聖エルナ9
女王蜂は、思いの外、話せそうだった。その右腕である陰険な猫の娘も、なんだかんだと愚痴を垂れ流したが、かなり手加減されていた。
ルシールやゾイに比べれば、女王蜂と陰険な猫の娘は、随分と優しかったのだ。
やがて夜になり、寒さに耐え切れなくなったエルナが向かった先は司祭の部屋……暗夜の居室だった。
娘たちは、勝手に出て行って、暗夜に連れ戻されたエルナに愛想を尽かしたのか、誰も話しかけようとしない。逆印の影響も大きい。母を信仰する娘たちが、エルナに情けを掛けないのは、ある意味当然だった。
母は慈悲深くも残酷だ。
優しさと厳しさと。その二つが母の拠って立つ所であり、神性だ。
エルナは好きで暗夜の部屋に向かったのではなく、そこにしか行く場所がなかった。
本人に記憶はない。だが、暗夜が使徒として持つ神性は母に似ている。恐ろしく厳しいが、その反面で慈悲深く甘い。
灯り一つない司祭の居室で、暗夜は床に胡座を組んで瞑想していた。その横を素通りしたエルナの事など気にも留めない。
寝室に入ると暖炉には火が入っていて、暖かかった。
「……」
拭っても拭っても溢れる涙を拭いながら、エルナはまた複雑な気持ちになる。
使徒である暗夜は、睡眠も食事も必要としない。暖炉に火が入っていたという事は、エルナが来る可能性を考えての事だろう。
逆印の咎を与えた暗夜の傍が、今のエルナにとって一番安全な場所である事は、本当に皮肉な事だ。
その日以降、エルナは寝室に引き籠もるようになった。
◇◇
暗夜は優しい。
寝室に引き籠もるエルナが数日を経て分かった事がそれだ。
朝、起きると黙っていても食事が準備されているし、寝室から出て来ないエルナに文句の一つも言わない。
思い切って、修道女たちを部屋に入れないよう頼んでみた所、それも受け入れた。
人間の生活は苦しい。
何もしなくても不具合は発生する。
「……よ、暗夜、その、あ、あれです……!」
「ああ……」
暗夜は察したのか、黙って厠までエルナを送ってくれた。
「お、終わるまで、近くに居て下さい」
「ああ…………」
厠からエルナが出て来ると、暗夜は疲れたように顔を拭った。
「なぁ……その、音が聞こえてたぞ……」
「な、なんですか? せ、生理現象です。駄目なんですか?」
「駄目じゃない。駄目じゃないが……」
「もっ、ものは、は、はっきりと言いなさい」
生前、聖女として国から手厚い支援を受けていたエルナには常識に欠けた所がある。
「……」
暗夜は黙って顔を拭った。
◇◇
「暗夜、身体がベトつくのです。沐浴の準備をして下さい」
「……」
暗夜は黙って頷いた。
簡単な雑貨は権能で出し入れ出来る。暗夜が指を鳴らすと、大きな『たらい』が出現して、そこには既に湯が張られている。
「ちょっと、何処に行くんですか。服を脱ぐのを手伝って下さい」
部屋を出て行こうとして足を止めた暗夜は、怪訝な表情で振り返った。
「な、なんです、その顔は。その……い、嫌なんですか……?」
「どちらかと言えばな……」
「ひょ、ひょっとして、この私に一人で沐浴せよと……?」
ザールランドでは修道女たちが。魔王討滅の旅ではギュスターブが世話をしてくれた。
人として、エルナは無能だった。
暗夜は軽く唇を舐め、まじまじとエルナを見た。
「……フラニーから聞いてはいたが……」
「フ、フラニーがなんですか? そ、そうです。フラニーを呼んで下さい。気は進みませんが、ジナかアイヴィでも構いません。お前に迷惑は掛けませんので……」
エルナとしては遠慮がちに言ったつもりだが、暗夜は頭を抱えた。
「俺の迷惑にならなくても、フラニーたちにも迷惑だ」
エルナは鼻を鳴らした。
「そうですね。あの三人は根性が曲がっています。特にアイヴィは……」
その後を言い掛けて、エルナはやめた。アイヴィは女だ。細身の猫人の特徴と幼い年齢もあり、暗夜は全く気が付いていない。きっと面白い事になるだろう。
「アイヴィが、なんだ?」
「いいえ、早く服を脱がせて下さい」
