63 小さな死神1
人間の身体は不自由だ。それが子供のものとなれば尚更の事だ。腹が減るし、食えば排泄する必要がある。夜は寒さで凍え、日中は茹だるような暑さで目を回す。
アイヴィが眉を下げ、気遣わしそうに言った。
「その、主。お加減はどうですか……?」
「うん、悪くない……」
今の俺……十歳のディートハルトの身体を分け身にして下界に降りた俺は、身体の慣らしを兼ねてアクアディの街で生活している。
使徒としての権能が何一つ使えない。これも神力に限界がある人間の身体を使っている事が原因だ。幾ら権能の使用に制限が掛かる下界とはいえ、つまらん雑貨の一つすら創造できないとは思わなかった。
「アイヴィ、煙草だ。煙草を買って来てくれ」
「駄目です。喫煙は、その身体には負担になります。伽羅で我慢して下さい」
このやり取りも、もう何度目か分からない。不具合が生じれば新しく交換すればいいと言う俺の言葉に、アイヴィは強い忌避感を露わにした。
「……とにかく、喫煙はおやめください。天界にいる主とは繋がっているのだから、そちらに任せればいいでしょう」
「まぁ、そうだが……」
現在、俺はディートハルトであり、奇妙な部屋に留まる暗夜でもある。感覚も記憶も問題なく同調している。全くアイヴィの言う通りではあるのだが……
「気分の問題だ、アイヴィ。俺は、お前といると楽なんだよ」
三名の使徒を始め、多勢の人間が留まる俺の部屋は騒々しい。留まる者の数だけ問題が湧いて出る。女ばかりというのがなお悪い。
特に、喫煙に関しては皆が不寛容だ。取り分け煩いのは二人。
「お前まで、ロビンやマリエールと同じ事を言うのか?」
アイヴィは答えず、小さく咳払いして曖昧に誤魔化した。
「そんな事より、主。沐浴の準備ができましたよ?」
「うん、いつもすまないな……」
今の俺たちは、冒険者ギルドが経営する宿泊所を仮拠点にしている。
俺はギルドでの顛末を思い出して、小さく舌打ちした。
「くそッ、マッチ棒め……!」
下界に降りた俺たちは、とりあえず活動資金の調達の為、ダンジョンに潜ろうとしたのだが、それは冒険者ギルドの制止で失敗に終わった。
ロビンやマリエールから聞いていた話と違う。
過去の俺は、ダンジョン『震える死者』の深層にて神話種を討伐した。暫定的にはBランクだった冒険者ランクは問題なくAランクになっている筈であるし、ダンジョンに入る事も可能だと聞いていたが、片眼鏡を掛けた細身のマッチ棒のような『宣告師』に会った事でこの有り様だ。
ヤツは俺を見て、死人のように青ざめた顔色をしていた。
「き、貴様は何者だ……」
そう聞かれた時の答えは準備してある。だから、こう答えた。
「ディートハルト・ベッカー」
「な、なんだと……?」
マッチ棒は宣告師だ。だから、俺が何者であるかは観た瞬間に分かる。俺が高位神官である事だって簡単に分かった筈だ。
それが……
冒険者ギルドは騒然とし、慌てて現れたのはギルドマスターの爺さんだ。
「ヘルマンだったか? あの爺さんも爺さんだ。なんで、俺がダンジョンに入っちゃ駄目なんだ……!」
アイヴィは小さく溜め息を吐き、呆れたように肩を竦めた。
「それは、主がやんちゃなさったせいでしょう。彼らの言い分は尤もでしたよ?」
「過去の俺がやった事だ。知らん!」
つくづく腹が立つ。
現在、ディートハルト・ベッカーは、冒険者ギルドとザールランド帝国に目を付けられている要注意人物であり、この二つの組織によってダンジョンアタックを禁止されている。
ほんのりと頬を染め、柔らかい手付きで神官服を脱がせるアイヴィに、俺は激しく毒づいた。
「それは同姓同名の別人がやった事だ! 俺がやったんじゃない!」
今の俺には身に覚えがない事だ。他人のフリを決め込んだ俺だったが、過去の俺と面識があるマッチ棒が足を引っ張った。
「忘れもせんぞ! 以前と変わらぬその風貌! 邪神の使いめ……!」
本当に酷い言い草だったが、俺にとって、それは笑える冗談だった。
「ははは、否定できないな。確かに、母にはそういう一面がある」
俺も冗談で返してみたのだが、それで事態は更に混乱した。
その後はギルドマスターであるヘルマンが直々に事態の収拾に乗り出すまでに発展し……それからの俺たちは、ギルドが経営する宿泊所に通された。
今の俺たちは素寒貧だ。
ダンジョンに入れない以上、どうやって活動資金を得ればいいのかとごね倒したらこの宿を紹介された。
