表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
274/309

聖エルナ5

 天使召喚の術式によって暗夜が跳んだ場所は、よりによって聖エルナ教会だった。

 暗夜は上機嫌で言った。


「第十七使徒『暗夜』。お前たちの祈りに応じて参上した。願いを言うといい」


 エルナは激しく動揺した。

 ルシール、ポリー、アニエス、アンナ、クロエ、ゾイ。聖エルナ教会の修道女シスタたちは、エルナを憎んでいる。


 もし、彼女らに額の『逆印』がバレればどうなるか。それは、エルナにとって恐ろしい未来だ。


 アスクラピアを信仰する者にとって、『逆印』は明らかな背信の証だ。その場で叩き殺される可能性すらある。


 人間が強く求める『祈り』の声は、天使を酔わせる。個々の資質にも依るが、天使は強い『祈り』に逆らえない。暗夜は祈りに酔っていた。


 エミーリアが軽く脛を蹴飛ばして正気を確認したが、当の暗夜は鬱陶しそうにしただけだ。


「エミーリア。なんで、お前が居る。エルナまで……」


 エルナが見る限り、暗夜は危険な状態だった。この状態の使徒は『魔人』と何も変わらない。祈りの声に応じて、なんだってするだろう。


「酔い過ぎよ、あんた」


 エミーリアは酷く苛立っていた。

 初めての『召喚』は危険だ。この状態の使徒を正気付けるには、強い手段を取る必要がある。


「……」


 暗夜は、薄く嗤って神官服リアサの袖を捲った。

 両手が青白く輝く。

 ギュスターブとローランドを殺した『死神の手』だ。

 エミーリアが慌てて叫んだ。


「ちょ、あんたたち! なんとかしなさいよ!!」


 そこでルシールが立ち上がり、エルナの吐き掛けた唾液で汚れた暗夜の顔を手巾で拭った。


「……」


 暗夜は動かない。黒いベールで顔を隠した一人の修道女シスタ、ルシールに魅入られたように動かない。


「ありがとう、シスタ……?」


「ルシール。ルシール・フェアバンクスです」


 二、三の言葉を交わす間も、暗夜はルシールに視線を奪われている。

 エルナは困惑した。

 ルシールは妖精族の血を引いている。天使の召喚術式は、このルシールが施したものと見て間違いない。


「……見ないで……見ないで下さい……お願いします……」


「……」


 暗夜はルシールを見つめている。見るならゾイの方だと思ったが、そのゾイには目もくれず、ひたすらルシールだけを見つめている。


 そこでアンナが声を上げなかったなら、暗夜はいつまでもルシールを見つめていただろう。


「……聖エルナ……!」


 エルナにとって、この教会は聖域だ。そして、その教会の修道女シスタたちにだけは『逆印』を見られたくない。

 エミーリアが忌々しそうに言った。


「暗夜。あんた、自分のすべき事を覚えてる?」


「……邪魔だな、お前……」


「……これだから、『成り立て』は……」


 忌々しそうに言って、エミーリアは、エルナの額のバンダナを剥ぎ取って、その背中を突き飛ばした。


「あ……!」


 エルナは短く呻き、たたらを踏むようにして進み出て、転がるようにして床に膝を着く。額の『逆印』が露になり、慌てて隠そうとするがもう遅い。


 ――見られた。


 地獄の始まりだった。


◇◇


 暗夜の側を離れてはいけない。

 この世界で最も憎い存在が己の命を保証する事はエルナにとって屈辱だったが、娘たちに叩き殺されるより遥かにマシだ。


 暗夜は手を出すなと言ったが、その暗夜が居ない場所になれば話は変わる。エルナならそうする。『逆印』を刻まれた者には慈悲も慈愛も必要ない。直ちに打ち殺すべし。アスクラピアを信仰する者にとって、逆印を刻まれるという事はそういう事だ。

