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アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
275/310

聖エルナ6

 聖務の許可を出している憲兵団の詰所に向かう道すがら、暗夜は上機嫌だった。


「実り多いものだけが真実だ」


 修道女シスタたちに強く慕われ、使徒として嬉しくない筈がない。

 第十七使徒、暗夜は『神官』だ。

 聖務を行う事は『奉仕』の徳の一つでもある。


「仕事の圧迫は、心と身体を自由にする。じっとしていたって楽になったりはしない。役に立たない生活は早い死だ」


 有り難い『お説教』を、エルナは内心、鼻で嘲笑った。だが、暗夜が話す度に行き交う人々は足を止め、その言葉に耳を凝らす。


 エルナにとっては死神の言葉だが、『人間』にとっては天使の言葉だ。気を惹かない筈がない。


 そもそも、『神官』だの『聖者』だのというものは説教好きだ。エルナには賢しらな屁理屈を捏ねるだけのそれを有難がる者は少なくない。


 本人は無意識に垂れ流している言葉だが、人々は群れを為すようにして暗夜の言葉に耳をそばだて、その後に続く。


 使徒としての神性が人に与える影響は大きい。暗夜は意識せずとも、その言葉は人を惹き付け、人々はそれぞれ己の資質によって考える。そして、己の真理に近付く。

 お前ごときが生意気な……

 それがエルナの心境だ。


「……偉そうに。お前ごときが、分かったような顔をして説教ですか……」


「……」


 自ら省みる所があるのだろう。黙り込んでしまった暗夜の様子に、鼻を鳴らして嘲笑ったエルナだったが、少しして思い切りすっ転んだ。


 ルシールに足を引っ掛けられたのだ。


「……そういうお前は、私たちに偉そうにするだけで、言葉一つくれなかったではありませんか。涙一つ流す事もせず、今の状況を改善する為に行動する事もしない……」


 かっとして顔を上げたエルナだったが、そこでルシールの冷たい視線に会って息を飲む。


「……私やポリーの事を見捨てたお前が、暗夜のする事に文句を言うのですか……?」


「……」


 それには言葉もない。だが認めるのは癪に障る。地べたに手を着き、強く睨み返すエルナに、ルシールは冷たく吐き捨てた。


「そんなお前は、埋葬されるといい」


 それは、かつて世界を救った聖女エルナに言っていい言葉ではない。

 ルシールは言った。


「エリシャ、お前は黙って付いて来なさい。次に無駄口を叩くと承知しませんよ」


「エリ、シャ? 私が……エリシャ……?」


 エルナは呆然とした。


 造られた聖女『エリシャ・カルバート』。暗夜との戦いを経て逆印を刻まれた。


 その容姿は知っている。銀色の髪。そしてバイオレットの瞳に浮かぶ聖痕。思い返せば、あれ(・・)は、髪型が違うだけでエルナにそっくりだった……


 天と地が引っくり返ったような気がして、エルナは、はっと息を飲む。


 エリシャと暗夜とは、徹頭徹尾、合わなかった。性格も行動も真逆だった。


 力の限り運命に抗った暗夜に対し、エリシャは運命を信じ、全てを成り行きに任せた。


 思い返すほど、エリシャの思考も行動もエルナのものに似ている。殆ど……いや、全く同じであると言ってもいい。この類似性が示すものは何か。


「…………」


 それは、あってはならない事だ。

 エルナは、その可能性を否定する。あの忌むべき造り物と、己が出自を同じくするとは認めない。


 だが……ルシールの言葉を否定できないエルナがいる。


「……」


 エルナはその場に立ち尽くし、アクアディの街を行く暗夜の背中を見送った。


 ……第三使徒エルナは造り物だ……


 認めたくはない。だが、漠然とした確信のようなものがあった。だとすれば、今の状況は母が定めし運命なのだ。


 立ち尽くすエルナを一瞥したルシールの顔には、恨みも憎しみもなかった。無関心。それが、いっそうエルナの胸を抉った。

 もう、一緒には居られない。

 居たたまれなくなって、エルナはアクアディの街を駆け出した。


◇◇


 一人、とぼとぼとアクアディの街を歩くエルナは、これからの事を考えた。


 大丈夫。逆印さえ見られなければ生きて行ける。あの暗夜に出来た事が自分に出来ない筈がない。エルナは根拠もなくそう考えた。


 貧民街スラムに住んでいた子供たちの生活は知っている。


 盗みを働き、物乞いの真似をし、大人の暴力に怯えながらゴミ箱を漁って糊口をしのぐ。そして徒党を組み、下水道をねぐらにするのだ。

 ……嫌だ!

