聖エルナ10
その日の沐浴中、アンナは言った。
「……輝く物の全てが、本物とは限らない……」
全てを口にはしないが、アンナが言ったのは暗夜の言葉だろう。
「あぁ……今日は、そんな事をほざいたんですか?」
あの暗夜が、一丁前に悩む事は知っている。あれほど容赦ない男の悩み事とは、エルナをして興味深いものがある。
エルナは少し考えて、それから言った。
「人は……それぞれの方法で、各々の真理に至ります。しかし……その真理は、必ずしも正しいものとは限りません。真理と真実とは違うのです。それらは、幸せを約束するものではありません」
そうだ。
だからこそ、世界は、あるがままの姿が一番正しく美しい。
死神暗夜と聖女エルナ。
コインの表と裏だ。それらは表裏一体。どちらが良いとも悪いとも言えない。そして、アンナが発した言葉。
――輝くものの全てが、本物とは限らない。
エルナの胸の内は複雑だった。
暗夜は、おそらく何らかの『真実』に至った。その真実を持て余しているというのがエルナの推測だ。
死神は、決して胸の内を語らない。瞑想により深く考え悩み、祈りによって決意する。
同じ『アスクラピアの子』の考える事だ。言葉の断片からでも、エルナには分かってしまう。
「……?」
ふとエルナが気が付くと、アンナは跪き、祈りの姿勢で視線を伏せていた。
エルナにとっては他愛ないやり取りだが、アンナには思う所が多いようだ。そんなアンナとの関係は、こうして雑談する程度には悪くない。
「……長く悩んだ所で、決断の時は一瞬間の内にやって来る。おそらく暗夜は……」
悩みながらも、迷う事を許されない決断を重ねているのだろう。死神の胸の内は複雑なのだ。いつだって、訪れる決断の時を恐れている。
「……哀れなやつです……」
そうして手探りで進む道は、罪と過ちの連続だろう。暗夜はそのようにしか生きられない。その方法しか知らないからだ。
エルナは、その生き方を不器用で憐れなものだと考える。自然のままに任せておけば、迷わずに済むだろうにと考える。だが……
全く悩む事のない、エルナの在り方は正しいのかと自問すれば、それは違うと考えるエルナもいる。
エルナは複雑だった。
「……コインの表と裏ですか……」
アンナも複雑な気持ちなのだろう。
ふと覗き見た死神の胸の内は、それだけの懊悩に満ちているのだ。
エルナは、その複雑な心境を口にする。
「……犠牲を払う時、答えは見えて来るでしょう……」
その時、真理は真実足り得るか。目に映る輝きは本物か。それは誰にも分からない。
◇◇
やがて夜がやって来て、その日のエルナは、寝付けなかった。
暗夜のせいだ。
あの嫌な男の頭をかち割って中身を確かめてみたくなる。
高位神官の言葉には力が宿る。
暗夜は何気なくぼやいたつもりなのだろうが、それが修道女たちに投げ掛けた陰は大きい。
そろりとベッドから抜け出して、そっと開いた扉の隙間から隣室を覗き見ると、暗夜は床に胡座をかき、深く瞑想しているようだった。
ふとエルナが思い出したのは、フラニーの言葉だ。
瞑想中の暗夜の意識は遠く、質問には何でも答えると言っていた。ならば……
「……暗夜。今、何を考えているのですか……?」
意を決して尋ねたエルナの問いに、暗夜は目を閉じたまま、眉間に深い皺を寄せた。
「……雑多な事だ。多くの事柄を胸に置かねばならない。一つの事に執着すれば、必ず道を見損なう。極小の中にも全体を看取らねばならない……」
「……そうですね」
エルナが思い出したのは、ムセイオンでのやり取りだ。
「……女々しい尻込みや小心な嘆きは心を自由にはしない。犠牲を恐れる者は、立ち止まって耐え忍ばねばならない……」
「然り。正しく、そうだ」
暗夜自身の言葉だ。肯定するのは当然の事でもある。
「…………」
エルナは、ごくりと唾を飲み込んだ。
なるほど、フラニーの言った通りだ。今の暗夜の精神状態は、平時とは大きくかけ離れた境地にある。
……今の暗夜は、聞けばなんだって答える。
エルナは、少し考えて言った。
「その……私の事が、嫌いですか……?」
「……己と違う個性を叩いて回るほど暇じゃない。合わないが、それを理由に嫌ったりしない……」
