聖エルナ11
抱き合う暗夜とルシールが離れると、唇と唇の間に銀の橋が伝って落ちる。
月明かりが反射して不埒ながらも美しい。エルナは、どうしても目を離せなかった。そんな光景だった。
口元に不埒な笑みを浮かべた暗夜が背を向け、がくりとその場に踞ったルシールは……
エルナは刮目した。
ルシール・フェアバンクスは、若返っていた。
白髪混じりだった髪は月明かりに映え、黒く美しく、紅潮した肌は滑らかで、それでいて艷やかだ。暗夜の背中を睨み付けているが、その目尻は物欲しそうに蕩け、垂れ下がっている。
妖精族の血を引くルシールの身体の半分は、使徒と同じ星辰体だ。だから、暗夜がその気になれば、容易い事ではある。だがやり方というものがある。
早鐘のように忙しく心臓が鳴って、エルナは身廊を逆に駆け出した。
なんてことを! あのけだもの!
エルナは頰が熱くなって紅潮していた。頭の中は混乱して目茶苦茶だった。何か貰って来るという話が、どうこんがらがればああなるのだ。
いやらしい! いやらしい! 不潔だ!
そして――自分は何故逃げるのか。エルナに恥じる事は何もない。あの節操のない男に、何か言ってやらねば気が済まない。
扉口で足を止めたエルナは、程なくしてやって来た暗夜を口汚く罵った。
「この、けだもの……!」
「なんだ、見ていたのか。いやらしいガキだ」
不埒に笑う暗夜は堂々としていて、それがいっそうエルナには腹立たしく感じられた。
愛というものの事は未だによく分からないが、ほんの少しだけ、ルシールが羨ましいと思うエルナが居た。
◇◇
その晩、エルナは誰にも言えない夢を見た。
青白い月明かりの下、礼拝堂で絡み合う男女の夢だ。
男の方は暗夜で、女の方はエルナだった。
エルナは必死で抵抗して逃げ出そうとするが、暗夜は力ずくで抵抗を捩じ伏せ、エルナと深く激しい口付けを交わしている。
散々に弄ばれている内に、次第に身体中が熱くなり、頭の中に霞が掛かったようにぼんやりとして、エルナは抵抗できなくなって暗夜を受け入れてしまう。
暗夜がそっと離れると、唇と唇の間に銀の雫が垂れ落ちて、激情の名残りが月明かりに照り返る。
「――はっ!」
そこでエルナは目を覚ました。
時刻はまだ夜だ。先程まで眠っていたにも関わらず、エルナの吐息は熱く荒れていた。
「……さ、最低ですっ……!」
下着がぬるぬるして気持ち悪い。
ベッドから抜け出して、そっと隣室を覗くと、そこに暗夜の姿はなかった。
暗夜には喫煙の悪癖がある。
普段は伽羅で誤魔化しているが、度々、外庭に出て煙草を吸っているのを見掛ける。おそらく、今はそうしているのだろう。
ここに居れば、出て行けとぶっ飛ばしてやったが、居ないならいい。
寝室の片隅で、何やら粘つく下着をいそいそと取り替えるエルナは、酷く惨めな気持ちになった。
逆印を刻まれ、力を失ってからというもの、エルナの身体には、時折理解不能の状態が生じる。
「こ、これは……」
フラニーやジナが、時折やっていたあれだ。夜中、苦しそうに呻き、暫くして起き出したかと思うと、こっそり階下に下りて下着を洗っている。エルナがどうしたのかと聞くと、二人は顔を真っ赤にして激昂するあれだ。
あの時は、よく分からなかったが、今なら二人の気持ちがよく分かる。あの時は、見て見ぬふりをするのが正解だったのだ。
エルナは、こっそり寝室を抜け出して、水場の近くにある洗濯場に向かった。
酷く惨めだ。
フラニーやジナには申し訳ない事をしたと思いながら洗濯場に辿り着いたエルナだったが……そこには既に先客が居た。
「ルシール……!」
誰も居ない洗濯場で、ルシールは顔を赤くして下着を洗っていたが、現れたエルナの姿に目を剥いた。
「にゃっ、にゃにお……!」
ルシールは飛び上がりそうなほど驚いていたが、今のエルナは常識家だ。こういうのは見て見ぬふりをするのが正しい。
エルナは先手を打って言った。
「わ、私は何も見てません。ル、ルシール、貴女も何も見てない。そういう事にしませんか……?」
「……」
ルシールは真っ赤になった顔を逸らして下着を洗い、その隣でエルナも並んで下着を洗った。
双方、暫く無言だった。
事を済ませ、お互いに証拠を隠滅した後で、ルシールは小さく咳払いした。
「……私を見ても、驚かないんですね……」
「何がですか……?」
そう答えて、一瞬後には、とんでもないヘマをやらかしたと気付いたエルナは、額に冷たい汗が浮かぶのを感じた。
今のルシールは若返っている。先ほどまで老女と言ってもよかった容姿が、アンナたちと比較しても変わらない程度には若返っている。そのルシールを見て、エルナが驚かないという事は……
ルシールは、圧し殺した声で呻いた。
「……覗いていたのですか……あれを……」
今のエルナは常識家だ。堂々と言った。