 『下水道』は人間が住む場所じゃない。暗夜もすぐ引き払った。だとすれば、エルナに残された道は『溜め息橋』を渡り、パルマに入る事だけだ。


 ――女王蜂。


 アビゲイルなら、今のエルナを受け入れる。あの狐人の女はケチ臭くて利己的だが、行き場のない孤児には寛容だ。仕事をしなければならないが、食事と寝床にはあり付ける。


 やがて焦げ臭い民家が目に入る。

 六年前、女王蜂が報復として焼き払ったアクアディの街並だ。


「……」


 女王蜂の悪意は未だに健在で、帝国の要人の殺害には懸賞金が掛けられている。


 『溜め息橋』を渡った先にあるパルマの街は驚くほど繁栄している。そこにはもう、貧民街スラムの面影はない。人口はうなぎ登り。かつて子供だった者は成人し、今は立派な働き蜂になって女王蜂に尽くしている。


 道々に並ぶ露店は無論、大店に至るまで全て女王蜂の息が掛かっている。パルマでは女王蜂の許可なく生きて行けない。


 ふとエルナは考える。

 将来的に、パルマは……いや、女王蜂はどうするのだ? 六年前、暗夜が帝国と交渉した際に使った契約の呪詛は既に効果を失くしている。

 それは、いずれ帝国が知る所になる。そうなれば恐ろしい報復が始まる。今のパルマの繁栄は、女王蜂の酷いはったりの上に成り立っていると言っていい。

 だが……死神暗夜は、その状況を放置するような馬鹿じゃない。女王蜂に何かしら吹き込んだ筈だ。未来に繋がる一手を託した筈だ。それはきっと――


 笑えない冗談だ。


「……!」


 エルナは唇を噛み締めた。

 今がどん底だ。これより底はないと考えたエルナは意を決して『溜め息橋』を渡り『パルマ』に入った。


 その瞬間は、空気が変わったような気がした。


 橋一つ渡っただけだ。だが、アクアディとは何もかもが違う。


 開けた通りには無数の露店が並び、見渡す限りの人の群れが行き交い、誰もが目をギラつかせて機会チャンスを伺っている。


 欲望の街『パルマ』。

 そこには人の欲望が溢れている。所々に掲げられた看板にはこうあった。


 ――『ゴミはゴミ箱へ』――


 エルナは首を傾げる。それが死神ヨルの哲学とは思わない。

 子供も大人も関係なく、汗を流して働いている。ここでは皆に機会チャンスがある。

 女王蜂は侠客ヤクザだが、このパルマを三つの法で支配している。

 『盗むな』、『殺すな』、『犯すな』、というのがそれだ。そこかしこにいる働き蜂には、それが幼い頃から徹底的に仕込まれていて、原則的には皆真面目だ。喧嘩は日常茶飯事だが、度を超えると忽ち働き蜂が飛んてくる。このパルマは帝国の支配から切り離されている為、憲兵は存在しないが、皮肉な事に治安は帝国の支配下にある街よりずっといい。


 死神が提案し、それを女王蜂が形にした。


 金と暴力と人が唸る欲望の街パルマ。ここに貴賤は存在しない。破滅する者も多いが、再起する者も多い。薄汚れた襤褸を纏う最底辺の労働者ですら目をギラつかせて機会チャンスを伺っている。


 パルマに入ったエルナは、まず『貧乏通り』を目指して歩いた。


 女王蜂アビゲイルの右腕である陰険な猫の娘『エヴァ』が支配する貧乏長屋だ。パルマに入った孤児は、皆、そこを目指す。


 そして、貧乏通りに入ったエルナは困惑する事になる。


 貧乏長屋が立ち並ぶ貧乏通りでは、エヴァの庇護下にある子供たちが大人たちに混じって忙しなく働いているが、その全員が足を止め、エルナに険しい視線を向ける。正確には、エルナの纏っている『聖衣』に視線を向けている。


 エルナの纏う衣服は修道女シスタの物と違う形状をしている。


 白いワンピースの上に簡素なトーガを纏っていて、そのトーガには『杖に巻き付いた蛇』が刺繍されている。時の流れに風化され、誰も知らないが、三百年前の『聖女』の衣服だ。

 誰かが言った。


「……教会の関係者?」


 女王蜂は三つの法でパルマを支配しているが、暗黙の法が一つある。


 向こう百年間、聖エルナ教会の修道女シスタの出入りを禁じるというのがそれだ。


 エルナは修道女シスタではない。だから関係ないと思っていた。


 エルナは知らなかった。

 聖エルナ教会の関係者は、女王蜂の定めた三つの法の適用外だという事を知らなかった。

 エルナは困惑した。


「な、なに、なんですか?」


 皆、足を止めてエルナに冷え切った視線を送る。エルナがただの孤児なら、こうはならなかっただろう。

 女の声が響き渡った。



「どけ、皆どきな! あたしの客だ!」



 その声に人の群れが割れる。

 喧騒を忘れた恐ろしい程の静寂が流れ、困惑するエルナの前に、何人もの取り巻きを引き連れた陰険な猫の娘が立ち塞がった。

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― 新着の感想 ―
[一言] こっちでも出会いがあったのか
[一言] ドタバタとクソガキの襲撃で結局寄ることはなかったけど次の章では焦点が当たるのかな
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