表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスクラピアの子  作者: ピジョン
幕間 『聖エルナ』編
272/310

聖エルナ3

 雨の部屋での最大の敵は湿気だ。


 エルナの一日は、マットレスを壁に立て掛け、シーツや毛布を干す所から始まる。サボるとすぐにカビが生え、フラニーが発狂する。


 一階に降り、狭い洗面所で顔を洗ったエルナが共用スペースに行くと、既にフラニーとジナは起きていて、アイヴィまでも居る。


 三人組はテーブルを囲み、いつものように姦しく話し合う。話題はいつだってあの男……暗夜だ。


「ヨルさまは、いつもフラニーとジナに感謝してますよ。自らここに足を運ばない事を、二人に申し訳なく思ってます」


「え、そ、そうなのか?」


「そうです。フラニーとジナは、もう少しヨルさまに会いに来た方がいいと思います」


「あ、う、うん。でもよ……師匠は師匠で忙しいだろ? 色々と考えのあるお方だし……」


 アイヴィは困ったように眉を下げる。


「ヨルさまは、フラニーを避ける理由はないと仰ってます。むしろ足繁く通う方がいいです」


「何か不足してる物はありませんか? 病気や怪我等してませんか? ヨルさまは、相当、気に掛けておられます」


「あ、ああ、分かった。そしたら、うん、行く。絶対行くし」


 フラニーは、何故か顔を赤くして、そっぽを向いて頷いた。


 頭の足りないジナは無口な為、口には出さないが、ご機嫌で尻尾を振っている。


 エルナは、苛々して言った。


「まったく……お前たちは、暗夜暗夜暗夜。それしか話す事がないんですか?」


 そのエルナの言葉が発端になり、ムセイオン三人組は一気に剣呑な雰囲気になった。

 まず、アイヴィが言った。


「……私はマスターに仕えています。フラニーは、そのお弟子さんで、ジナは……ジナは…………」


 エルナは、フフンと鼻で嘲笑った。


「ジナは、なんですか? はっきり言ってみなさい」


 勢いよく突っ掛かったアイヴィだったが、ジナの立場に関しては言葉を濁した。

 勿論、その機を逃すエルナじゃない。途端に調子付いた。


「あの邪悪なヤツのペットですよね。汚らわしい。いいですか? あの男はワルですよ。女と見れば見境ありません。お前たちの誰かが孕まされても、私は、これっぽちも驚きませんね」


