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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
282/309

聖エルナ12

 ルシールに引き摺られてやって来た厨房では、ポリー、アニエス、クロエの三人が忙しく動き回っていた。


 三人は、やって来たルシールを見て、一度手元に視線を戻し、それから目を剥いてルシールを凝視した。


 まあ、昨日まで老いていたルシールが今朝になって若返っているのだ。驚かない方がどうかしている。

 ポリーが仰天して叫んだ。


「ルシール! あんた!」


 ルシールは照れ臭そうに頬を掻き、曖昧な笑みを浮かべていた。

 そこからはもう、三人は大騒ぎだった。


暗夜ディートちゃんだねえ……あたしゃ、やってくれると信じてたよ……よかった……本当によかった……」


 ルシールを抱き締め、目に涙を浮かべて喜ぶポリーだったが、アニエスとクロエの二人は目を剥いたまま固まっている。


「そ、それは……神父さまが……?」


「い、いったい、どうやって……」


 そのアニエスとクロエの問いに答えたのはエルナだ。


「それは、女の秘密なのです」


「……」


 ポリーらは、エルナの言葉に冷たい視線を送っただけだ。人間関係の修復には時間が掛かる。エルナは俯き、その視線を躱して黙り込んだ。


 そこからのエルナは大忙しだった。


 まず、ルシールの指示で、井戸まで水を汲みに行く羽目になった。


「青石を使えばいいでしょう。なんで桶なんかで……」


 そう愚痴るエルナに、クロエから冷たい返答があった。


「青石と赤石の使用を禁じたのは、貴女じゃないですか、聖エルナ(・・・・)


 確かに言った。

 エルナの時代には、青石や赤石などのような魔核を用いた便利な魔具は高価で値の張る代物だった。その為、娘たちには使用を禁じた。


 水汲みなど、やった事はない。

 だが、自分が言った事をやらないのは卑劣だ。とぼとぼと井戸の方に向かうと、そこにはゾイが居て、辺りは濡れていて水浴びをした形跡があった。


「……」


 まだ朝早い。水は身を切るような冷たさだった筈だ。以前は感心だと誉めたエルナだが、今は無理をしているようにしか見えない。


「その、ゾイ……風邪を引いてしまいますよ」


 ゾイの髪からは、まだ水が滴り落ちている。ドワーフは強靭な身体を持っているが、それでも病気にならない訳じゃない。


「……へえ、少し変わったね……」


 ゾイは、いっぱいに入った木製の水桶を指差した。持って行けという事だろう。


「別に、あんたの気を引きたくてやってたんじゃない。汚くしていると、暗夜ディは嫌がるんだ」


「そ、そうですか……」


 ゾイは薄く嘲笑って言った。


「清潔は大事だよ、聖女さま。先生もそうだけど、皆、やってる事だ。お湯で沐浴するなんて横着は誰もしてない」


 その言葉に、エルナはカチンと来た。


「……暗夜ヨルはどうなのです? あれがまだ生きていた時、私と同じようにお湯で沐浴していましたよね……?」


 ゾイは強く鼻を鳴らした。


「そうだね。殆どシュナイダーの仕事だったけど……それでも、ディはいつもお礼を言ってたよ。聖女さまは、お礼を言った?」


「……」


 沐浴の準備をしてくれたのは暗夜だ。使徒の権能で簡単にやってしまうから気にも留めなかったが、あれを自力でするとなると結構な手間だ。

 ゾイは言った。


「他にもディは色々やった。厳しい事もしたけど、無給で働いてた皆に、運営費から給与を与えようとした。自分はタダ働きなのにね。おかしいね。強い術を惜しげもなく使って、アスクラピアは代償を取った筈だよ」