冒険者ギルドの要望はこうだ。
以前あったギルドの口座に関しては、新しく口座を開くので利用は勘弁してくれ。その代わり、宿に関してはAランク冒険者に相応しい宿を無料で用意させてもらう。活動資金に関しては、ギルドから高額の特別依頼を出すので、それに応じてほしい、との事だった。
マッチ棒が大汗をかいて何やら助言していた事と無関係じゃないだろう。
とにかく――ギルドマスターであるヘルマンから低姿勢での懇願を受け、ならず者でない俺としては、やむなくその要請に従う事にした。
今の俺は、冒険者ギルドが所有する得体のしれない『隠し球』だ。
幾ら出自が怪しかろうと、俺が高位神官である事に変わりはない。治癒に関する高難度、高報酬の依頼を振ってくれる。
高い報酬を得られるのはいい。
だが、大っぴらに大神官の名を名乗るなと言われたのは頂けない。
ぬるま湯を張った盥に腰を下ろす俺の背中に、アイヴィそっと湯を掛けて汗を流してくれた。
「……いいではありませんか。人の口に戸は立てられぬと言いますし、そのうち噂になりますよ。そうなれば、きっと主の思った通りになると思いますが……」
俺は天を仰いで嘆息した。
「……まぁ、そうだな。奴らを圧迫してやるのが目的であるし、そういう意味では、この状況も趣旨から外れてはいないな……」
だが、俺の目的には、別行動の俺とは違ったものが含まれる。その一つがダンジョンの調査だ。
「……アイヴィ。なんとかならないか? お前も冒険者証を作ったんだ。俺の立場は、運び屋という事にでもして……」
「駄目ですね」
アイヴィは、きっぱりと言った。
「既にギルドの監視下に置かれています。そうでなくとも、そんな単純な手に引っ掛かるほどギルドも間抜けではないでしょう」
「だよなぁ……」
暗夜の姿なら、問題なくダンジョンに入れるだろう。だが……ディートハルトの姿では無理だ。
俺は濡れた髪をかき上げた。
「以前の俺は、いったいどんなやんちゃをやったんだ?」
アイヴィには情報収集を命じてある。俺の嘆きには、呆れたような返答があった。
「もう六年以上前の話になりますが、主が討伐なさった二十層と三十層のフロアボスが復活するのに複数年の時間を必要としたそうで、前代未聞の出来事だったそうです」
「ダンジョンの魔物と冒険者たちは、殺し殺されが暗黙の了解だろう。何故、俺だけが……」
まあ、俺のした事だ。大体の事は分かる。きっと、容赦なくやったのだろう。その時、持てる力の全てで容赦なく祓った。通常、ダンジョンでは強い不死性を持つフロアボス二体の復活に時間が掛かったのはそのせいだ。しかし……
「……吸血鬼女王に、吸血鬼君主か……本当に死なないんだな……」
おそらく、その時の俺は復活など叶わぬように全力を出した筈だ。通常の不死者なら、復活などできない筈だ。
長い時間が掛かったとはいえ、復活した二体のフロアボスには興味がある。これもダンジョンの特殊性だろうか。ますます興味が深まる。
やはり……『ダンジョン』には謎がある。
その二体のフロアボスの不死性を、いったいどうやって説明すればいいのか分からない。特別な事情があると思うべきだろう。
「……悪魔か……」
使徒……天使と呼ばれるものが存在する以上、悪魔がいても不思議ではない。だが、その差はなんだろう。
天使と悪魔。
そこまで考え、俺は首を振って答えのない思考を追い払った。
ぱしゃ、ぱしゃ……と水の跳ねる音がする。
アイヴィは骨味を惜しまず尽くしてくれる。連れて来たのは正解だった。
マリエールには部屋の管理をさせているし、ロビンに至っては教会騎士の連続殺害事件の犯人として、帝国では賞金首に指定されている。連れてこなかったのは正解だった。
別に、フラニーやジナを連れて来てもよかった。そうしなかったのは、二人を鍛えたかったというのもあるが、このアイヴィは死なせてしまっても特に問題ないというのが一番大きな理由だ。
そう告げた時も、アイヴィは顔色一つ変えず、俺との同行を喜んで受け入れた。
また悩みが増える。
俺は、アイヴィのこの献身に何か返す事が出来るのだろうか。
「……今日の予定は?」
「ギルドからは、まだ何も……」
「そうか。なら、出掛けるか」
ダンジョンの調査には別の手段を用意する必要がある。そして、今の俺がすべき事は一つではない。
――アレクサンドラ・ギルブレス。
場合によっては、ヤツを消す事になるだろう。