 喧嘩上等。エルナは、暗夜を貶める事で、三人を挑発したつもりだったが……

 そこで、何故か空気が変わった。

 フラニーとジナはお互いを見合わせ、アイヴィは険しい表情で黙り込む。

 エルナは、益々調子に乗った。


「おや? 言葉もない。認めるんですね? 分かります分かります。あれには姦淫の前科がありますからね!」


 暫くの沈黙を挟み、フラニーが三人を代表するように、しかし用心深く言った。


「前科って……?」


 エルナは得意になって胸を張った。


「ええ、お前たちも知ってる女です。ゾイですよ。あれはゾイと姦淫の罪を犯しました。相手は修道女シスタですよ?」


「ゾイ!? あいつか……! クッソ! やべぇぞ、ジナ! 先を越された!」


「ゾイ?」


 面識があったのは六年前の事だ。思い出せず、首を傾げるジナに、フラニーは頭を抱えて喚き散らした。


「バッカ! あのドワーフだよ! 師匠の回りをちょろちょろしてたチビが居ただろ? あいつだよ!」


 エルナとしては、三人が暗夜に失望するかと思ったが、三人の反応は全く予想外のものだった。


「マジかよ……抜け目ねぇな……」


「むぅ……」


 フラニーとジナは怒るでもなく、また失望するのでもなく、難しい表情で考え込む。一方で、アイヴィは澄ました表情で言った。


「そのゾイという方は知りませんが……よかった。ヨルさまにも、そういう欲求があるのですね」


 三人三様の反応に、エルナは軽い目眩を覚えた。


「……怒らないんですか?」


 その問いに、フラニーは怪訝な顔で言った。


「なんで、オレたちが怒るんだよ」


「なんでって……」


 そこで、エルナは真剣に表情を引き締めた。


「お前たちの貞操観念には、大きな問題があります。暗夜あれは、あのエルフともやましい関係ですよ?」


「あぁ、マリ姐さんか。やっぱりか……」


 納得したようなフラニーの反応に、エルナは仰天した。


「お、お前たち……暗夜を不潔だと思わないのですか……?」


 フラニーは溜め息混じりに言った。


「んな事で怒るか。むしろ安心したよ」


 全エルナが耳に手を当てて言った。


「はぁ? 大丈夫ですかぁ?」


「師匠は、人間やめちまったからな。男までやめちまってたら、どうしようかと思ってたとこだ」


「…………」


 この三人はどうかしている。エルナは気が遠くなり、よたよたとソファに腰を下ろした。


「……それより、孕ませるって……師匠は使徒だろ? 出来んのか……?」


 挑発したつもりだが、強かに逆撃を受けたエルナは気絶しそうだった。三人には、まともな貞操観念というものを時間を掛けて説明する必要がある。

 人間の赤裸々な行いを、アスクラピアは好まない。

 エルナ自身もそうだ。生涯独身で通せ等とは言わないが、そういう事は慎ましくやるものだと固く信じている。特に使徒のそれは、人間のものとは違う。

 エルナは長い溜め息を吐き、それから言った。


「……出来ますよ。その場合、子供は半天使になります。注意なさい……」


「半天使?」


「……ネピリムですよ。空から落ちた天使。生まれつき恐ろしい力を持っています……」


 使徒にとって、半天使ネピリムの存在は罪の証でもある。それ故、エルナは言及する事を避けた。恐ろしい罪であるからだ。


「へぇ……半天使ネピリムか……」


 フラニーは口元に不敵な笑みを浮かべ、ジナとアイヴィは、何を思ったのか納得して頷いた。

 エルナはもう倒れそうだ。

 だが説かねばならない道がある。


「……いいですか、お前たち。半天使ネピリムの母には、大変な責任があります。ネピリムは良くも悪くも純心なのです。魔王にも英雄にもなり得る。しっかり善と悪の概念を教え、正しい道へ導かねばなりません。私には、お前たちがそんな責任を負えると思えません。子供は魔王か魔人のどちらかにしかならないでしょう。気を付けなさい。愚かなお前たちの誰かが、暗夜の子供を孕めば、世界は破滅の危機に晒されます。しかと気を付けなさい。世界にアスクラピアの祝福があらんことを……」


 最後にアスクラピアへの短い祈りを捧げ、エルナの説教は終わった。

 フラニーが、にこやかに言った。


「よーし、殺す」


「え、何故?」


 エルナは正しい道を説いたつもりだ。

 だが……

 その日、エルナは三人の手によって荒れ狂う夜の海に叩き込まれ、水練を強要された。


◇◇


「し、死ぬかと思ったのです……」


 フラニーは、にこやかに、しかし残酷に笑った。


「死ねばよかったのにな!」


 濡れ鼠になり、しこたま海水を飲まされたエルナは、鋭くフラニーを睨み付けた。


「冗談じゃありません。お前たちが、暗夜の毒牙に掛からないよう警告しただけじゃありませんか。正しい行いをした私が、なんで死ぬような目に遭わされなければならないんですか?」


「あっはっは、まだ分かってねえようだな」


 フラニーの笑顔は引き攣っていた。真面目腐って言った。


「誰が誰を好きになるかなんて自由だろ。それはオレたちもそうだし、師匠についても同じ事が言えるよな」


「は? 暗夜あれが父親の義務を果たせると、本気で思っているのですか? フラニー、お前は病気です」


 せせら笑うエルナに、フラニーは眉間に深い皺を寄せて言った。


「今、言ってんのは、そういう事じゃねえよ」


「じゃあ、お前は何の話をしているのです。物は、はっきりと言いなさい」


 そこで、フラニーは『腕組み』の格好になった。


「節度を保ち、不自由を忍ばねば手に入らないものがある。愛ってのは徳続きの縁だ」


 エルナは思い切り顔を顰めた。


「……ああ、お前は修道士でしたね。暗夜の言葉ですか?」


「そうだ」


 はっきりと頷くこのフラニーが、物好きにも暗夜の弟子をやっていて、度々、有難がって説教を聞いている事はエルナも知っている。

 エルナは鼻で嘲笑った。


暗夜あれが、愛について説いた言葉を私にも信じろとでも? 笑わせないで下さいよ」


「同じ天使さまでも、考え方は違うんですね」


 口を挟んだのはアイヴィだ。暗夜の居ない場で、アイヴィは本性を隠さない。


「聖エミーリアは、愛とは最も情熱的な感情だと仰いました。相手を知るほどに、より一層強くなるものだと。誰にも止める事は出来ないとも」


 エルナは、呆れたように大きな溜め息を吐き出した。


「それは、聖エミーリアらしい言葉ですね。私が言っているのは、そういう事ではありません」


「分かってるよ、逆印。あんたは、ヨルさまを侮辱して貶めたいだけだろ。あんたは愛を知らない。知ろうともしない」


「……」


 アイヴィの言葉に強い憤りを覚えつつも、エルナは反論しなかった。


 エルナは『愛』という感情を知らない。知らないものを答える事は出来ない。


 アイヴィは、嫌悪感たっぷりに言った。


「可哀想なやつ。三百年も生きて、そんな事も知らないのか」


 エルナは、上目遣いに強くアイヴィを睨み付けた。


「子供が、偉そうに。私に意見するなんて百年早いですね」


「その子供でも、誰かを好きになる気持ちぐらい知ってる。誰でも、あんたと一緒にしないでくれ」


◇◇


 誰も憎まず、誰も愛する事もしない。そんなやつは埋葬されるといい!


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 エルナは、涙目になってアイヴィを睨み付けた。


 知らない事を答える事は出来ない。


 第三使徒『聖エルナ』の当為ソルレンは、まだ始まったばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 今回の母の言葉は結構感情的だったけど、いつもの母はそんなふうには見えない。むしろ暗夜が良いそうな言葉。 実は裏では感情的なのか、生前は感情的だったのか。 暗夜と母は似てるっぽいし、そう…
[一言] ゾイは兎も角、マリエール……?? 人間不信になりそう笑
[一言] エルナは一応聖女ちゃんとやった実績があるから一定以上の割合で正論が含まれてるのが厄介な所だよな でもアスクラピア的には愛を知らぬのは大幅な減点対象だったか アスクラピアの使徒としての完成は愛…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