聖エルナ4
その日、暗夜の指示でエルナを含めた全員が集まる事になった。
先の戦いを経て、暗夜もエミーリアも、エルナを居ないものとして扱っている。それはエルナには耐え難い屈辱であり、恥辱でもあった。
◇◇
かつて――
三百年以上前の話になる。
エルナは、七歳にして魔王討滅の任を母より賜った。
途轍もない困難を伴う当為だが、大変な名誉であると思った。
奇妙な部屋にて跪くエルナを見て、偉大な母は眉間に険しい皺を寄せていた。
召喚された七歳の聖女エルナの姿に、アウグストもギュスターブもローランドも驚いていたのは、今でもはっきりと思い出せる。
アウグストは、額を押さえてこう言った。
「ああ、そうか……そういう事か……」
聖槍『運命』を授かったばかりの教会騎士、ギュスターブは眉間に深い皺を寄せて黙り込んだ。
剣聖ローランドは、遠い目で天を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「本来は、時至らずという事か……」
魔王討滅の旅は三年に亘って続いた。
アウグストは言った。
「僕は弱い勇者なんだ……」
軍神はアウグストに強い加護を与えなかった。本来は軍神から授けられる筈の聖剣すらも母が用意した物だ。
幼いエルナはこう答えた。
「弱ければ、強くなればいいのです」
「そうだね……」
エルナがもう少し鋭ければ、この魔王討滅の旅に参加しているギュスターブが元は教会騎士であり、聖槍『運命』ですら母が準備した事に疑念を抱いただろう。
ローランドもまたそうだ。『剣聖』のクラスは軍神の加護に属するクラスであるにも関わらず、聖剣を下賜される事はなく、母より『デュランダル』が与えられた。
「軍神は血を求む、か……」
幼いエルナには何も理解できなかった。既に二十代の若者であった三人の中に、一人七歳のエルナが居る事に違和感を持たなかった。そして、殆ど軍神の加護なく挑む魔王討滅の旅に苦悩する三人に気付かなかった。
数々の困難を乗り越え、多くの強敵を下し、やがて『氷の大深層』にて、魔王ディーテの討滅に至った。
アウグストは叩き上げの勇者だ。何度も命を落としかけ、激闘の果てに強くなった。
ギュスターブは聖槍『運命』の力を高める為、多くの悪魔を殺した。殺さざるを得なかった。その身に受けた呪いは二十を超えた。
その身を顧みず、戦い続けるアウグストとギュスターブの姿を厭うたローランドは、何度もこの旅の中断を提案した。
それでも、アウグストとギュスターブは戦う事をやめない。その勇敢な姿と献身に、ローランドは軍神に対する信仰を捨てた。
「我輩は戦いを好まないよ。流れる血は少ない方がいい……」
そして嘆いた。
「狡兎死して走狗煮らる……」
この時にはもう、ローランドは二人の行く末を案じていたが、幼いエルナには、ローランドの言葉の意味が分からなかった。
ただ……三人は優しかった。英雄と呼ぶに相応しい人格者たちだった。
魔王ディーテとの死闘で、エルナが失った寿命は実に七十年だ。それだけ強い術を行使して、母に代償を差し出した。
三人は、立つことすらままならなくなったエルナの姿に泣いた。
「おお、神よ……」
そのアウグストの言葉は、無情に代償を奪ったアスクラピアに向けられたのか、それとも無関心を突き通したアルフリードに向けられたのか。
その後、エルナは故郷のザールランドに帰り、残った寿命の殆どを眠って過ごし……やはり眠るようにして死んだ。
母はエルナの死を悼み、その身体ごとエルナを使徒として召し上げた。
新しい命を与え、天使として生き返らせた。そこには優しく微笑うアウグストが居り、続けてギュスターブとローランドの二人がやって来た。
幸せな『余生』だった。
それが、死神の手によって無残に奪われた。エルナにとっての全てだった。
◇◇
『死神』暗夜は、自ら手に掛けたにも関わらず、アウグストらの死を悼んでいるようだった。
「アウグストは偉大な勇者だった。万人に尽くし、万人の為に命を捧げたあの男は、使徒の中では枢機卿と呼ばれ、敬意を払われる存在だった」
ギュスターブとローランドを喰い殺した暗夜の蛇は恐ろしい力を持っている。更には二つの虚数空間……奇妙な部屋を管理している。
