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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
283/309

聖エルナ13

 『殺し屋』ベアトリクスが、暗夜を訪ねてやって来た。


 けたたましい銃声が響き渡り、続いて修道女シスタたちが全員、身を竦める程の『雷鳴』。


 そしてまた銃声。回転式拳銃リボルバーだ。暗夜が派手にやり合っている。


 エルナとしては、またか、という感覚でしかないが、この非日常的な出来事にルシールたちは気を揉んだ。


 ルシールの命令で、お茶汲みにされたエルナが司祭の部屋に訪れた時、頑丈な筈の煉瓦造りの壁のそこかしこに穴が空き、ずたぼろになっていた。


「ざまあねえな、エルナ!」


 お茶を出したエルナを見て、ベアトリクスは大いに嘲笑った。


「ああ、笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だ? いいよ、暗夜。クラウディアは前払いで殺ってやる」


「……あぁ、任せる……」


 その剣呑な会話内容から、暗夜がベアトリクスに『依頼』した事は分かる。殺し屋と死神の交渉は上手く纏まったようだ。


「ID 0127 ベアトリクス。帰還する」


 屈辱に震えるエルナを嘲笑して、謎の言葉を発したベアトリクスは去った。


 意味不明。理解不能。

 第八使徒ベアトリクスの存在は謎に包まれている。殺し屋は、誰ともつるまない。没交渉のエルナにしてみれば、ベアトリクスが白蛇の使徒招集に応じた理由すら分からない。


 あれは誰か、と問うたルシールに向き直った暗夜の顔が、エルナは忘れられそうにない。


 ルシールは、暗夜を心配するべきではなかった。


 それまで愉しそうに笑っていた暗夜が、ルシールの思わしげな顔を見て、まるで夢から覚めたかのようにハッとして、視線を伏せてしまった。

 無理もないとエルナは考える。

 ベアトリクスは使徒たる暗夜をして危険な相手だ。息をするように殺す。その人格は破綻している。派手にやり合ったようだが、ベアトリクスにとっては遊びでしかない。


 聖エルナは、ベアトリクスを使徒とは認めない。


 あれは魔人と呼ぶのだ。


◇◇


 ルシールにはお茶汲みにされ、ベアトリクスには嘲笑われる。エルナが嫌になっても日常は続く。


 昼食の準備が終れば次は夕食だ。その後には片付け、掃除、洗濯……そして、陽が落ちる頃になっても、暗夜は部屋から出て来ない。


 夕食の席で、ゾイは目に涙を浮かべ、相当頭に来ているようだった。


「あいつ……あの赤いドレスの女……なんなんだ……!?」


 修道女シスタの中では、唯一戦闘特化の修道女であるゾイをして同席を許可されなかった。今後もそうだ。ゾイは、もう付いて行けないのだ。

 エルナは首を振った。


「……あれは、人殺しですよ……」


 第八使徒『殺し屋』ベアトリクス。

 使徒であったエルナをして、その正体は謎だ。アスクラピアより依頼を受け、不老不死を賜ったとされるが詳しくは知らない。時折、地に降りて災厄を撒き散らす魔人にも似た存在。人智を超えたもの。


 夜になり、司祭の居室がある居住塔は、恐ろしい程の神力が溢れ返り、誰も寄せ付けなくなった。


 もうそうなのか、とエルナは短く溜め息を吐く。


 ここから先は、誰も付いて行けない。少なくとも、暗夜はその判断を下した。だから修道女シスタたちを寄せ付けない。

 暗夜はこの教会を去るだろう。

 そうすべきだとエルナは考える。

 使徒の当為ソルレンを人間が共にする事は困難だ。選りすぐりの者でなければならない。娘たちは、その水準に達していない。暗夜の当為ソルレンは娘たちを殺す。だから、暗夜が去るのは構わない。


 以前のエルナなら潔しとその性分を讃えたが、挙って暗夜を慕う娘たちを見ていると、とてもでないが居たたまれない気持ちになる。


 ルシールたちが聖エルナの名を捨てようと、エルナにとって、この教会の修道女シスタたちが娘と呼べる存在である事に変わりはない。そう考えると、暗夜の潔さは不義理にしか思えなくなるから不思議だ。

 だが……とエルナは思い悩む。

 暗夜の立場になってみれば悩ましい。己を慕うこの娘たちに、なんと言って別れを告げればいいのだ。役に立たないと嘲笑うのか。無力だからと突き放すのか。適した別れの言葉などない。どうせ娘たちは……特にルシールとゾイは納得しない。死なせたくないなら、黙って去るのが一番だ。

 とても残酷だ。

 聖女エルナはそう思う。

 幾ら心を通わせようと、その想いが届く日は永遠にやって来ない。だが、暗夜が少しでも別れを惜しんでしまえば、娘たちは命を投げ出して己の無力を補おうとするだろう。

 ふとエルナは思い出した。


 コインの表と裏だ。


 死神が口を閉ざすなら、聖女は真実を告げねばならない。

 エルナは言った。


「……早晩、暗夜は去るでしょう……」


 そしてもう、振り返らない。二度と戻る事もないだろう。暗夜には、そういう潔さがある。

 悲しい男だ。

 エルナは心からそう思う。そして、冷たい嫌な男だとそう思う。別れも告げず、捨てて行く者の中には自分エルナも含まれるからだ。


「……あれの事は、もう忘れなさい。縁がなかったんですよ……」


「なに……!?」


 ゾイは憤慨し、エルナの襟首を捻り上げたが感情だけでは何も変わらない。そもそも、暗夜……ディートハルト・ベッカーと呼ばれた少年はどう振る舞っていたか。

 エルナは、ゾイを哀れに思った。

 それで気が済むなら、殴られてやっても構わない。


「……」


 ゾイの想いは報われない恋だ。

 エルナの憐れみに満ちた視線に会って、ゾイは大粒の涙を流した。


 聖女エルナの娘たちは、全員が泣いていた。


◇◇


 静まり返った礼拝堂で、ルシールがただ一人、跪いて静かに祈りを捧げている。


 最低限の力を示さない者の言葉を聞くほど、死神は甘くない。そのエルナの言葉に従って、ルシールを除いた他の修道女シスタたちは、皆それぞれの想いを胸に暗夜の下を目指して居住塔に向かった。


