聖エルナ7
所々、ぴんぴんと跳ねた癖っ毛に釣り上がった瞳。すらりとした体格。典型的な猫人は誰もよく似ている。陰険な猫の娘……エヴァとアイヴィはそっくりだ。
「……」
不意にエルナは考える。
あの暗夜が、類稀な戦士が集うムセイオンで未熟なアイヴィを選んで傍に置いたのは、このエヴァの記憶がうっすらと残っていたためではないか。
エヴァは目を細め、頭の天辺から爪先まで見つめ、無遠慮にエルナを値踏みする。
「ふぅん……聖エルナ教会の……修道女じゃない……けど、無関係でもないという所か……」
「あ……」
そこで、エルナは自分がとんでもないヘマをやらかした事に気付いた。
エヴァは口元に不吉な笑みを浮かべ、『腕組み』の格好になった。
「銀の髪に……紫の瞳……あんたは、どっかの誰かを彷彿とさせるねえ……」
「あ……う……」
エヴァが口にしているのは、暗夜が壊滅させた前寺院の聖女であるエリシャの事だ。間を置かず悟ったエルナは、背筋が粟立つような感覚に襲われた。
このパルマでなら、今の自分にも居場所があると思ったが、それは違う。
エルナは漸く気付いた。
このパルマは、暗夜と女王蜂が作ったのだ。そんな場所に聖女の居場所がある筈などない。
「……っ!」
気が付くと、エルナはエヴァの取り巻きに囲まれていた。皆、種族はそれぞれ違うが若く屈強な獣人たちだ。
エヴァは腕組みの格好で警戒の視線を緩めないまま言った。
「……名乗りな」
エルナはごくりと息を飲む。そして『聖女』の戒律のまま、正直に答える。
「え、エル、ナ、です……」
自分でも馬鹿な事をしていると理解している。だが、エルナは三百年聖女として生きてきたのだ。ムセイオンでは暗夜に嘘を吐いたが、結果どうなったか。その教訓がエルナに嘘を吐く事をさせなかった。
エヴァは怪訝そうに眉をひそめた。
「エルナだって?」
「……」
エルナは口を噤んだ。嘘が吐けないなら黙るよりない。
一拍の沈黙があり――
エヴァとその取り巻きたちは大笑いした。
「あはは! 本当かい! エルナか! あんた面白い冗談言うね!」
冗談ではない。だが、今は成り行きに任せた方が良さそうだ。その思惑からエルナは黙り込む。
次の瞬間、エルナは取り巻き連中の一人に背中を強く蹴飛ばされ、つんのめるようにして前に出て、エヴァの胸にぶつかった。
エヴァは不吉な笑みを口元に貼り付けたまま、エルナの髪を掴んで強引に持ち上げた。
低く……憎悪の籠もった声で言った。
「ようこそ、パルマへ……!」
◇◇
割れた人混みの中を、髪を引っ掴まれた恰好で行く。めしめしと髪が千切れる嫌な音がして、エルナは小さく悲鳴を上げたがエヴァはお構いなしに嘲笑う。
エヴァは低い声で呟いた。
「……聖エルナ教会の修道女には貸しがある。あんたは知らないだろうけど、家族の一人が、あいつらの不始末で死んだ。本当にヤなヤツだったけど……」
陰険な猫の娘、エヴァ。
暗夜とは最後まで打ち解けなかった。女王蜂が率いる仲間の中で、エヴァだけは暗夜を嫌っていた筈だ。そのエヴァなら大丈夫だと考えたエルナの期待は、あっさりと打ち砕かれた。
「……あいつは、間違いなく家族だった……あたしが思ってた以上に、ずっと……」
エルナは叫んだ。
「よ、暗夜を殺したのは、教会騎士の残党です! 私じゃない!」
「あ……?」
その瞬間、エヴァの瞳孔が開き、黒目の部分が丸くなる、興奮して獲物を狙う猫人の目だ。
「……お前、何で『暗夜』を知ってるんだ……?」
「……そ、それは……」
またヘマをやらかしたと思うエルナだったが、もう遅い。
「お前、何者だ! あいつとどんな関係だ!!」
エヴァは激昂して、目茶苦茶にエルナの髪を引っ張り回した。
エヴァは典型的な猫人だ。陰険で陰湿で排他的。仲間以外は信じない。エルナの言動は、そのエヴァの逆鱗に触れた。
「来い!」
殴られ、蹴られ、時に小突かれながらエルナはパルマの街を行く。
「ち、違います! 私は無関係ですっ!」
「やかましい!」
半ば私刑に近い目に遭いながらエルナが辿り着いた先は、女王蜂の塒だ。
急発展するパルマにあって、一際目を引く豪邸。その昔、ベックマンというスラムヤクザの根城であった邸。
多種多様な人種の人間たちが出入りしている女王蜂の巣に、エルナは放り込まれた。
「ビー! ビーは居るかい!?」
邸の中には大勢の獣人たちが居て、エヴァの剣幕に何事かと詰め寄って来る。
「どしたんですかい、エヴァ姐さん」
