聖女エルナ
せっかく拾った命だ。万が一にもアニエスを死なせぬよう、柱の陰にアニエスを引っ張り込みながら、エルナは考える。
ルシールは……唐突に終わりを告げた自らの最期の瞬間に何を考えたのだろう。
静か過ぎる。
礼拝堂内部の様子は分からない。
だが、アシタ・ベルが裏口から火を放ったとするなら、礼拝堂の中は既に火の海になっている筈だ。
礼拝堂へ続く扉の下にある僅かな隙間から、空気が吸い込まれている。その光景を見て、エルナは猛烈に嫌な予感がした。
暗夜は冷静に言った。
「バックドラフト現象が起こる可能性がある」
「ばっくどらふ……なに?」
異世界の知識だろう。
暗夜は険しい表情で、礼拝堂へ続く扉の下部を睨み付けている。やはり、僅かな隙間から礼拝堂内部へ空気が流れ込んでいて、不吉な予感がする。
「簡単に言うと、扉を開けた瞬間、一気に炎が燃え広がる。そうなれば危ない。ここから先は俺一人で行く」
しかし……とエルナは考える。
アシタは、何故、アニエスを殺さなかったのか。抵抗を封じてしまえば、それで事足りたというのが自然な考えだ。目的はあくまで暗夜とルシールの拘束と殺害にあり、他の者に関しては徹底する事を避けている節がある。
「俺なら、おそらく耐えられるが、お前たちには無理だ。一瞬で焼け死ぬ」
現在、礼拝堂の内部がどういう状況になっているかは分からない。だが徹底を欠くアシタの行動からして、致命傷を受けたルシールはともかく、クロエの生存にはまだ望みがある。
暗夜が両開きの扉を強く押し込むと、内部の閂がめきめきと嫌な音を立てて圧し折れるのが分かった。
『神官』というクラスは、戦闘力の面でも決して弱くないが、暗夜は神力の殆どを術の方向に強く振り切っている。だが『使徒』としての力は人間のそれとは比較にならない。単純な腕力だけで言えば、暗夜のそれは人間を遥かに凌駕している。
その腕力が礼拝堂の扉を押し開く。
ばきん、と大きな音がして内部の閂が弾け飛ぶ。扉が開く。
その瞬間、エルナは刮目した。
広い身廊の空気が凄まじい勢いで礼拝堂内部へ流れ込んだかと思うと、次の瞬間、轟音と共に壮絶な勢いで炎が噴き出した。
それは、まさに爆発だった。
噴き出した炎は、一気に身廊まで燃え広がり、辺りは一瞬で火の海になった。
「……くっ」
激しく燃焼を伴う爆風の直撃を受けた暗夜だが、全身黒焦げになりながらまだ生きていた。
「暗夜……! 暗夜!」
普通の人間なら、一瞬で消し炭になって死んでいただろう。凄まじい爆発だった。暗夜は咄嗟に頭を庇ったようたが、右腕の肘から先の部分が消し飛んでいる。
暗夜は荒い息を吐きながら、残った左手で、ぐいっと口元を拭った。
「問題ない。俺は大丈夫だ」
全然、大丈夫じゃない。
『使徒』は強力な存在ではあるが、決して不死身の存在ではない。人間と同じように傷付きもすれば死にもする。
エルナは悲鳴を上げた。
「ば、馬鹿言わないで下さい! ああ! あああ……!」
――この男が嫌いだ。
ギュスターブとローランドを殺し、非情にもアウグストを無常の時に放り込んだ。エルナは、こんなに嫌なヤツを知らない。
だが……ルシールと二人、固く抱き合う姿を見た。見てしまった。
それは潔癖なエルナをして、目が離せない光景だった。『愛』という感情の事は、未だによく分からないが、暗夜がルシールを思う気持ちが少しも理解できない訳じゃない。二人が同じ感情でお互いを求めるなら、それは素晴らしい事だと思う。母は、愛という感情に一際大きな価値を与えた。
だが――礼拝堂の中は焦熱地獄だ。
これだけの爆発があったのだ。見ずとも分かる。生きている者はいない。エルナは本能的に理解していた。
「礼拝堂に、もう生きている人は居ませんっ!」
エルナは思った。
もういい。分かったから、もういい。娘たちが、暗夜を慕う訳はもう十分に理解した。だから、地獄にまで踏み込む必要はない。