 暗夜は困惑しっぱなしだった。

 司祭の部屋に通された後は落ち着かず、あちこち歩き回り、深く考え込んでいるようだった。


 エルナには、その異変の理由がすぐ分かった。

 暗夜は跳べなくなったのだ。

 強い祈りで縛り付けられている。浅慮にも願いを聞き届けた事が原因だが、それだけじゃない。礼拝堂にある召喚陣を消さない内は帰れない。権能も制限される。

 暗夜はソファに腰掛け、頭を抱えている。


「……くそっ。何が起こっているんだ……」


 もうおしまいだ。


 エルナはヤケクソだった。娘たちに逆印を見られた。ゾイのあの冷たい視線を思い出すと、エルナは壁に頭を打ち付けて死にたくなる。


 全て、暗夜のせいだ。


 その暗夜は、困り果てたように言った。


「……なぁ、エルナ。すごい祈りだ。彼女らの思いは強い。俺は、ここから離れる事が出来ないよ。お前も、ここに居る間は、ずっとそうだったのか……?」


「え……?」


 その言葉に、エルナは強いショックを受けた。


 エルナは、離れる事が出来ないほどの強い『祈り』は身に覚えがない。


 ――『聖エルナ』は、そんなに強く求められた事がない。


 暗夜は堪え切れなくなり、司祭の部屋を飛び出して行った。


「……」


 エルナは困惑した。

 娘たちの窮状は、生前の暗夜の仕打ちによるものだ。ルシールが治らぬ傷を受け老いたのも、聖務が行えなくなったのも、全て暗夜の仕打ちなのだ。


 エルナには、娘たちが全員おかしくなったようにしか思えない。


 飛び出した暗夜の後を追って、エルナもそろそろと礼拝堂に向かう。


 そして――


 かたん、ことん、と固い石ころが床を打つ音がエルナの耳を打つ。


 両開きの扉を僅かに空かして、エルナが見たものは……


 今はもう廃墟の趣を見せる黴臭い礼拝堂で、修道女たちを抱き寄せて涙を流す暗夜の姿だ。


「……すまない。本当にすまない。そんな事が……」


 正しかった事が、時間を経て正しいとは言えなくなる事がある。


 人間らしい過ちが、人間をよりいっそう美しくする。


 礼拝堂内部は身を切るような寒さである筈だが、散らばった泪石が発する熱気で周囲は暖かい。


 あんな嫌な男でも泣くのだ。

 娘たちも、一人残らず泣いている。死神の流す涙は甘く優しい猛毒だ。



『お前は何もしない! 偉そうにするだけで、私たちの為に涙一つ流す事すらしない!!』



 治らぬ傷を受け、すっかり老いたルシールの言葉がエルナの胸に突き刺さる。


「…………」


 言葉もなく。

 温もりから一人あぶれたエルナは、夥しい量の泪石が転がる礼拝堂から目を離せずに居た。


 ――あんたは、受け止める義務がある。


 エミーリアの言葉だ。


 やがて娘たちが泣き止んでも、暗夜は泣くのをやめない。礼拝堂のあちこちに泪石が転がっている。


 ふと気付けば、泣き止まない暗夜を娘たちが慰めているような有り様だ。


 常に慈悲深く情け深くあれ。その事だけが、他の一切と己とを区別する。


 娘たちが大事そうに泪石を拾い集める姿を見て、エルナは、ルシールとポリーが持ち直した訳を理解した。


 エルナは泣かない。涙の意味を知らないからだ。暗夜の行いは酷い欺瞞にしか見えない。


 ゾイが泪石を口に含んだ。

 暗夜にとってはどうでもいい代物だろうが、下界の者にとっては値段の付けられない代物だ。身体の傷を癒し、神力の上限を増す。


 エルナは、そっとその場から立ち去った。


 暗夜に全てを奪われたような気がしてならない。涙一つで許してしまう娘たちの事も歯痒く思った。

 同時にこうも思う。

 娘たちの困窮した姿を見ても、『聖エルナ』は泣かなかった。涙一つ流す事もせず、成り行きに任せて窮状を見送った。


 ――聖女失格。


 血の気の通わぬ天使は翼をもがれて地に堕ちる。


 逆印の咎は暗夜が下したものではない。涙の意味を理解しない冷酷な聖女エルナに母が下した明確な罰だった。


◇◇


 翌早朝。

 腫れぼったい目をした娘たちが粛々と朝食の準備を進める食堂で、妙に悄気た暗夜が祝福をして娘たちを慰めた。


「……昨夜は情けない所を見せてしまった。もう少し、しっかりしたいと思う……」


 祝福の銀の星が降り注ぎ、それだけで娘たちの雰囲気は一変して明るくなる。


 兄、白蛇がそうであるように、弟の暗夜にも妙な愛嬌がある。

 暗夜は真面目な男だ。

 時に口にする冗談は、本気かどうか分からない笑えないものが殆どだが、それが滑稽に見えておかしい時がある。

 暗夜は、いとも簡単に言った。


「……では、市井に繰り出して聖務を行う事にするか……」


 その光景を盗み見るエルナは、また馬鹿な事を、と内心で嘲笑うが、暗夜は本気で言っている。


「なに、心配するな。相手は人だ。話せば、きっと分かってくれる」


 この笑えない男が『話し合う』とは、いったいどんな冗談なのだ。本気なのが尚悪い。

 ルシールもそう思うのか、怪訝な表情で言った。


「……話す、のですか……?」


「そうだが……」


 エルナは強い目眩を感じた。

 生前、この男がどれだけの無茶をやらかしたか知らない娘たちではないだろう。


 前寺院を壊滅させ、帝国からパルマを切り取った。人工聖女エリシャの頭は吹き飛び、大司教コルネリウスは街角に首を晒す羽目になった。


 そんな事をやらかした恐ろしいヤツが真面目に『話し合う』とは本当に笑えない冗談だ。

 だが、娘たちは笑っている。

 助祭を勤めるルシールまでもが、皆と一緒になって肩を揺らして笑っている。

 暗夜は不思議そうに首を傾げた。


「何故、笑う。おかしな事を言ったか?」


 きっと、暗夜がやらかすだろう惨事を想像しておかしいのだろう。


 帝国の憲兵団が、簡単に聖務を許可するようならエルナも苦労しない。話は絶対に大神官『ディートハルト・ベッカー』に飛び火する。

 エルナは堪らず飛び出した。


「暗夜……お前は! お前は何を言っているのです! 帝国の大神官は、ディートハルト・ベッカーですよ!!」


 暗夜は、やはり不思議そうに首を傾げている。言った。


「それは面白い。一度くらい、会ってやってもいいと思っていた」


 いとも簡単に言ってのけた暗夜の様子に娘たちは大笑いして、エルナは卒倒しそうになった。


 この男は、やると言えば必ずやる。冗談では済まない。死人が出てもおかしくない。この男の『話し合い』はそういう話し合いだ。

 エルナは、かんかんに怒った。


「お前たちは、全員揃って馬鹿ですか!? そんな事をすれば大騒ぎになりますよ!!」


「なんで、そうなるんだ?」


 やはり暗夜は不思議そうに首を傾げ、娘たちはまたしても大笑いした。


 エルナは思った。


 付き合ってられるか!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 意外とエルナは自分の状態を把握できてたんね
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