「……」
暗夜は何も言わず、一つ溜め息を吐き、伽羅の破片を口の中に放り込むと、部屋を出て行ってしまった。
仕方なく一人で沐浴を始めたエルナだったが、ややあって、そこにアンナがやって来た。
エルナは目を剥いた。
アンナには適当な所がある。エルナに強い不満を見せた娘たちの中では、ゾイの次に強い不満を見せたのがこのアンナだった。
アンナは少し呆れたようにエルナを見て、それから言った。
「神父さまより仰せつかりました。お手伝い致します」
「あ、え、は、はい……」
ザールランドの日中は灼けるように暑い。その為、最低でも一日一度の沐浴は欠かせない。
暗夜は、日中、ふらふらと歩き回り、大抵は教会にある図書室に落ち着くと、そこから殆ど出て来ない。
アンナは世話好きで、エルナが頼んだ訳でもないのに、あれやこれと世話を焼く。そしてよく喋った。
「神父さまから、沐浴のお世話を頼まれたと聞きましたが、本当ですか?」
「え、ええ、そうですが……い、いけませんでしたか……?」
アンナは、きっぱりと言った。
「いけません。あなたは女なんですよ! そこのところを分かっていますか? 神父さまとはいえ、異性に肌を見せるなんて、とんでもない!」
「え、そ、そうなんですか? でもギュスターは――」
「黙りなさい!」
アンナは、ぴしゃりと言って、その声量にエルナは震え上がった。
「あと、厠に神父さまを付き合わせるのもなしです!」
「そ、そんな……では、私にどうせよと……」
怯えたエルナを見て、そこでアンナは困ったように声量を下げた。
「……神父さまから、常識が欠落していると聞いてはいましたが、まさかこれ程とは……」
「じょ、常識ぐらい、知っているのです」
懲りずに口答えするエルナに呆れつつも、その日の沐浴はアンナが手伝ってくれた。
殆どの修道女たちと没交渉のエルナだったが、世話好きでお喋りのアンナとはそれなりに接点があった。
アンナは、エルナが聞きもしない事をよく喋った。
「……神父さまは、殆どお話をされません……」
最初は口が固かったエルナだが、沐浴の際に毎回現れるアンナに対しては、日を追うに連れて慣れて来た。
アンナは、いいかげんな所もあるが、それは裏を返してしまえば大らかな性格をしているとも言える。それがエルナの口を開かせた。
「……あんなヤツでも、高位神官ですからね。何気なく言った事が惨事の原因になる事があります。口を慎むのは当然ですよ……」
アンナは、困ったように首を振った。
「エルナ。あなたは、何故、神父さまを悪しざまに言うのです。あなたの立場を悪くするだけですよ」
「……もう、これ以上に悪くなりませんよ……」
疲れたように言うエルナの背中を流しながら、アンナは、やはり大きな溜め息を吐く。
「……神父さまは、善と悪とは神の両手だと仰いました……」
アンナもまた、話題の殆どが暗夜の事ばかりだ。
エルナは内心で鼻を鳴らした。
そんなエルナの様子を気にした風でもなく、アンナは続ける。
「……コインの表と裏。今朝はそう仰いました。どういう意味か分かりますか……?」
「……」
そこでエルナは考える。
おそらく、暗夜の言葉は独言の類いだろう。修道女たちに向けてのものではない。
「話の前後からして……善と悪とは表裏一体。どちらが良いとも悪いとも言えない。或いは分からない。悩んでいるみたいですね」
途端に、アンナは眉を下げた。
「……そんな意味があったんですね……」
聖女であったエルナにとっては謎解きにもならない事だが、アンナは深く考え込む様子だった。
アンナは大らかで、世話好きな側面がある。そして話好きだ。その性質を見越して、誰ともコミュニケーションを取ろうとしないエルナの為に暗夜が選んだ。
「……聖エルナ。あなたは……」
「なんです? おかしな事を言いましたか?」
「いえ……」
アスクラピアの指先が運命を回している。
修道女の中で、アンナだけが、エルナの中にある神性に気付いてしまった。これが後にアンナの運命を決定付ける事になった。