声を掛けて来たのは、一回り大きな体格を持つ獣人だ。女王蜂を守る働き蜂の一人だ。
「やかましい! あたしは、ビーは何処だって聞いたんだ!!」
右腕であるエヴァをして、女王蜂に会う事は簡単な事ではないようだ。そこでエヴァは、護衛の働き蜂共と押し問答になった。
「だから、エヴァ姐さん。落ち着いて下さいよ。そんな剣幕じゃあ、この先に行かせる訳にはいきません」
腕に覚えがあるのだろう。体格の大きな獣人の男は、腕組みの恰好でエヴァの前に立ち塞がる。
「……今のあんたは的屋で、俺たちは博徒だ。縄張りもシノギも違う。これは『おくのひと』とアビ姐さんが決めた事だ。敬意は払うけど、ここからは違う。それが分からねえエヴァ姐さんじゃねえだろう?」
「あんだってえ!?」
エルナには分からないが、ヤクザの世界にも色々あるようだ。
「今は、そんな細かい事はどうだっていいんだよ!!」
エヴァは益々激昂し、一触即発の気配になったが、男は慣れた感じで動かない。
荒事に慣れているのは、この男だけじゃない。皆、慌てた様子もなく、剣呑な目付きで成り行きを見守っている。
忠実な働き蜂。
エルナの印象はそれだ。幼い頃から、しっかり仕込まれている。
そして――
「ぎゃあぎゃあ煩いと思ったら、エヴァかい。これまた、どエラい剣幕でどうした?」
二階へ続く階段から顔を出したのは……濃い赤毛の女だ。琥珀の瞳と夜の瞳を持つ狐人。パルマの支配者。
――女王蜂。
いずれ会う事になるだろうとは思っていたが、早すぎる。今のエルナの手に負える相手じゃない。
過ちの上に、更に過ちを重ねたエルナが辿り着いたのは、帝国が抱える最大の不良債権。『最悪』の復讐者、アビゲイルの塒だった。
◇◇
豪華な装飾の施された一室で、女王蜂は伽羅水の入ったコップを手で弄びながら、ソファに深く腰掛けている。
「ふぅん……聖エルナ教会の……」
考え込むように呟く女王蜂の向かいに座ったエヴァは、苛立ちが収まらないようで、癖っ毛を掻き回した。
「このガキ、確かに『暗夜』って言ったんだ!」
女王蜂は遠い目をして微笑んだ。
「あぁ、懐かしいねえ……久し振りだぁ……」
そして、女王蜂は憂鬱そうに深い溜め息を吐き出す。
「……せめて、まだ生きてりゃねえ……はぁ……」
エルナは目まぐるしく考える。
ここから先は、一つの失言が命取りになる。
そんな事を考えるエルナにはお構いなく、女王蜂は疲れたように言った。
「まぁ、そのガキが、暗夜の事を知ってるってのは分かった。んじゃ、ちょっと見てみようかね……」
そう言って、女王蜂は、ぽんと左目を手で覆い隠したかと思うと、残った片方の右の『夜の目』でエルナを見た。視た。観た。
反射的にエルナが思ったのは、あの憎たらしい暗夜の目だ。
あの暗夜が、六年前の死に際、女王蜂に加護を与えた事は知っている。だがその内容までは分からない。
「あ……」
エルナは短く呻いた。
女王蜂の右目は『夜の目』だ。暗い夜を見通す死神の目。それがエルナを値踏みしている。
「……」
長い沈黙があった。
女王蜂は夜の目で、瞬き一つせずエルナを見つめている。言った。
「あたしは目がいいんだ。こいつは特別でね。惚れた男がくれたんだ。泣かせるだろ?」
「……は、はい。そ、そうですね……」
人間に謙るのは屈辱だが、エルナは恐怖に息を飲む。死神と目を合わせて息を飲む。
女王蜂は首を傾げた。
「おかしな子だねえ、あんた。なんだって、こんな所に来ちまったんだい?」
「え……?」
「あんたの運命は、ここにはないねえ。あたしにも見えない。しかしまぁ、変わってるねえ……」
『死神』暗夜が女王蜂に与えた加護はなんだ? 死神の目は、エルナに何を見た?
女王蜂は、やはり憂鬱そうに溜め息を吐き出して、疲れたようにソファに寝そべった。
「真面目に見ると、疲れっちまうんだ」
「……」
女王蜂は言った。
「あんたと死神の縁は切れてない。それを大事にするといい」
「す、すみません。よく分かりません……」
「んん……あたしにも、よく分かんないねえ。でも……ここに居られちゃ困る。死神が迎えに来るからね。そしたら、すごく厄介なんだ。パルマは、あんたを受け入れないけど、あんたの敵にもならない。これで手打ちにしてくれると嬉しいねえ……」
エルナは困惑した。
よく分からないが、女王蜂はエルナを見下す訳でなく、五分の立場で交渉を持ち掛けている。
「…………」
また長い沈黙があった。
エヴァは訝しむように見つめているが、女王蜂は気にした風でもなく、深く考え込む様子だった。