聖エルナ2
『雨の部屋』での生活は、エルナには少し以上に過酷なものがあった。
居住地である灯台は海に囲まれていて、毎日入浴しないと潮で身体がベタつくし、時に海が荒れるお陰で外に出る事すら難しい事がある。
ムセイオン出身のフラニーとジナは、鍛錬に余念がない。雨の中、走り込みや単純な筋トレは勿論、荒れた海に飛び込んで遠泳をする事もある。
「海水は、ベタつくからいけねえな……」
そうぼやくフラニーに、ジナは小さく頷いて見せた。
「でも、ムセイオンと比べれば天国」
「まあな。泳いでも火傷しねえし、海の魚とか初めて食ったし」
フラニーが言うには、ムセイオンでは満足に食事が提供される事はなかったらしい。
足りない分は自給自足が原則。
死の砂漠で砂虫や鉄蠍等の魔物を狩り、毒抜きして食べていたようだ。
「砂虫? 馬鹿ですね。あれはデカいミミズですよ。食べるものではありません」
「好きで食ってたんじゃねえよ」
だが、ムセイオンで生き残るにはそれしかない。自給自足できない者は死ぬ。
フラニーとジナは戦士として鈍らないよう、あえてこの『雨の部屋』に留まり、訓練を続けている。
灯台にある住居は四階建てになっていて、各人一つずつ部屋が割り当てられてある。二階はエルナ。三階はジナ。屋上に繫がる一番見晴らしのいい部屋はフラニーが使っている。
エルナは不服だった。
「一番上の部屋がいいです。フラニー、代わりなさい」
フラニーは、胡散臭そうにエルナを見つめて言った。
「やだね。っていうか、お前は何かしろよ」
「何か、とは? 物は、はっきりと言いなさい」
「……」
そこでフラニーは『腕組み』のポーズになり、呆れたように首を振った。
「お前は、オレたちみてえな戦士じゃねえ。だから、身体を鍛えろとかそんな事は言わねえよ。でも、他にもやれる事ってのは山ほどあるよな」
「やれる事?」
首を傾げたエルナに、フラニーは呆れたように大きな溜め息を引き出して見せた。
「……生きてる時の師匠は、いつも瞑想したり祈ったりしていたぜ。あと、最低限の運動も必要だって言って、オレたちの訓練に付き合う事もあった。まぁ……そっちは、散歩とかちょっとした筋トレ程度だったけどな……」
エルナは鼻で嘲笑った。
「あぁ、確かにそんな事をしてましたね。カッコ付ける事だけは上手いヤツです」
そこで、フラニーはエルナの細い首を掴んで持ち上げた。
「……テメェ、あんま師匠の事、ナメんなよ……?」
使徒としての力を失ったエルナには、フラニーの膂力は想像を超えたものだった。
「うぐっ……!」
エルナは、喋るどころか呼吸すらままならず、僅かに浮いた身体を捩ってもがき苦しむだけだ。
フラニーは、怒りに燃える目で苦しむエルナを睨み付けた。
「……瞑想してる時の師匠は、すげー神力だった。意識はどっか行っちまってて、オレの質問には何だって答えてくれた。聖女だか何だか知らねえけど、テメェには何の有難みも感じねぇな……」
それだけ言って、フラニーはエルナを投げ捨てた。
「……せめて、お前を助けたオレを後悔させないようにしろよ……」
フラニーにとって、師である暗夜を侮辱する言葉は逆鱗だった。
咳込みながら、エルナはこの無力に歯噛みした。本来の力があれば、あんなハイエナ種ごときに文句は言わせないものを、と考える。
暗夜の生前は知っている。
エルナは、いつだって見ていた。
暗夜は、何もない時は殆どの時間を祈りと瞑想に費した。だがそれは、エルナの知っているものとは違う。
エルナの思う『祈り』と『瞑想』とは無心で行うものだが、暗夜は常に考え、答えを模索していた。雑念しかなかった。
――何故。
思考の殆どが異世界言語で構築されている為、正確な所は分からないが、暗夜の瞑想には自問自答しかなかった。祈りは願うのではなく、決意を固める為の時間でしかない。原則的に、あの男は問題を自己解決する事しか考えてない。
