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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
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聖エルナの娘たち4

「……大丈夫……大丈夫……聖エルナ……貴女だけは……」


 そう呟きながら、アンナは冷たくなって行った。

 長い身廊を、冷たい軍靴の足音が響いて行く。嫌われ者の聖エルナは、息を潜めて身を隠し、娘の死を見守るだけだ。

 そのエルナの耳に、若い男の声が遠くに聞こえる。


「……奥の礼拝堂に立て篭もりました。頑丈な扉です。内から閂が掛けられていて、非常に堅牢です。破るには衝車がいります。どうしますか……」


 その騎士が発した言葉に、守護騎士アシタ・ベルは怒鳴り返した。


「衝車を引っ張って来るような、そんな時間はない! ルシール・フェアバンクスの身柄を早く押さえろ!!」


 そのアシタの声には、多分に恐れの成分が感じられる。

 この教会に襲撃を掛けた事により懸念される暗夜の報復は想像を絶する苛烈なものになるだろう。


「……あの修道女シスタはどうしますか……?」


「……アンナ・ドロテアだな。すぐにも死ぬ。雑魚はどうでもいい。放っておけ……」


 その身体を盾にして、柱の陰にエルナを隠したアンナは、微笑みを浮かべたまま、今にも力尽きてしまいそうだった。


 空を裂く音がエルナの耳を打ち、ポリーの悲鳴が聞こえた。

 アシタが冷たく言った。


「……ポリー・アストンだ。放っておけ……」


 娘がまた一人死んでいく。

 嫌われ者の聖エルナは、ただ堪え忍ぶだけだ。


「出て行け、アシタ・ベル!」


 怒声を発したのはアニエスだ。


アスクラピアと神父さまは、お前の非道を赦さない! 明日は我が身と知れ!!」


「やかましい! ヤツのせいで、ディがどれだけ苦労したと思ってるんだ!!」


 そして、純鉄の剣が鞘走る音がして――辺りは静寂に包まれる。

 悲鳴は聞こえなかった。


「……こいつも雑魚だ。裏手に回れ。秘密の出入口がある。修道院長、ルシール・フェアバンクスの身柄を押さえ次第、撤退する……」


 ここ数年は手が行き届いてなかったとはいえ、三百年の時間を掛けて増改築を繰り返した聖エルナ教会は、見た目より、かなりしっかりした造りをしている。

 アシタの言う通り、礼拝堂に通じる隠し口は確かに存在している。だが、それは礼拝堂に立て籠もるだろうルシールとクロエも知っている事だ。

 

 それから暫く、アシタはその場に留まり、数人の騎士と話し込んでいるようだった。

 ややあって――アシタは言った。


「……油を流し込んで火を掛けろ。燃やせ……」


 隠し口は中から閉じられていたのだろう。忌々しそうにアシタは怒鳴った。


「ルシール・フェアバンクスは死んでいる! クロエ・ヴィオレーヌの身柄は必要ない。一緒に燃やせ!!」


「……しかし、それでは……」


「うるさい! 勇者はゲオルク爺さんが黙らせている! 今の内に撤退する! さっさとしろ!!」


 なるほど。アシタ・ベルには時間がない。同時に死神ヨルの報復を強く恐れている。

 エルナは昏い笑みを浮かべた。

 ここで暗夜と鉢合わせれば、恐ろしい死の嵐が吹き荒れる事になる。アシタはそれを知っているという事だ。


 強く呪うほどに、額の逆印が燃えるように痛んだ。


 エルナは、この憎しみを忘れない。無慈悲に娘を殺した守護騎士アシタには、必ず代償を払わせる。それは大神官ディートハルトも変わらない。どのような事情があれ、絶対に赦さない。


 アシタの軍靴の音が遠ざかる。


 アンナの呼吸は止まっていた。


◇◇


 殿しんがりとして残ったゾイはどうなった?


 純鉄の矢で射られたポリーは?


 礼拝堂にルシールとクロエの二人を押し込み、頑強に抵抗したアニエスはどうなった?


