聖エルナ8
エルナの気持ちは複雑だった。
帝国に絶えぬ悪意を突き付ける女王蜂は、どんな悪党なのだろうと思っていたが、実際に会って見るとそれほどの悪党とは思えなかった。
陰険な猫の娘の狼藉にも、酷い事をしたと頭を下げてくれた。
エルナには全て意外だった。
『溜め息橋』の近くまで送ってくれたエヴァは、相変わらず態度が悪かったが、女王蜂の印象は悪くない。なんとなくだが、あの暗夜が情けを掛けた理由が分かる。
ふと思った。
別れの時はエルナも見ていた。女王蜂は、いったいどんな気持ちで暗夜を見送ったのだろう。
エルナには分からない。
今の女王蜂は疲れていたように見えた。きっと、世界を憎しみだけで生きて行くのは難しいのだ。
そんな女王蜂が死神と再び出会うとき、世界はどうなるのだろう。
「あたしらが送ってやれるのは、ここまでだ。もう気安く来るんじゃないよ」
陰険な猫の娘に見送られ、エルナはまた『溜め息橋』を渡ってアクアディの街に帰った。
「……」
なんとなくだが……女王蜂に、暗夜を会わせてやりたいと、エルナは思った。
◇◇
ザールランドの灼けつく陽が沈もうとしている。
今夜、眠る場所がない。
今のエルナは純血種の人間だ。ザールランドの凍てつく夜には耐えられない。
やがて肌寒くなり、お腹が、きゅうと情けない音を立てて、エルナは泣きたい気持ちになった。
もう一度、溜め息橋を渡り、女王蜂に今夜の宿と食事の提供を申し出てみようかという情けない考えが頭に浮かんで消える。
エルナが教会に戻れば、あの憎たらしい暗夜はどんな顔をするだろう。
分からない。
だが何故か……嘲笑う事はないと思うエルナがいる。
「……」
やがて完全に沈み行く太陽を見送って、エルナは途方に暮れた。そして、いよいよ空腹も堪え難いものになった。
エルナは『雨の部屋』を恋しく思った。あそこなら、なんだかんだとフラニーたちが世話を焼いてくれた。
口煩く手伝えと言われたが、食事は準備してくれたし、入浴や排泄にも不自由しなかった。
今のエルナには何もない。
寝床もなければ食事もなく、入浴はおろか、何処で排泄していいかも分からない。
それが人間だった。
三百年の時は、エルナに人間の苦しみと生を忘れさせていた。
考えるのは、暗夜の事だ。
未熟な力を振り絞り、何度も倒れ、命を削って寝床と食事を確保した暗夜の気持ちが痛いほど理解できる。
人間の生活には、それが必要なのだ。常に戦っている。己の足で立ち、戦い続ける事が生きるという事だ。
だとすれば、エルナも戦わなければならない。人間として苛烈な生を駆け抜けた暗夜のように。
気が付くと、エルナはアクアディの街にある露店が並ぶ通りに立っていた。
「……」
美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。
そろそろ寒さが強くなって来て、ちらほら店じまいを始める露店もある。
エルナは、かつて魔王より世界を救った聖女だ。
だから、これぐらいは許される。投げ売りにされている安そうなパンの一つぐらい盗んでも見逃されると思った。寒い。お腹が空いた。問題は何も解決していない。
幸い、店じまいを始めた店主の男はエルナを見ていない。
盗むんじゃない。今は少し借りるだけだ。後で必ず返す。エルナはそう言い訳して、そっと手を伸ばした。
ほんの数時間で、すっかり煤けた恰好になったエルナの手がパンに触れたとき。
「――泥棒だ!!」
男の怒号が上がって、エルナは驚いて飛び上がりそうになった。
叫んだのは店主でなく、下働きの男だった。どうやら、何人か下働きの連中が居て、その内の一人がエルナの行動を見咎めたようだった。
少し借りるだけだ。自分は聖女で、かつて世界を救ったのだ。だからパン一つぐらいは許される。色々な言い訳を口にしたが、エルナは許されなかった。
手に手に棒を持った男たちが現れて、エルナは袋叩きに遭った。
決して赦されない事だ。こんな事があってはならない。そんな減らず口を叩いたエルナだったが、容赦なく叩きのめされた。
髪を引っ張られ、棒で打たれ、踞った所を蹴り飛ばされた。
その痛みに悲鳴を上げても、男たちの責め苦は終わらない。この世界での典型的な孤児の顛末だった。
必死で男たちに抵抗するエルナだったが、まるでお話にならない。
エルナは屈辱と痛みに涙を流した。そんな事は初めてだった。
それでも男たちの責め苦は終わらない。
殺される……!
