聖エルナ3
雨の部屋での最大の敵は湿気だ。
エルナの一日は、マットレスを壁に立て掛け、シーツや毛布を干す所から始まる。サボるとすぐにカビが生え、フラニーが発狂する。
一階に降り、狭い洗面所で顔を洗ったエルナが共用スペースに行くと、既にフラニーとジナは起きていて、アイヴィまでも居る。
三人組はテーブルを囲み、いつものように姦しく話し合う。話題はいつだってあの男……暗夜だ。
「ヨルさまは、いつもフラニーとジナに感謝してますよ。自らここに足を運ばない事を、二人に申し訳なく思ってます」
「え、そ、そうなのか?」
「そうです。フラニーとジナは、もう少しヨルさまに会いに来た方がいいと思います」
「あ、う、うん。でもよ……師匠は師匠で忙しいだろ? 色々と考えのあるお方だし……」
アイヴィは困ったように眉を下げる。
「ヨルさまは、フラニーを避ける理由はないと仰ってます。むしろ足繁く通う方がいいです」
「何か不足してる物はありませんか? 病気や怪我等してませんか? ヨルさまは、相当、気に掛けておられます」
「あ、ああ、分かった。そしたら、うん、行く。絶対行くし」
フラニーは、何故か顔を赤くして、そっぽを向いて頷いた。
頭の足りないジナは無口な為、口には出さないが、ご機嫌で尻尾を振っている。
エルナは、苛々して言った。
「まったく……お前たちは、暗夜暗夜暗夜。それしか話す事がないんですか?」
そのエルナの言葉が発端になり、ムセイオン三人組は一気に剣呑な雰囲気になった。
まず、アイヴィが言った。
「……私は主に仕えています。フラニーは、そのお弟子さんで、ジナは……ジナは…………」
エルナは、フフンと鼻で嘲笑った。
「ジナは、なんですか? はっきり言ってみなさい」
勢いよく突っ掛かったアイヴィだったが、ジナの立場に関しては言葉を濁した。
勿論、その機を逃すエルナじゃない。途端に調子付いた。
「あの邪悪なヤツのペットですよね。汚らわしい。いいですか? あの男はワルですよ。女と見れば見境ありません。お前たちの誰かが孕まされても、私は、これっぽちも驚きませんね」
喧嘩上等。エルナは、暗夜を貶める事で、三人を挑発したつもりだったが……
そこで、何故か空気が変わった。
フラニーとジナはお互いを見合わせ、アイヴィは険しい表情で黙り込む。
エルナは、益々調子に乗った。
「おや? 言葉もない。認めるんですね? 分かります分かります。あれには姦淫の前科がありますからね!」
暫くの沈黙を挟み、フラニーが三人を代表するように、しかし用心深く言った。
「前科って……?」
エルナは得意になって胸を張った。
「ええ、お前たちも知ってる女です。ゾイですよ。あれはゾイと姦淫の罪を犯しました。相手は修道女ですよ?」
「ゾイ!? あいつか……! クッソ! やべぇぞ、ジナ! 先を越された!」
「ゾイ?」
面識があったのは六年前の事だ。思い出せず、首を傾げるジナに、フラニーは頭を抱えて喚き散らした。
「バッカ! あのドワーフだよ! 師匠の回りをちょろちょろしてたチビが居ただろ? あいつだよ!」
エルナとしては、三人が暗夜に失望するかと思ったが、三人の反応は全く予想外のものだった。
「マジかよ……抜け目ねぇな……」
「むぅ……」
フラニーとジナは怒るでもなく、また失望するのでもなく、難しい表情で考え込む。一方で、アイヴィは澄ました表情で言った。
「そのゾイという方は知りませんが……よかった。ヨルさまにも、そういう欲求があるのですね」
三人三様の反応に、エルナは軽い目眩を覚えた。
「……怒らないんですか?」
その問いに、フラニーは怪訝な顔で言った。
「なんで、オレたちが怒るんだよ」
「なんでって……」
そこで、エルナは真剣に表情を引き締めた。
「お前たちの貞操観念には、大きな問題があります。暗夜は、あのエルフとも疚しい関係ですよ?」
「あぁ、マリ姐さんか。やっぱりか……」
納得したようなフラニーの反応に、エルナは仰天した。
「お、お前たち……暗夜を不潔だと思わないのですか……?」
フラニーは溜め息混じりに言った。
「んな事で怒るか。むしろ安心したよ」
全エルナが耳に手を当てて言った。
「はぁ? 大丈夫ですかぁ?」
「師匠は、人間やめちまったからな。男までやめちまってたら、どうしようかと思ってたとこだ」
「…………」
この三人はどうかしている。エルナは気が遠くなり、よたよたとソファに腰を下ろした。
「……それより、孕ませるって……師匠は使徒だろ? 出来んのか……?」
挑発したつもりだが、強かに逆撃を受けたエルナは気絶しそうだった。三人には、まともな貞操観念というものを時間を掛けて説明する必要がある。
