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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
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聖エルナの娘たち1

 暗夜が煙のように消えてしまい、礼拝堂に入ったエルナは、踞ったままのルシールに歩み寄り、肩に手を掛けた。


「その、ルシール。大丈夫ですか?」


「……っ!」


 ルシールは、潤んだ瞳に激情を燃やして、上目遣いにエルナを睨み付けた。


「睨んでも、全然、怖くないですよ?」


 エルナは微笑み、聖女の度量でルシールの視線を受け止めた。しかし……


「さあ、私の肩に掴まってください。一緒にパンツを洗いにいきましょう。大丈夫、女の秘密です」


 エルナの優しさには繊細さ(デリカシー)が欠けている。

 ルシールは憎らしげに呻いた。


「……この、覗き魔……!」


「何故、私が非難されるんですか。意味が分かりません」


 幼い頃から他者にかしずかれる事が当然だったエルナには、一般的な常識が欠けている。その最たるものが、女性としての良識や羞恥心だった。


「さぁ、パンツを洗いましょう……!」


「……」


 羞恥心から項垂れるルシールに、エルナは聖女の微笑みを浮かべて言った。


「ところで、ルシール。なんでパンツが濡れるんでしょうね」


 使徒として過ごした時間が長過ぎるエルナとしては、不思議現象の一つだ。


「……っ! えい、この……!」


 羞恥心から顔を赤くしたルシールは、差し出されたエルナの手を振り払って闇雲に暴れ回った。


「お前は! 常識というものを! 少しは学びなさい!」


「暴れないでください。なんで怒るんですか?」


 ここ暫くの生活で、エルナは一般的な常識というものを学んだつもりだ。ルシールの言いようは酷く心外だった。


「え、もしかして、ルシールはパンツが濡れてないんですか? 私は濡れてますよ?」


「お、お前は……」


 そこで力が抜けたのか、ルシールはがくりと項垂れた。


◇◇


 その後、教会の裏手にある水場に向かった二人は、黙って下着を洗った。

 ものすごく惨めだ。


「……?」


 つい先日も同じく惨めな思いをしたエルナだったが、隣で顔を赤くしてやはり下着を洗っているルシールを見ると、なんだか不思議な気分になった。何故か分からないが、笑いが込み上げて来る。

 ルシールには散々引っぱたかれたし、足を引っ掛けられて転ばされたり、なんならエルナを教会から追い出したのもルシールだ。


 エルナが不思議に思っている感情の正体は『親近感』だ。何故か分からないが、ルシールの気持ちが手に取るように分かってしまう。それがエルナの不思議な笑みに繋がっている。


「……その、ルシール。なんでパンツが濡れるのか、分かります……?」


 一瞬、鋭くエルナを睨み付けたルシールだったが、呆れたように溜め息を吐き出して、それから言った。


「……もう少し、人生経験を積めば分かりますよ……」


「経験なら積んでますよ?」


「……人として、女としての経験です……」


 やはり、エルナには分からない。『愛』という感情は、未だエルナには摩訶不思議な感情だ。だが、これだけは言える。


「貴女は綺麗でしたよ。何故、恥ずかしそうにするんですか?」


 淫らな光景ではあったが、月明かりの下で求め合う二人は、エルナの目にはとても美しく映った。


「……」


 ルシールは俯き、複雑な表情で黙り込んでしまった。

 重苦しい沈黙が流れる。

 先に音を上げたのは、意外な事にルシールだった。


「……エルナ(・・・)、一緒にお茶でも飲みませんか?」


「はい。いいですよ」


 その後、下着を取り替えたエルナは、ルシールの居室に通された。

 ふと思い出したのは、暗夜の言葉だ。


 ……人間の暮らしは、どうだ?


 散々な目に遭ったし、なんなら死にかけもしたが悪くない。生まれた時から聖女だったエルナには、徹底的に人間としての経験が欠けている。逆印を刻まれてからの生活は苦労も多かったが、それで得たものは多い。以前のように単純明快なものでなく、複雑に、より難解になった。


 暖炉には既に火が入っていて、今しがた放り込まれた乾いた薪が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。

 その暖かい居室で、エルナとルシールは二人並んでベッドの上に腰掛けて紅茶を飲んだ。


「……少し、変わりましたね……」


 暖かい香気が鼻腔が抜けて、ほうと溜め息を漏らすエルナに、ルシールがにこりと微笑った。


「……」


 そうなのだろうか。

 エルナは、湯気が立つ紅茶のカップを見ながら考える。

 乱暴なフラニーには荒れ狂う海で水練を強要され、頭の足らないジナには馬鹿扱いされ、意地の悪いアイヴィには憐れまれた。


 まだ分からない事ばかりだが、今のエルナには分かる事がある。

 聖エルナは嫌われ者だ。

 日々の生活を通して、色々な困難に直面してエルナが理解した事がそれだ。


 この不便な生活の原因を作った暗夜の事は嫌いだ。だが、今の状況を悪くないと思うエルナが居る。


 これから、どうすればいいかなんて分からない。当為ソルレンがあったとしても、それがどういうものなのかすら分からない。

 だが、こうして生きていれば、他の者と同じようにエルナも年を取り、いずれ老いて行くのだろう。そして死んで行く。その最期の瞬間、人間エルナは何を思うのか。


 ルシールが暗夜に見せたささやかな愛の夢は美しかった。そこには人並みの小さな『幸せ』があった。それは、エルナをして本当に美しいと思わせた。

 だからこそ、暗夜の事は好きになれない。

 エルナはカップの中身に視線を落としたまま、呟くように言った。


「……その、ルシール。あの男は……相当なワルですよ……?」


 苛烈な男だ。あの男が人並みの幸せを求めるとは思えない。そもそも人ですらない。第十七使徒、暗夜。

 ルシールは楽しそうに微笑った。


「知ってますよ。それぐらい」


「なら、なんで……」


 悲しい涙は見たくない。聖エルナはそう思う。

 そんなエルナに、ルシールは、とんでもない秘密を打ち明けるように悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「……あの人、私の事が好みなんですよ……」