ここに留まる限り、暗夜を殺すのは難しい。たとえばだが、隙を突いて暗夜を殺したとしても、何処かに隠してある『偏在』が本体として覚醒するだけだ。
暗夜を殺すには『神官殺し』しかない。純鉄に秘められた錆び付かぬ軍神の魂が死神を殺す。
「……死神……暗夜……お前が死ねば良かったのに……!」
暗夜は、もうエルナを見ない。
アウグストの為だと言って、アウグストの好きだった曲を弾いた。
初めて聞く『パイプオルガン』の音色は、エルナをして慄えるものがあったが、弾いているのが暗夜だと思うと、それは忽ち雑音にしか聞こえなくなった。
「お前に、アウグストの何が分かるというのです」
その呪詛の言葉を吐き出すエルナの姿を、皆、憐れむように見る。
エルナは憎悪を知った。
「……暗夜、暗夜……呪われた男……人殺し……」
やがて、暗夜が曲を弾き終えると、辺りは恐ろしい程の静寂に包まれた。
暗夜は言った。
「部屋の『軸』を、『俺』に変更する。時は動き出す。その瞬間は、何が起こるか分からない。各自、備えろ」
『雨の部屋』は、過去に通じる呪われた世界だ。あそこでは『過去』に干渉できる。過去への干渉は、使徒をして大罪だ。母の逆鱗に触れる。だが、無限の可能性がある。悪用すればだが『運命』を変える事が可能だ。
暗夜はそれを放棄すると言う。
そこでエルナは一つの疑念を得る。
暗夜が、既に過去に干渉した可能性についてだ。
だとすると、暗夜の記憶は過去と現在との間で混濁する事になる。既に、過去に於いて、未来に多大な影響を与える行動をしている可能性がある。
「マリエール、お前は残って部屋を管理しろ」
暗夜は時間の『軸』を変更する事の危険に触れ、その際、予測される異変に備えた。
まず、己に何かあった場合の変化に備え、非常時の『管理者』を選択して強い権限を与える。
『門番』を設置して、『部屋』への侵攻に備えた。
エルナは強い目眩を覚えた。
これは『成り立て』の使徒が考える事ではない。
暗夜は、二つの部屋の管理者だ。これは二つの世界を見ているという解釈が出来る。一つの目で過去を見て、もう一つの目で現在を見ている。予測できる事は多い。
だとすると……
暗夜は過去に干渉した可能性がある。既に、過去に幾つかの爆弾を設置した可能性がある。それはある種の未来予測であり、決して踏み入ってはならない神の領域だ。
死神ならやる。
つまり、ここから先の暗夜の発言は、未来を見据えたものになる。
エルナは力こそ失ったが、使徒としての三百年という知識の蓄積や経験を失った訳ではない。
暗夜の口から、各員に指示が飛ぶ。
暗夜が過去に干渉した可能性を考えれば、今の暗夜の言葉を無視する事は命に関わる。素早くそこまで考えたエルナだったが……
死神の目は、もうエルナを見ない。
「え、あ……わ、私は……どうすれば……」
エルナは困惑した。
時間軸を変更した瞬間、絶対に何かが起こる。だが、暗夜は何も言わない。エルナを当てにしていない。つまり、エルナには何も変えられない。そんな大事が起こってしまう。
死神は、一つの目を閉じた。
これからは未来に向けて歩く。そこにエルナの居場所は存在しないと宣告されたも同然だ。
エルナは、こんなに嫌なヤツを知らない。
――勝手に生きて、勝手に死ね。
それが暗夜の思惑だ。
そして、エルナの想像した通り事件が起こる。時間軸を変更した瞬間、暗夜の足下に天使の召喚陣が出現した。
強い『祈り』に、使徒は逆らえない。その祈りが強ければ強いほど、魅力的に感じてしまう。それは『成り立て』に逆らえるものではない。
「……っ!」
エルナは、慌てて暗夜から離れようとした。
『雨の部屋』は不快だが、あの部屋に留まる限り、なんだかんだとフラニーたちが世話を焼いてくれる。
そんな事を考えるエルナの襟首を、エミーリアが捕まえた。
「な、何を……!」
「あんたも来なさい。あんたは、受け止める義務がある」
エルナが考えたような事は、エミーリアも考えた筈だ。
『最古の使徒』聖エミーリアが本気で怒るとき。全ては、母の鉄槌によって裁かれる。
――終わった。
不意に、暗夜と目が合った。
エルナは、暗夜の顔に唾を吐き掛けた。
下界に落とされる。行く先に希望などない。これから、逃れようのない災いが訪れる。
天使の召喚術式に巻き込まれ、エルナは跳んだ。