「……ルシール。お前は行かないのですか……?」


 エルナの言葉に、ルシールは振り向かないままで首を振った。


「……あの人は、一度決めた事は曲げない方です。そこを曲げようとするなら、それなりの覚悟を見せねば言葉すら掛けてもらえないでしょう……」


「そうですか……」


 今のエルナは、ただの人間だ。神力を感じ取る事が出来ない。そのエルナだけが暗夜に近付けるのは酷い皮肉だ。

 何も感じない。

 娘たちが倒れ伏す身廊を進みながら、エルナは自身を訝しく思った。

 これでも、聖エルナの娘たちだ。

 その娘たちが気を失う程の神力なら、今はもう人間であるとはいえ、エルナにも少なからず影響はある筈だが、何も感じない。ベテランであるポリーすら扉口に辿り着く前に倒れてしまった。


 泪石を使ってなんとか扉口を抜けたゾイも、居住塔の階段を上る前に力尽きた。

 ゾイは意識を保つだけで精一杯だった。使徒が本気で『人払い』しているのだから無理もない。

 倒れ伏す娘たちを躱し、エルナは暗夜の下へ向かう。

 ただ一人、別の手段を取ったルシールだけが死神を引き留める可能性を残している。


 そして――


◇◇


 エルナは、愛が見せる夢を見た。


 名もなき小さな教会が、緑を見渡す丘の上に建っている。


 黒髪の牧師は長い一本道を辿り、家路を急ぐ。向かう先は名もなき小さな教会だ。


 小さな子供と並んだ修道女シスタが、牧師の男に手を振る。


 牧師の男は駆け出して……帰ってきたばかりなのだろう。少しはにかんだ笑みを浮かべて言った。


 ……ただいま、ルシール……


 妖精族は不思議な術を使う。

 だが、今のエルナにすら子供騙しにしか見えない幻術が、使徒に通用するとは思えない。

 当然、その幻術は効かなかった。

 暗夜は、ルシールの細い首を片手で掴んで吊り上げた。


「……!」


 暗夜の殺意は明白で、エルナは、はっと息を飲み込む。

 だが……暗夜の動きが止まった。

 幻術は効いてない筈だ。だが、暗夜は動きを止め、振り払うようにしてルシールを投げ捨てた。


「……」


 暗夜は訝しむように両の手の平を見つめ、続けて慄いたようにルシールを見た。


 二人は何か言っているが、距離のあるエルナには聞こえない。

 それがどうにももどかしい。

 幻術は効いてない筈だが、暗夜は何かを見た。それは恐らく、ルシールの愛が見せる夢だ。今はもう失われて久しい妖精族の血が、ルシールの見る愛の夢を見せた。


「……お前は何者だ……!」


 そう怒鳴った暗夜は、エルナの目には怯えているように見えた。


 暗夜は元を辿れば純血種の人間だ。その人間という種族と妖精族とは、相性が抜群によい。無関係ではないだろう。だが、それだけじゃない。この二人の間には何かある。

 ルシールが泣きながら何か言った。


 ややあって――


 ……ただいま、ルシール……


 そう聞こえたような気がした。

 ルシールが使った幻術が効いた訳じゃない。だが、何かが重なった。

 愛が見せる夢がある。

 天窓から射し込む月明かりの下で固く抱き合う二人の姿は、エルナの目にとても輝かしく映る。

 聖エルナは愛を知らない天使だ。

 ルシールが起こした愛の奇跡を目の当たりにしても、それは変わらない。心ない天使のままでいる。それでも抱き合う二人から目を離せない。


 あと少しだ。

 エルナは何かを掴みそうだ。もう半ばその正体に気付きつつある。だが、まだ足らない。

 淫らだ。いやらしい。不潔だ。

 潔癖症のエルナは内心で強く非難するが、それでも互いを求め合う二人に視線を奪われたままだ。


 やがて、名残惜しそうに暗夜が離れると、ルシールはその場に踞るようにして座り込んでしまった。


「あ……!」


 本当に、あと少しだった。

 あと少しで、エルナの手は大切な何かを掴みそうだった。


 振り返った暗夜は、両開きの扉の隙間から覗き見るエルナの姿を見て、にやりと不埒な笑みを浮かべた。


 後で、ぶっ飛ばしてやる。


 怒りと羞恥心とで顔を赤くするエルナの目の前で、暗夜は煙のように消えてしまった。


「え……!?」


 ルシールの刻んだ召喚陣は健在だ。跳べない筈だ。だが暗夜は跳んだ。

 エルナは間を置かず勘付いた。

 暗夜は喚ばれたのだ。『血の盟約』による召喚は、ルシールが刻んだ召喚陣より強力だ。


 暗夜は、それに応じた。応じてしまった。


 災いの星は、死神すらも見逃さない。それを知らなかった訳でもなかろうに……

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― 新着の感想 ―
カ○ヨムの方が進んでたのですね あちらで読みまーす
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