「……」


「疫病が流行ったパルマに行った時も、ディは少しだって儲けた訳じゃないんだよ。ディは……いつだって、自分の事は後回しだった……」


 そう言ったゾイは、悔しそうに唇を噛み締めた。


 きっと、悪名高かった前寺院を壊滅させた時の事を思い出しているのだろう。あの時の暗夜は、まだ幼かったゾイを退け、ルシールだけを伴って寺院に乗り込んだ。

 ゾイは皮肉たっぷりに言った。


「聖女さまは、私たちの事なんて、どうでもいいよね」


 そんな事はない、と言い掛けてエルナは唇を噛み締める。実際には何もしなかったからだ。行動の伴わない言葉ほど無力なものはない。


「……」


 しゅんとして黙り込むエルナを、ゾイは、暫く冷たい視線で見つめていたが、不意に思い出したように言った。


「……そういえば、神父さまは、また強い術を使ったって言ってたけど、何の事?」


「……?」


 エルナは首を傾げた。

 だが、呼び方が『ディ』から『神父さま』に変わった。察するに、使徒になってからの事を言っているのだろう。思い当たる事は一つだけだ。

 エルナは、ぽつりとその名を呟いた。


「マリエール・グランデ……」


「……っ!」


 その名にゾイは、ギョッとして目を見開いたかと思うと激しく舌打ちした。


「あのエルフ……!」


 ドワーフとエルフの種族相性は最悪だ。これには長年蓄積された二つの種族の違いが大きい。


 筋肉質で丈夫なドワーフに対し、華奢で非力なエルフは好む生活環境からして違う。


 魔力に富むエルフは労働の殆どをゴーレム等に任せてしまう為、肉体労働は好まない。逆に鍛冶職人の多いドワーフは鉱床のある鉱山等に好んで住む為、肉体労働を厭わない。

 ドワーフとエルフとは、とことん合わないのだ。

 職人気質のドワーフは基本的に無口だが、大酒飲みが多く、集団での飲み会では大いに騒ぐ。物静かなエルフには、この行為が見苦しく見えて仕方ない。

 また食べ物の嗜好も違う。

 ドワーフは濃い味付けの物を好むが、エルフは逆に薄い味付けの物を好む。

 ドワーフから見たエルフは『お高くとまった嫌なヤツ』で、エルフから見たドワーフは『大酒飲みの野蛮なヤツ』だ。


 うわ、とエルナは顔を歪めそうになった己を自制した。


 ゾイとマリエール。

 あの節操のない暗夜は、この二人をどうするのだろう。何も考えてない気がする。恐ろしい事になるだろう。エルナは関わりたくない。


 また一つ賢くなったエルナは空気を読み、重たい水桶を持ってその場を後にした。


◇◇


 エルナの忙しさは続いた。

 アンナが殆どやってくれたが、たらいいっぱいの野菜を水洗いして、朝食を摂る前から昼食の下準備だ。

 エルナは何も知らなかった。

 食事の準備だけでも目が回りそうだ。下拵えに始まり、単純な調理は勿論、食器の準備に後片付け。休む間もない。

 へとへとになった所で、漸く朝食の段になり、ルシールに少し遅れて厨房にやって来たゾイは、かんかんに怒っていた。


「なんなんだ! あい、つ――」


 ゾイは怒鳴り散らそうとして、そこで若返ったルシールの姿を見て固まった。


「せ、先生……?」


 少し頬を染めたルシールは、小さく咳払いして言った。


「……ん、まぁ、その……色々と心配を掛けましたが、私は大丈夫です。それより、ゾイ。どうかしましたか?」


「……」


 その時、ゾイは笑っていた。

 若さと輝きを取り戻したルシールの姿を見て、不敵に笑っていた。


「……っ」


 ここ最近での困難を経て、エルナは危機察知能力を身に付けていた。ぞ、とエルナは背筋が粟立つような感じがしてゾイから目を逸らす。

 母は赤裸々な行いを好まれない。いずれ、暗夜は身を以て報いを受けるだろう。

 ほんのちょっぴり楽しみだ。

 なんなら待ち遠しくすらある。ゾイとルシールに詰め寄られ、澄ました暗夜が慌てふためく様が目に浮か……浮かばない。


 きゃあきゃあとはしゃぐ娘たちから、ぽつんと距離を取った場所で、エルナは眉間に皺を寄せる。


「……」


 ルシールは少し恥ずかしそうに。ゾイはルシールの回復を喜びながらも不敵に笑い、この状況を受け止めているが……

 エルナは思うのだ。

 暗夜の一番強い個性は『孤高』だ。あの男の隣に並び立つ事は難しい。歩みを共にしてやって行ける者は居ない。暗夜には、それだけの冷たさと行動力がある。その時が来れば、躊躇いなく一人で己の道を行くだろう。


 ルシールとゾイの恋は、決して叶わぬ恋だ。六年前、前寺院に襲撃を掛けた際、暗夜がどうしたか。その時が来れば、何度でもそうする。何度でも捨てて行く。


 ――死神は、いつも一人。


 災いの星は死神すらも見逃さない。運命は暗夜に孤独を強要するだろう。


 その日、『殺し屋』ベアトリクスが、暗夜を訪ねてやって来た。

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