飲み込んでいる。
「あたしもそうだけど、あいつも鬼人の血を引いてる。ギル氏族とベル氏族。あたしらの間に特別な関係があった訳じゃない。でも、この二つの部族は仲が悪い訳でもない」
「簡潔に述べろと言ったんだ。次はない」
出火原因は説明されてないが、夜間冷え込むこの地域では、火事自体はよくある事だ。アイヴィに調べさせた所、燃え尽きた聖エルナ教会の修道女たちは全員焼死した事になっている。少なくとも、表向きはそうだ。
アレックスの態度からして、当然、そんな事は信じてないだろう。
俺は喉の奥で嗤った。
「俺も死んでいた方がよかったか?」
「そんな事は思ってない。あんただけでも、無事でよかった……」
アレックスは額に浮かんだ汗を拭い、また唾を飲み込んだ。
そこでアネットに視線でやると、この空気を読めない女は満面の笑みで料理を運んで来る。
「もう遅いしさ、今夜は泊まって行きなさいよ」
「……そうだな。そうさせてもらおう……」
アイヴィが袖を引っ張って制止したが、それには構わず、俺は頷いた。
「ロビンに聞いたけどさ、あんたって、魚料理が好きなんでしょ?」
「あぁ」
「ちょっと、さっきから顔が怖いわ。少しは笑いなさいよ。一応、言っとくけど、聖エルナ教会の火災にアレックスは関係してないわよ?」
俺はアネットを見上げ、用心深く言った。
「……そうなのか?」
「あったりまえでしょ。なんだって、アレックスがそんな事すんのよ。やるなら正面から堂々とやるわ」
「そうか……」
アネットと話していると、俺はどうにも毒気が抜けてしまう。ここでアレックスに圧力を掛ける事が無駄に思えてしょうがない。
俺は肩を竦め、大きな溜め息を吐き出した。
馬鹿馬鹿しい。
腹の探り合いはやめにして、俺は正直に言った。
「ルシールとアンナとクロエが死んだ。やったのはアシタ・ベル。ご丁寧に教会を燃やしてくれたのもヤツだ」
「――!」
そこでアネットは顔色を変え、アレックスは激しく舌打ちして、圧し殺した声で呻いた。
「まさかとは思ったが、あのガキ……!」
俺は首を振った。
「……他の修道女たちについては保護してある。だが、中々な損害だったぞ……」
さて……事の裏側で何が起こっているのか。
今夜は眠れそうにない。
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