「……」
その暗夜の返答に、何故か安心してしまうエルナがいる。
そして、エルナにはどうしても気になる疑問がある。
「……私とエリシャ・カルバートは、出自を同じくしていますか……?」
「……」
暗夜の眉間に寄った皺が更に深くなる。一瞬ではあるが、少し考え込んだようにも見える。言った。
「……真理と過ちとは源泉を同じくする場合が多い。それ故、過ちを疎かにしてはならない。それは同時に真理を傷付ける事になるからだ。即ち……」
本当におかしな事だが、エルナは、母と問答しているような気にさせられた。非常に難解ではあるが、確実に事の本質に迫る。迫ろうと努めている。
「即ち……?」
暗夜は言った。
「性質は激流によって作られる」
己が何者であるか。それを決めるのは己自身でしかない。出自など全く関係ない。エルナの疑問に対する死神の回答はそれだった。
その答えは、母と同様に優しくもあり、厳しくもあった。
エルナは考える。
暗夜の言葉は、多くの道が開かれている事を示唆している。それらが無限の可能性を秘めているとするならば……
――当為がある。
希望に満ちた絶望と、確実に罠が仕掛けられているこの機会。母が下す試練は、いつだって命懸けだ。
「わ、私は、どうすれば……」
そこで暗夜は目を開き、上目遣いに鋭くエルナを睨み付けた。
「暗夜……暗夜……?」
「……」
『神官』は瞑想や祈りの邪魔をされる事を嫌う。はっきりとエルナを認識した暗夜の目には、苛立ちがあった。
ハッとして、エルナは関係ない事を言った。
「暗夜、少しお腹が空きました」
「……」
暗夜は少し考えるように視線を伏せ、ややあって頷いた。
「……そうか。修道女たちに頼んで、何か貰って来る……」
「え、ええ、そうして下さい」
暗夜は、これはこれで優しい男なのだという事を、今のエルナは知っていた。
「は、早く戻って来るように!」
話の続きがしたい。それがエルナの心境だった。
司祭の部屋から出て行く暗夜の背中を見送って、エルナは文机の棚を開ける。
「……相変わらず、あいつは病気なのです……」
棚には、ぎっしりと伽羅の破片が詰まっていて、エルナは呆れながらもそれを一つ口に含んで考える。仮に、当為があると仮定して、今の己が為すべき事とは何か。
エルナの懊悩の幾らかを吹き消すように、鼻腔を伽羅の香りが突き抜けて行く。
「……案外、悪くないのです……」
そして……
すぐ戻って来る筈の暗夜は、中々、戻って来なかった。業を煮やしたエルナは、暗夜の姿を求めて司祭の部屋を出た。
◇◇
居住塔の階段を、エルナはゆっくりと下る。
今のエルナは神気を感じる事が出来ない。絶対に、ルシールやゾイには会いたくない。
暗夜は何をしているのだろう。
修道女に何か貰って来ると言ったが、その相手がゾイなら、また姦淫の罪に及んでいる可能性がある。
そんな事を考えながら、長い身廊を進むエルナは、ふと礼拝堂に人の気配を感じ、そっと両開きの扉を押して見てしまう。
「なっ……!」
暗夜が、強引にルシールの顔を隠す黒いベールを毟り取った。
ルシールは小さく悲鳴を上げて逃げようとするが、暗夜はその手を掴んで逃さない。二人は何事か言い合っているように見えたが、少し距離のあるエルナには、その会話の内容は聞こえない。
身を切るような寒さだが、二人のその光景に、エルナは耳まで熱くなった。
不埒な暗夜が、ルシールの腰を引き寄せて、口付けた。
天窓から青白い月明かりが差して来て、抱き合う二人の姿がエルナの目に焼き付く。
「なっ、なっ……」
あれだけ恐ろしかったルシールが、とろりと目尻を下げ、暗夜に好きなようにされている。
男女の睦み合いは知っているが、エルナが実際に見るのは初めてだった。
ルシールが抵抗する様子を見せたのは一瞬だけだ。腰が抜けてしまったのだ。
暗夜のそれは、正に蹂躙だった。
柱に無抵抗のルシールを押し付けて逃さず、膝で足を割って更に深く激しい口付けを交わす。
「にょ、にょっ……」
変な声が出た。
覗き見はよくないが、あまりにも衝撃的なその光景から、目を離せないエルナが居た。