暗夜は小さく舌打ちした。
「確かめもせず、何を言う」
それがエルナは嫌なのだ。
露悪的で非情な男だが、優しさを知らない訳じゃない。捻くれている。本当に嫌な男だが、この男が居なくなるとエルナは悲しい。世界は輝きを失ってしまうような気すらする。
「壊れる! 壊れる! 使徒は不死身じゃないんです!」
その懇願にも似たエルナの悲鳴にも、暗夜は憎たらしげに笑みを浮かべて見せる。
「お前……俺の事が嫌いだろう? どうなったっていい筈だ」
暗夜の身体は崩壊して行く。
使徒は不死身の存在ではない。そして、災いの星は死神すらも見逃さない。
「もういい! もういい……!!」
「そうか、結構。憎んでくれて構わない」
本当に嫌な男だ。この男は、いつだって本気で物を言っている。だからこそ、この男が見せる優しさも本物なのだ。
「暗夜。まだ、分からないんですか……?」
エルナは叫んだ。
「ルシールは、もう死んでるんですよ!」
純鉄の剣がルシールの胸を刺し貫く瞬間を見たのだ。錆び付かぬ軍神の魂は、アスクラピアの加護を持つ者にとっては鬼門だ。
「アシタ・ベルに刺されたんです! 殆ど……即死……でした……」
「…………」
暗夜は答えない。
その黒い夜の瞳は、真っ直ぐ燃え盛る礼拝堂の中を見つめて離れない。
「嘘を吐け。ルシールは死んでない」
それはありえない。
母が軍神とその末裔に逆印の咎を与えたように、軍神もまた母とその子らに滅殺の咎を与えた。
斯くして、運命は調合されている。
それがエルナの知る『真理』だ。
だが――
「見ろ……」
その言葉に顔を上げ、燃え盛る礼拝堂の中で見たものに、エルナは愕然とした。
「う、嘘です……なんで……」
燃え盛る礼拝堂の奥。祭壇に程近い場所に、ルシールが立っている。
「分かったら行け、クソガキが」
ありえない。
ルシールは死んだ。死んだ筈だ。エルナはそれを天に誓ってもいい。そのルシールが、炎の中、少しはにかむような笑みを浮かべてこちらを見つめている。
エルナは、アンナとの会話を思い出した。
……輝く物の全てが、本物とは限らない……
愛が見せる夢がある。
ルシールが妖精族の血を引いている事は知っている。その身体の半分は、使徒と同じ星辰体で出来ている。世界の理から半ば外れているという事だ。その妖精族の血が、この愛の夢を見せている。
エルナは漸く理解した。
この愛が見せる夢は、あまりに悲しい。あまりにも美しい。だが……本物ではない。実態を伴わない。
この愛が見せる夢の結末には、死しかない。
エルナは必死になってしがみつき、引き留めるが、それでも暗夜は止まらない。エルナを引き摺り、火の海を踏み締めて行く。
燃え盛る炎に焼かれ、エルナは悲鳴を上げた。
「ああっ!」
「クソガキが、言わんこっちゃない」
暗夜と共に、自らも炎に焼かれながら、それでもエルナは離れない。
ルシールが見せる愛の夢が、暗夜を殺してしまう。それが、この愛の結末では、あまりに悲しい。それをルシールが望むとは思えない。
既に三人の娘を失った。
エルナは、もう失う事に堪えられそうにない。
「よ、暗夜……あれは、ルシールですけど、ルシールじゃありません……!」
それでも暗夜は止まらない。炎の中を踏み締める度に、身体が崩壊して行く。
「暗夜! 駄目! あれは幻です!!」
「やかましい」
崩壊し、使徒としての限界を間近に控え、それでも歩みを止めない暗夜は微笑っていた。その夜の瞳はルシールだけを見つめている。
そこで漸くエルナの襟首を捕まえた暗夜は、力任せにエルナを引き剥がした。
「クソガキが。今のお前は、ただの人間だぞ。酷い火傷だ。とっとと離れろ」
それでもエルナは離れない。炎に巻かれ、全身に酷い火傷を負いながら、暗夜にしがみついて離れない。
「駄目! 駄目です!」