「え……?」


 自信たっぷりのルシールを前にして、エルナは困惑した。

 ますます分からなくなった。

 ルシールは、おかしそうに微笑っている。


「ふふふ……貴女には、まだ早過ぎるかもしれませんね」


「……」


 子供扱いされた事だけは分かる。エルナは、ぷうっと頬を膨らませた。


 聞きたい事は山ほどあった。

 これからの事。他の娘たちの事。暗夜との事。何もかも分からない事だらけの生活。修道女シスタ、ルシール・フェアバンクスはその全てに明快な答えを持っている気がしてならない。


「その、ルシール。貴女に聞きたい事が――」


「……!」


 そこで廊下を駆ける大きな物音がして、ルシールは険しい表情で立ち上がった。

 ドアが強くノックされ、続けてゾイが叫ぶように言った。


「先生! 帝国の連中が来ました!」


 ルシールが直ちに居室のドアを開け放つと、ゾイはエルナの姿を見つけて、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、次の瞬間には眉間に皺を寄せてルシールに向き直った。


「もう囲まれてます……!」


「……剣呑ですね……暗夜が動いた事で何かあるとは思ってましたが……」


 そこからのルシールの行動は素早かった。


「私が対応します。ゾイ。貴女は、皆を集めなさい」


「は、はい。その、神父さまは……」


「暗夜には使徒としての当為ソルレンがあります。いません」


「……っ」


 こんな時に。ゾイの顔に不安が滲んだが、それを咎めるようにルシールが厳しく言った。


「ゾイ。私たちは、暗夜が居なければ何もできないのですか?」


 その言葉で、ゾイは目を覚ましたように『戦士』の顔になった。


 特殊クラス『悪魔祓い(エクソシスト)』には強い精神耐性がある。『不惑』の精神スキルで平常心を取り戻したゾイは、静かに頷いた。


「……恥ずかしいところをお見せしました。直ちに、皆を集めます……」


 それだけ言い残し、ゾイは居住塔の階段を駈け上がって行った。


◇◇


 夜更け、帰らずにいるのは困窮と悪徳だけだ。


 ――第十七使徒、暗夜――


◇◇


 名もなき教会は、大隊規模の帝国騎士に包囲されていた。

 銀の甲冑。白い外套マントに太陽の紋章を背負うザールランド騎士団の騎士たちだ。

 武装している。

 その全員が純鉄の武器を装備している事からして只事ではない。


 聖エルナの娘たちは正面玄関に集まり、皆、険しい表情で口を噤んでいる。


 小窓の隙間から様子を窺うゾイは、呻くように言った。


「……守護騎士アシタ・ベルが指揮を執ってます……話し合いに来たようには見えません……」


 ルシールは鼻を鳴らした。


「ふん、あの出来の悪い鬼の子が、今は騎士ですか。何をしに来たのか分かりませんが、あのシュナイダーの従卒らしい不躾な行動ですね」


 六年前、死の砂漠で大神官ディートハルト・ベッカーを拉致したアシタは、その足で帝国騎士団に駆け込んだ。それにより、当時の聖エルナ教会は権威と行動の自由を失った。


 権威はどうでもいい。聖務を禁じるのもいいだろう。だが、グレタとカレンは赦され、大神官に直接仕える側近の修道女シスタになった。


 以後、聖エルナの娘たちは困窮し、同胞である筈のグレタとカレンは、アシタと大神官ディートハルトと共に王宮に入った。


 聖エルナの娘たちに、この不公正を納得する者はいない。前寺院の壊滅という実際の功績を成した暗夜に成り代わり、その地位を占めるようになった大神官ディートハルトを認める者は、聖エルナの娘たちの中には誰一人としていない。


 聖エルナが信仰する神は、復讐を是とする神だ。


 ルシールは言った。


「さて、あの恥知らず共の言い分を聞きに行くとしましょうか」

カクヨムにて先行しています。よろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
最新話まで一気に読んだけど、アシタのことが嫌いになった。暗夜の事が怖かったのだとしても、ディートハルトが可愛かったからと乗り換えて、その上少しの間でも一緒にいた聖エルナ教会の面々を殺しに来るとか意味わ…
正直恥知らず達の言い分はマジで聞きたくない。 そのまま棺桶に入ってくれって感じの気持ちだよ今。 暗夜がいなきゃ死ぬはずだったディートハルトに人権って叫ばれたら、そりゃあるだろうけど、じゃあ暗夜を犠牲…
囲まれてからの言い草が完全に金属バットなんだよね
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