「何も見てません。ルシール、私は貴女の浅ましい行為を不問にしますよ」
もう少しエルナに常識があれば、ルシールの額に浮かんだ青筋を見逃さなかっただろう。
◇◇
その翌朝、寝不足気味のエルナは、早朝からルシールに叩き起こされる事になった。
「エリシャ、起きなさい! お前はいつまでだらけているのです!」
ルシールの発した超音波に、エルナは仰天して飛び起きた。
「な、なんですか、ルシール! お、怒っているのですか!? あの事は二人の秘密です! 誰にも言いませんから……!」
ルシールは、もう顔を隠していない。そのルシールの若々しい顔が怒りに引き攣った。
「お黙りなさいッ!」
エルナは悲鳴を上げた。数日前、嫌というほど張り飛ばされたが、その時より余程ルシールは怒っているように見えた。
鬼の剣幕のルシールに寝室から引き摺り出された時、殆ど同時に部屋から出て行く暗夜の背中が目に映った。
「あ……!」
その暗夜に声を掛けようとしたルシールの手が虚しく宙を掻くのを見て、エルナは何故か胸を搔き毟られたような切ない気持ちになった。
「……」
ルシールは項垂れ、なんとも言えない表情で暗夜の背中を見送った。
「……暗夜に、会いに来たんじゃないんですか……?」
「……」
ルシールは答えない。ただ悲しそうに俯き、その場に立ち尽くすだけだ。その様子に、エルナは焦れったく思うのと同時に何故か腹が立った。
「私なんて放って置いて、今は暗夜を追った方がいいんじゃないんですか?」
「いいんです……どうせ私は……」
どうせ私は、なんなのだ。煮えきらない。何故か分からないが、今のルシールが尻込みしている事だけは分かる。その姿は怖気付いているようにも見え、エルナとしては焦れったくて仕方がない。
そしてエルナはヘマをする。
「さあ、暗夜を追いなさい! あの続きがしたいんですよね! 私は止めないので大丈夫です! ただ、ちょっと興味があるので見ていていいですか?」
「……」
「大丈夫です。ちゃんと隠れて見ていますので」
「…………」
額に青筋を浮かべたルシールは、エルナを見て、にっこり笑った。
◇◇
怒ったルシールに襟首を掴まれ、悲鳴を上げるエルナが向かったのは厨房だった。
途中、水場に差し掛かったので、ルシールに深く頷いて晩の秘密を固く保持する事を誓って見せたエルナだったが、その行為は何故かルシールを更に怒らせた。
「……常識もなければ、繊細さの欠片もない……!」
「え、暗夜の事ですか?」
「お前の事です! エリシャ!」
勿論、エルナは黙っていない。仮にも魔王討滅を成した聖女だ。精神的なタフネスには自信がある。数日休んだ事で、エルナは立ち直っていた。
「私はエルナです! 敬意を払って聖エルナと呼びなさい!」
「今のお前は、ただのマセガキです!」
「なんですって!? 暗夜と浅ましく求め合っていたお前にだけは言われたくないのです!」
「っ、この……!」
エルナとルシールは、お互いに激しく睨み合った。
「なんです? また暴力で解決しますか!? お前と暗夜はお似合いですよ!!」
「……っ」
そこでルシールは口籠り、へにょりと眉を下げた。
「……先日の事は……すみません。少しやり過ぎました……」
「むっ……」
と、そこでエルナも口籠る。何故か分からないが、ルシールの気持ちが分かってしまったのだ。
エルナの失踪には暗夜が気を揉んだように、ルシールもまた心配したのだろう。思い返せば、あの日のエルナは無茶をした。パルマに入り、陰険な猫の娘に会った時は生きた心地がしなかった。女王蜂との出会いを経て、なんとかアクアディに帰ったのはいいが、腹を空かせて盗みを働いた。決して誉められたような行為ではない。
アクアディで袋叩きに遭い、助けに駆け付けた暗夜に自分はなんと言ったのか。
「……」
恥ずべき事だ。怒りに任せ、暗夜に一般人の殺害を命じた。
ゾイにも酷い目に遭わされたが、あの時のエルナは何も理解していなかった。だが、今のエルナは理解している。
エルナは複雑な気持ちだった。
過ちを認めた今なら分かるのだ。ルシールとゾイが、何故あんなにも怒ったのか分かってしまう。
自身は理解してないが、様々な困難に直面して、エルナは人として成長していた。
「……そ、その、ルシール。前の事は、わ、私も悪かったのです……」
「……」
その謝罪を、胡散臭そうに受け取ったルシールは、思い切り鼻を鳴らした。
「や、やりづらいのです。なんとか言って下さい……」
そこでルシールは小さく頷いた。
「……少しは空気が読めるようになったようで、何よりです……しかし……」
「しかし……?」
ルシールは叫んだ。
「働かざる者食うべからずです! お前は、いったいいつまで食っちゃ寝しているつもりですか!!」
似たような事を、アンナやクロエにも言った覚えがある。
エルナは悲鳴を上げた。