聖エルナ13
『殺し屋』ベアトリクスが、暗夜を訪ねてやって来た。
けたたましい銃声が響き渡り、続いて修道女たちが全員、身を竦める程の『雷鳴』。
そしてまた銃声。回転式拳銃だ。暗夜が派手にやり合っている。
エルナとしては、またか、という感覚でしかないが、この非日常的な出来事にルシールたちは気を揉んだ。
ルシールの命令で、お茶汲みにされたエルナが司祭の部屋に訪れた時、頑丈な筈の煉瓦造りの壁のそこかしこに穴が空き、ずたぼろになっていた。
「ざまあねえな、エルナ!」
お茶を出したエルナを見て、ベアトリクスは大いに嘲笑った。
「ああ、笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だ? いいよ、暗夜。クラウディアは前払いで殺ってやる」
「……あぁ、任せる……」
その剣呑な会話内容から、暗夜がベアトリクスに『依頼』した事は分かる。殺し屋と死神の交渉は上手く纏まったようだ。
「ID 0127 ベアトリクス。帰還する」
屈辱に震えるエルナを嘲笑して、謎の言葉を発したベアトリクスは去った。
意味不明。理解不能。
第八使徒ベアトリクスの存在は謎に包まれている。殺し屋は、誰ともつるまない。没交渉のエルナにしてみれば、ベアトリクスが白蛇の使徒招集に応じた理由すら分からない。
あれは誰か、と問うたルシールに向き直った暗夜の顔が、エルナは忘れられそうにない。
ルシールは、暗夜を心配するべきではなかった。
それまで愉しそうに笑っていた暗夜が、ルシールの思わしげな顔を見て、まるで夢から覚めたかのようにハッとして、視線を伏せてしまった。
無理もないとエルナは考える。
ベアトリクスは使徒たる暗夜をして危険な相手だ。息をするように殺す。その人格は破綻している。派手にやり合ったようだが、ベアトリクスにとっては遊びでしかない。
聖エルナは、ベアトリクスを使徒とは認めない。
あれは魔人と呼ぶのだ。
◇◇
ルシールにはお茶汲みにされ、ベアトリクスには嘲笑われる。エルナが嫌になっても日常は続く。
昼食の準備が終れば次は夕食だ。その後には片付け、掃除、洗濯……そして、陽が落ちる頃になっても、暗夜は部屋から出て来ない。
夕食の席で、ゾイは目に涙を浮かべ、相当頭に来ているようだった。
「あいつ……あの赤いドレスの女……なんなんだ……!?」
修道女の中では、唯一戦闘特化の修道女であるゾイをして同席を許可されなかった。今後もそうだ。ゾイは、もう付いて行けないのだ。
エルナは首を振った。
「……あれは、人殺しですよ……」
第八使徒『殺し屋』ベアトリクス。
使徒であったエルナをして、その正体は謎だ。母より依頼を受け、不老不死を賜ったとされるが詳しくは知らない。時折、地に降りて災厄を撒き散らす魔人にも似た存在。人智を超えたもの。
夜になり、司祭の居室がある居住塔は、恐ろしい程の神力が溢れ返り、誰も寄せ付けなくなった。
もうそうなのか、とエルナは短く溜め息を吐く。
ここから先は、誰も付いて行けない。少なくとも、暗夜はその判断を下した。だから修道女たちを寄せ付けない。
暗夜はこの教会を去るだろう。
そうすべきだとエルナは考える。
使徒の当為を人間が共にする事は困難だ。選りすぐりの者でなければならない。娘たちは、その水準に達していない。暗夜の当為は娘たちを殺す。だから、暗夜が去るのは構わない。
以前のエルナなら潔しとその性分を讃えたが、挙って暗夜を慕う娘たちを見ていると、とてもでないが居たたまれない気持ちになる。
ルシールたちが聖エルナの名を捨てようと、エルナにとって、この教会の修道女たちが娘と呼べる存在である事に変わりはない。そう考えると、暗夜の潔さは不義理にしか思えなくなるから不思議だ。
だが……とエルナは思い悩む。
暗夜の立場になってみれば悩ましい。己を慕うこの娘たちに、なんと言って別れを告げればいいのだ。役に立たないと嘲笑うのか。無力だからと突き放すのか。適した別れの言葉などない。どうせ娘たちは……特にルシールとゾイは納得しない。死なせたくないなら、黙って去るのが一番だ。
とても残酷だ。
聖女エルナはそう思う。
幾ら心を通わせようと、その想いが届く日は永遠にやって来ない。だが、暗夜が少しでも別れを惜しんでしまえば、娘たちは命を投げ出して己の無力を補おうとするだろう。
ふとエルナは思い出した。
コインの表と裏だ。
死神が口を閉ざすなら、聖女は真実を告げねばならない。
エルナは言った。
「……早晩、暗夜は去るでしょう……」
そしてもう、振り返らない。二度と戻る事もないだろう。暗夜には、そういう潔さがある。
悲しい男だ。
エルナは心からそう思う。そして、冷たい嫌な男だとそう思う。別れも告げず、捨てて行く者の中には自分も含まれるからだ。
「……あれの事は、もう忘れなさい。縁がなかったんですよ……」
「なに……!?」