人間の赤裸々な行いを、母は好まない。
エルナ自身もそうだ。生涯独身で通せ等とは言わないが、そういう事は慎ましくやるものだと固く信じている。特に使徒のそれは、人間のものとは違う。
エルナは長い溜め息を吐き、それから言った。
「……出来ますよ。その場合、子供は半天使になります。注意なさい……」
「半天使?」
「……ネピリムですよ。空から落ちた天使。生まれつき恐ろしい力を持っています……」
使徒にとって、半天使の存在は罪の証でもある。それ故、エルナは言及する事を避けた。恐ろしい罪であるからだ。
「へぇ……半天使か……」
フラニーは口元に不敵な笑みを浮かべ、ジナとアイヴィは、何を思ったのか納得して頷いた。
エルナはもう倒れそうだ。
だが説かねばならない道がある。
「……いいですか、お前たち。半天使の母には、大変な責任があります。ネピリムは良くも悪くも純心なのです。魔王にも英雄にもなり得る。しっかり善と悪の概念を教え、正しい道へ導かねばなりません。私には、お前たちがそんな責任を負えると思えません。子供は魔王か魔人のどちらかにしかならないでしょう。気を付けなさい。愚かなお前たちの誰かが、暗夜の子供を孕めば、世界は破滅の危機に晒されます。しかと気を付けなさい。世界に母の祝福があらんことを……」
最後に母への短い祈りを捧げ、エルナの説教は終わった。
フラニーが、にこやかに言った。
「よーし、殺す」
「え、何故?」
エルナは正しい道を説いたつもりだ。
だが……
その日、エルナは三人の手によって荒れ狂う夜の海に叩き込まれ、水練を強要された。
◇◇
「し、死ぬかと思ったのです……」
フラニーは、にこやかに、しかし残酷に笑った。
「死ねばよかったのにな!」
濡れ鼠になり、しこたま海水を飲まされたエルナは、鋭くフラニーを睨み付けた。
「冗談じゃありません。お前たちが、暗夜の毒牙に掛からないよう警告しただけじゃありませんか。正しい行いをした私が、なんで死ぬような目に遭わされなければならないんですか?」
「あっはっは、まだ分かってねえようだな」
フラニーの笑顔は引き攣っていた。真面目腐って言った。
「誰が誰を好きになるかなんて自由だろ。それはオレたちもそうだし、師匠についても同じ事が言えるよな」
「は? 暗夜が父親の義務を果たせると、本気で思っているのですか? フラニー、お前は病気です」
せせら笑うエルナに、フラニーは眉間に深い皺を寄せて言った。
「今、言ってんのは、そういう事じゃねえよ」
「じゃあ、お前は何の話をしているのです。物は、はっきりと言いなさい」
そこで、フラニーは『腕組み』の格好になった。
「節度を保ち、不自由を忍ばねば手に入らないものがある。愛ってのは徳続きの縁だ」
エルナは思い切り顔を顰めた。
「……ああ、お前は修道士でしたね。暗夜の言葉ですか?」
「そうだ」
はっきりと頷くこのフラニーが、物好きにも暗夜の弟子をやっていて、度々、有難がって説教を聞いている事はエルナも知っている。
エルナは鼻で嘲笑った。
「暗夜が、愛について説いた言葉を私にも信じろとでも? 笑わせないで下さいよ」
「同じ天使さまでも、考え方は違うんですね」
口を挟んだのはアイヴィだ。暗夜の居ない場で、アイヴィは本性を隠さない。
「聖エミーリアは、愛とは最も情熱的な感情だと仰いました。相手を知るほどに、より一層強くなるものだと。誰にも止める事は出来ないとも」
エルナは、呆れたように大きな溜め息を吐き出した。
「それは、聖エミーリアらしい言葉ですね。私が言っているのは、そういう事ではありません」
「分かってるよ、逆印。あんたは、ヨルさまを侮辱して貶めたいだけだろ。あんたは愛を知らない。知ろうともしない」
「……」
アイヴィの言葉に強い憤りを覚えつつも、エルナは反論しなかった。
エルナは『愛』という感情を知らない。知らないものを答える事は出来ない。
アイヴィは、嫌悪感たっぷりに言った。
「可哀想なやつ。三百年も生きて、そんな事も知らないのか」
エルナは、上目遣いに強くアイヴィを睨み付けた。
「子供が、偉そうに。私に意見するなんて百年早いですね」
「その子供でも、誰かを好きになる気持ちぐらい知ってる。誰でも、あんたと一緒にしないでくれ」
◇◇
誰も憎まず、誰も愛する事もしない。そんなやつは埋葬されるといい!
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇
エルナは、涙目になってアイヴィを睨み付けた。
知らない事を答える事は出来ない。
第三使徒『聖エルナ』の当為は、まだ始まったばかりだった。