 そのエルナの問に答える者はいない。


 やがて、教会内部に焦げ臭い匂いが広がっても、嫌われ者の聖エルナは動かない。娘を死なせてまで得た機会を、感情的になって無駄にするような愚かな事はしない。


 ルシールは死んだ。

 純鉄の剣で胸を刺し貫かれたのだ。間違いなく死んでいる。だが、共にいるクロエがどうなっているかまでは分からない。


 暗夜……暗夜……


 早く帰れ。帰って来い。


 聖女エルナは、アンナの死体の陰にて身を隠し、口元に布を当てて死神の帰還を待ち侘びる。

 そしてー―


「アニエス! クロエ! アンナ! ルシール! エルナ! 何処に居る!!」


 暗夜が戻った。

 立ち込める煙のせいで視界は悪い筈だが、この不測の事態にも恐れる事なく身廊を堂々と駆け出した。


「……暗夜……暗夜……ここ……ここです……」


「エルナ!」


 第十七使徒『暗夜』。人殺しの死神。恐ろしく冷徹で容赦ない男だが、今のエルナにはそれが心強かった。


 死神暗夜は、守護騎士アシタ・ベルに必ずこの代償を払わせる。無力なエルナに代わって、残酷な対価を支払わせる。

 ザールランド帝国は、『最悪』な復讐者、女王蜂と『死神』暗夜という恐ろしい不良債権を抱える事になった。

 アンナは死んでいた。

 エルナを庇い、背中に七本の矢を受けて死んでいた。


「……」


 そのアンナの姿を見た暗夜の顔が、エルナには忘れられそうにない。


 それは、とても悲しそうで。


 それは、とても寂しそうで。


 全く、死神らしくない。


「暗夜! アンナを治して下さい! 何でもします! 何でも……何でも……」


 既にアンナが死んでいる事は知っている。だが、エルナはそう願わずにいられない。


 もし、アンナが助かるなら、エルナはこの場に這いつくばり、死神にへりくだる事も厭わない。


 この男が嫌いだ。

 エルナが暗夜を好いた事は一度もない。与えもすれば、容赦なく奪いもする事に躊躇のないこの男が大嫌いだ。


「……エルナ、ここは危ない。行くぞ……」


「でも! アンナが! アンナ、私を庇ってくれたんです! アンナを置いて行くんですかぁ……」


「……分かっている。この非道は、後で幾らでも責めてくれて構わない。だが、まだ生きている者がいるかもしれない。行かなければ……」


 死神に感傷的な言葉は似合わない。

 この時も暗夜は冷徹だった。

 分かっている。暗夜は正しい。嫌われ者の聖エルナは、冷酷に事態を受け止めた。だから、今、生きている。

 アンナ・ドロテアは孝行娘だ。

 その身を挺してエルナを守り抜いた。エルナは、この献身と真心を忘れない。嫌われ者には嫌われ者の意地がある。


 エルナが慟哭していても、死神暗夜は止まらない。


「行くぞ、エルナ」


「……!」


 そこで、エルナは大きく身体を震わせ。涙で濡れた顔を左右に振った。


「……どうした。何があった……?」


「……っ!」


 エルナは答えず、何度も強く首を振って拒絶した。


「だ、駄目です、暗夜。お前は行かないで下さい……!」


 ルシールは、もう死んでいる。


 聖エルナは嫌われ者だ。

 あるべきものを、あるべきままに。世界は、それが一番美しい。時には残酷だが、運命に身を任せる事は自然な成り行きであり、それが最も正しい事と信じている。

 だがこの時は。

 エルナは残酷な事実を告げる事が出来なかった。

 暗夜は冷たくて嫌な男だ。

 この男に感傷的な台詞は似合わない。だが時に、この嫌な男は、言葉より目や表情で物を言う。


「……そうか、分かった。俺なら大丈夫だ。行こう……」


 大丈夫じゃない。

 この男の残酷な振る舞いを何度も見たが、苦痛を堪えるようなその表情は、全く死神らしくない。エルナの細い手でも突き倒せそうなぐらい弱々しく儚いもののように映った。


 暗夜に肩を抱かれ、煙が立ち込める身廊を礼拝堂目指して進む。


「アニエス……クロエ……」


 使徒の視力を以てしても、教会内部の視界は悪いのだろう。暗夜は煙を振り払いながら、警戒を強くして進む。


 アニエスは、まだ生きていた。


 腹を切り裂かれ、飛び出した臓物を両手で抱え、冷たい脂汗を流しながら命を繋いで生きていた。


「アニエス……! よく耐えた……」


 帰還した暗夜の姿に安堵してしまったのだろう。


「……神父さま……私……」


 気丈に堪えていたアニエスの顔が悲痛に歪み、その頬に涙が伝い落ちた。

 暗夜が傷を塞いでしまうと、アニエスは力尽きて気を失ってしまったが、エルナはそのアニエスを抱き締めて泣いた。

 アニエスは生きている。

 エルナは、それだけで立派だと思った。未だ打ち解ける事の出来ていない娘だが、生きている限り話し合える。


 エルナに暗夜は止められない。


 暗夜は礼拝堂の扉に手を掛けた。運命の扉を押し開こうと力を込める。


 その姿は、残酷で慈悲深いアスクラピアに似て……


 ――アスクレピウス。


 母が最も愛し、最も気に掛けた息子の名だ。


 不可能を可能にし、その力で死者をも生き返らせたという逸話があるが、真偽の程は分からない。


 第三使徒である聖エルナをして、伝説上の存在だ。


 そして、誰もが。


 彼に迷う権利を与えない。

ありがとうございます。昨日も沢山のユーザー様が来てくれました。

カクヨム限定記事にて勇者編全話公開中。異世界編スタートしました。

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