ゾイは憤慨し、エルナの襟首を捻り上げたが感情だけでは何も変わらない。そもそも、暗夜……ディートハルト・ベッカーと呼ばれた少年はどう振る舞っていたか。
エルナは、ゾイを哀れに思った。
それで気が済むなら、殴られてやっても構わない。
「……」
ゾイの想いは報われない恋だ。
エルナの憐れみに満ちた視線に会って、ゾイは大粒の涙を流した。
聖女エルナの娘たちは、全員が泣いていた。
◇◇
静まり返った礼拝堂で、ルシールがただ一人、跪いて静かに祈りを捧げている。
最低限の力を示さない者の言葉を聞くほど、死神は甘くない。そのエルナの言葉に従って、ルシールを除いた他の修道女たちは、皆それぞれの想いを胸に暗夜の下を目指して居住塔に向かった。
「……ルシール。お前は行かないのですか……?」
エルナの言葉に、ルシールは振り向かないままで首を振った。
「……あの人は、一度決めた事は曲げない方です。そこを曲げようとするなら、それなりの覚悟を見せねば言葉すら掛けてもらえないでしょう……」
「そうですか……」
今のエルナは、ただの人間だ。神力を感じ取る事が出来ない。そのエルナだけが暗夜に近付けるのは酷い皮肉だ。
何も感じない。
娘たちが倒れ伏す身廊を進みながら、エルナは自身を訝しく思った。
これでも、聖エルナの娘たちだ。
その娘たちが気を失う程の神力なら、今はもう人間であるとはいえ、エルナにも少なからず影響はある筈だが、何も感じない。ベテランであるポリーすら扉口に辿り着く前に倒れてしまった。
泪石を使ってなんとか扉口を抜けたゾイも、居住塔の階段を上る前に力尽きた。
ゾイは意識を保つだけで精一杯だった。使徒が本気で『人払い』しているのだから無理もない。
倒れ伏す娘たちを躱し、エルナは暗夜の下へ向かう。
ただ一人、別の手段を取ったルシールだけが死神を引き留める可能性を残している。
そして――
◇◇
エルナは、愛が見せる夢を見た。
名もなき小さな教会が、緑を見渡す丘の上に建っている。
黒髪の牧師は長い一本道を辿り、家路を急ぐ。向かう先は名もなき小さな教会だ。
小さな子供と並んだ修道女が、牧師の男に手を振る。
牧師の男は駆け出して……帰ってきたばかりなのだろう。少しはにかんだ笑みを浮かべて言った。
……ただいま、ルシール……
妖精族は不思議な術を使う。
だが、今のエルナにすら子供騙しにしか見えない幻術が、使徒に通用するとは思えない。
当然、その幻術は効かなかった。
暗夜は、ルシールの細い首を片手で掴んで吊り上げた。
「……!」
暗夜の殺意は明白で、エルナは、はっと息を飲み込む。
だが……暗夜の動きが止まった。
幻術は効いてない筈だ。だが、暗夜は動きを止め、振り払うようにしてルシールを投げ捨てた。
「……」
暗夜は訝しむように両の手の平を見つめ、続けて慄いたようにルシールを見た。
二人は何か言っているが、距離のあるエルナには聞こえない。
それがどうにももどかしい。
幻術は効いてない筈だが、暗夜は何かを見た。それは恐らく、ルシールの愛が見せる夢だ。今はもう失われて久しい妖精族の血が、ルシールの見る愛の夢を見せた。
「……お前は何者だ……!」
そう怒鳴った暗夜は、エルナの目には怯えているように見えた。
暗夜は元を辿れば純血種の人間だ。その人間という種族と妖精族とは、相性が抜群によい。無関係ではないだろう。だが、それだけじゃない。この二人の間には何かある。
ルシールが泣きながら何か言った。
ややあって――
……ただいま、ルシール……
そう聞こえたような気がした。
ルシールが使った幻術が効いた訳じゃない。だが、何かが重なった。
愛が見せる夢がある。
天窓から射し込む月明かりの下で固く抱き合う二人の姿は、エルナの目にとても輝かしく映る。
聖エルナは愛を知らない天使だ。
ルシールが起こした愛の奇跡を目の当たりにしても、それは変わらない。心ない天使のままでいる。それでも抱き合う二人から目を離せない。
あと少しだ。
エルナは何かを掴みそうだ。もう半ばその正体に気付きつつある。だが、まだ足らない。
淫らだ。いやらしい。不潔だ。
潔癖症のエルナは内心で強く非難するが、それでも互いを求め合う二人に視線を奪われたままだ。
やがて、名残惜しそうに暗夜が離れると、ルシールはその場に踞るようにして座り込んでしまった。
「あ……!」
本当に、あと少しだった。
あと少しで、エルナの手は大切な何かを掴みそうだった。
振り返った暗夜は、両開きの扉の隙間から覗き見るエルナの姿を見て、にやりと不埒な笑みを浮かべた。
後で、ぶっ飛ばしてやる。
怒りと羞恥心とで顔を赤くするエルナの目の前で、暗夜は煙のように消えてしまった。
「え……!?」
ルシールの刻んだ召喚陣は健在だ。跳べない筈だ。だが暗夜は跳んだ。
エルナは間を置かず勘付いた。
暗夜は喚ばれたのだ。『血の盟約』による召喚は、ルシールが刻んだ召喚陣より強力だ。
暗夜は、それに応じた。応じてしまった。
災いの星は、死神すらも見逃さない。それを知らなかった訳でもなかろうに……