「このガキ! 離せ! 離せと言っているだろう! このクソガキが!」
激しく毒づきながらも、暗夜は立ち止まった。
このまま進めば、エルナも焼け死ぬ。それが暗夜の歩みを止めた。
卑怯でもなんでもいい。
今、本気で暗夜を止めねば、この愛が見せる夢が暗夜を殺す。エルナはその結末を認めない。悲しい夢は見たくない。
「……っ!」
暗夜は、満身創痍のエルナと、燃え盛る炎の中に立ち尽くすルシールとを何度も見比べた。
躊躇いは一瞬。暗夜は叫んだ。
「ルシール! 来い! 来るんだ!」
「駄目、暗夜!!」
自らも炎に焼かれながら、エルナが見たものは、暗夜の呼び掛けに応え、ゆっくりとこちらに歩み寄るルシールの姿だった。
「ルシール! やめて! やめて下さい! 暗夜を惑わせないで下さい!」
愛がもたらす犠牲は、母が最も好むものだ。
そしてー―
とうとう暗夜は力尽き、その場に崩れ落ちるようにして跪いた。
エルナは、人間ディートハルト・ベッカー『暗夜』の死に様を思い出した。
この嫌な男は、時に驚くほど潔い。決断は一瞬。躊躇うという事を知らない。
ぼろぼろと身体が崩壊して行く。
第十七使徒『暗夜』は、その存在を消費して消え去りつつあった。
「駄目ぇっ! 暗夜、壊れる! 壊れる!」
エルナは、暗夜の崩壊を食い止めようと、必死になって小さい手で支えるが、暗夜の崩壊は止まらない。
「……ルシール。クロエは……」
「…………」
その暗夜の問いに、ルシールは悲しそうに首を振った。
「そうか………」
分かっていた事だ。エルナに驚きはない。
この炎が全て焼き尽くした。
ルシールとクロエは死んだ。燃え尽きて死んだ。
暗夜は微笑っていた。
全ての柵から解放されたかのような、優しい微笑みだった。
炎に巻かれ、崩れ去りながら、それでも暗夜は立ち上がる。
そして、ルシールを抱き寄せて口付けを交わす。
愛という感情は、未だによく分からない。だが、エルナは答えに近付きつつある。
暗夜は言った。
「愛してる」
その瞬間、エルナは理解した。燃え尽きる地獄の炎の中で理解した。
愛という感情が見せる激しさを。悲しさを。狂おしさを。優しさを。母が、何故、愛がもたらす犠牲を最も好むかを。
美しい。
この愛が見せる夢は、少しばかり美し過ぎる。悲しくて優しくて、何より狂おしい。
炎の中に燃え尽きる。
そんな愛があっていい。
悲しみも優しさも愛も、全てが灰燼に帰す。母は、この美しさを愛した。
――アスクレピウス。
最も、母が愛した子。とんだ孝行息子がいたものだ。
エルナは、この愛を認めない。悲しい夢は見たくない。そんな愛ならなくていい。
踏み潰してやる。
こんな悲しい愛はいらない。
何もかも書き換えてやる。死神が死ぬ時は、聖女エルナの手によってであるべきだ。
「壊れるな! 壊れるな!」
逆印の咎を受けたエリシャが神力を行使してどうなったか。
どうでもいい!
エルナには、今こそ力が必要だった。奇跡が必要だった。
額の逆印が燃えるように痛んだ。どうでもいい。これが最後で構わない。今、この瞬間に力を貸してくれない母には用がない。そう断じたエルナの瞳に血涙が伝って落ちる。
「壊れるな壊れるな! 暗夜! お前壊れるな!!」
エルナの激情が爆発した。
その瞬間、額の逆印が弾け飛び、溢れ出した『聖女エルナ』の神力で周囲の炎が消え失せた。
◇◇
容易く獲得されたものに価値はない。無理をして手に入れたものだけが、晴れて意味を持つ花冠に値する。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
聖女エルナの血の滲む命が、新しい道を照らし出す。
愛の見せる夢が……今、終わる。
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