その恐怖が脳裏を過った時――
「全員、動くなッ!!」
『雷鳴』が響き渡った。
エルナを打つ男たちはおろか、無関心に行き交う者全てが動きを止め、エルナは涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「エルナ、無事か!」
慌てて駆け寄って来たのは、憎たらしい暗夜だ。
この屈辱とこの痛み。かつてその身を代価に世界を救った聖エルナの行く末がこれだ。そして、暗夜の顔を見て安心してしまった自分が一番腹立たしい。
エルナは、己を叩きのめした男たちを指して叫んだ。
「暗夜、この男たちを殺しなさい! 今すぐ! 貴方の得意技でしょう!!」
そうだ。暗夜は人殺しだ。ムセイオンでは容赦なく大勢の人間を殺した。それでも平然として、己の正義を語るようなやつだ。
だが……
「……」
暗夜はやり切れないという表情で首を振った。悲しそうに、何度も何度も首を振った。
「エルナ、何をした」
咄嗟に思い出したのは、女王蜂の言葉だ。
――あんたと死神の縁は切れてない。それを大事にするといい。
「別に、ちょっとお腹が空いたから……」
だが、暗夜はそんなエルナの嘘はお見通しだと言わんばかりに短く溜め息を吐く。言った。
「……盗んだのか……」
「ぬ、盗んだんじゃありません! ただ、ちょっと……ちょっと……」
言い訳するエルナの言葉は、徐々に力を失くして行き、遂には項垂れて黙り込む。
……惨めだった。
その姿に、暗夜は小さく舌打ちして、ぼろぼろになったエルナを抱き上げた。
暗夜は神官だ。性質上、お喋りは好まない。それがエルナに残された最後のプライドを救った。
第三使徒、聖エルナが腹を空かせてパンを盗んだ等とは口が裂けても言えない。
この日、死神に慈悲を掛けられた聖女エルナは終わった。
◇◇
教会に帰ったエルナを待っていたのは、温かい食事だった。
暗夜は、ルシールら修道女にエルナを押し付け、司祭の部屋に帰ってしまった。
エルナは、この惨めさに涙が止まらなかった。
修道女の勧めに従い、食事を摂った後は湯を張った桶が準備され、沐浴を済ませ、新しく準備された貫頭衣に着替える。
そして――
思い切り、ルシールに頬を張り飛ばされたエルナは吹き飛び、床に転がった。
ルシールは冷たく言った。
「情けない」
「……っ!」
痛みと怒りと屈辱に、上目遣いに睨み付けて反発するエルナの襟首を捕まえ、ルシールは再びエルナの頬を張り飛ばした。
聖エルナ教会の修道女……エルナにとっては『娘』と呼べる存在の者たちは、誰一人ルシールの行動を止めない。
思い切り頬を張り飛ばされ、床に転がった所を更に襟首を捻り上げられて立ち上がった所で再び平手打ちを喰らう。
エルナは負けじと睨み付けて反発するが、ルシールの平手打ちは止まらない。
都合、七度目の張り手を受けた所で、エルナの心は折れた。
「……ご、ごめんなさい……ゆ、ゆるしてください……」
打たれた頬を押さえ、踞って涙ぐむエルナの前で、ルシールは、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……謝る事すら満足にできないとは……」
それだけ言って、踵を返すルシールに続いて他の娘たちもその場を去った。
最後に残ったのはゾイだ。
エルナに一番反抗的だった娘。悪魔祓いの修道女。
ゾイはその場にしゃがみ込み、下から覗き込むようにしてエルナの顔を見上げた。
「……一番、心配してたの、暗夜だよって言ったら、どうする……?」
「え……?」
「あなたが戻ったら、受け入れてやってくれって言ったんだ。すごく辛そうだったよ」
「……」
「分からないよね。分からないから、謝れない。だから先生に打たれたんだよ」
ゾイの言う通りだ。
エルナには何も分からない。そもそも、エルナに逆印を刻んだのは暗夜だ。たとえ逆印の使用を認めたのが母であったとしても、その暗夜の行動は酷い欺瞞にしか思えない。
ルシールに打たれた頬がずきずきと痛み、エルナは、ぽろぽろと涙を流しながら言った。
「……それは偽善です。お前たちは、暗夜に騙されてます……」
その言葉を聞いて、ゾイは嬉しそうに笑った。
「そう言うと思った。変わらなくて安心したよ」
ゾイはスラム街の出身だ。誰よりも孤児の事を知っている。その日暮らしの苦労を知っている。痛みと惨めさを知っている。
ゾイは、平淡な顔で言った。
「私、先生ほど優しくないんだ」
「え……? な、何を……」
困惑するエルナの襟首を掴まえてその場に立たせると、ゾイは冷たく嘲笑った。
「さあ、次は私の番だよ……」
その日、エルナの自尊心は完膚なきまでに砕け散った。