第十七使徒、暗夜の一番強い個性は『孤高』だ。
あの男は誰にも期待していない。いずれ、フラニーもジナも失意の内に思い知る。
そう考える事で、エルナは内心で溜飲を下げた。
◇◇
アイヴィは毎日のように訪れ、フラニーらに食料や日用雑貨等の必要物資を提供した後は、当たり前のように鍛錬に参加する。
フラニーは、アイヴィを見るといつも困ったように眉を下げた。
「……なぁ、アイヴィ。いつまで師匠を騙すつもりだ……?」
アイヴィは澄ました顔で言った。
「フラニー、人聞きの悪い事を言わないで下さい。私は主を騙してません」
基本的に、ムセイオン組の三人は仲がいい。フラニーは、アイヴィを心配しているようだった。
一階にある居住スペースは共用区で、そこには浴場もあるから、エルナは知っている。
間抜けな暗夜は気付いていないが、アイヴィは『女』だ。
ムセイオンで鍛えられた獣人は『超能力』を使う。アイヴィが最も得意な超能力は『擬態』だ。それで性別を誤魔化している。
フラニーは溜め息を吐き出した。
「オレは知らねえぜ。ちゃんと言ったからな」
所々、跳ねた短い癖っ毛に釣り上がった瞳。アイヴィの容貌は典型的な猫人だ。
「……もう、擬態は解いてます。主を失望させる事はないと思いますが……」
猫人は痩せぎすな体型の者が多い。アイヴィも多分に漏れず、起伏に乏しい体型だ。未だ十二歳という事もあり、暗夜が気付く様子はないらしい。
ジナは難しい顔で顎を擦った。
「にぶちん」
その言葉に、フラニーは腹を抱えて笑った。だが、その一瞬後には表情を引き締めた。
「んで、最近の師匠はどんな感じだ? まだ悩んでんのか?」
「ええ、まあ……繊細な方です。決して言葉にはされませんが、非常に心を痛めておられます……」
「そうか……オレたちには、何も言ってくれねえからな……もっと精進しねえと……」
一階の共用スペースで寛ぐ時、三人の話題の殆どが暗夜の事だ。
「……ずっと書斎に籠もってます……」
「そりゃ、重症だな。シュナイダーは?」
そこで、アイヴィは顔を顰めた。
「あのクソ野郎ですか? 相変わらず主にベッタリです。マリエールさんも辟易してますよ」
「う〜ん……マリ姐さんもなぁ……」
エルフは、竜人と狼人に次ぐ貴少種でプライドが高い。猫人を除く獣人種とは相性が良くない。フラニーは難しい表情で考え込む様子だった。
エルナは不思議でたまらない。
「その……あの男の、何処がそんなにいいんですか……?」
一瞬、エルナを見て不快そうに眉間を寄せたアイヴィが答えた。
「天使さまにお仕えしています。こんなに光栄な事はありません」
「天使? あれは死神ですよ。騙されて――」
エルナは、最後まで言う事ができなかった。アイヴィが即座に反応し、エルナの口元を鷲掴みにしたからだ。
「逆印は黙ってろ。なんなんだ、あんたは。そもそも、誰の許しがあってここに居られると思ってるんだ?」
アイヴィは、恐ろしく低い声で言った。
「……いいか、主……ヨルさまは優しい方だ。あんたは、ヨルさまの慈悲で生きて居られるんだ。それを忘れるな……!」
猫人は痩せていて美形の者が多い。姿勢も良く、立振舞も優雅に見える為、貴種には受けがいいが、性格は陰険で陰湿な者が多い。
アイヴィも多分に漏れずそうだ。
暗夜の前では、狂暴な側面は尾首にも出さない。
「おいおい……やめとけやめとけ……師匠が聞いたらびっくりするぞ……」
「フラニー。もう少し、このインチキ聖女を厳しく躾けた方がいいのでは?」
ムセイオン組の三人は、おっかない。腹が立てば、真っ先に手が出る。だが……
「インチキ聖女……?」
多少の暴力に怖気付くようなエルナじゃない。
「うおーっ!」
暴力には暴力だ。
エルナは勇ましく雄叫びを上げ、アイヴィに突進した。
エルナは理解していないが……
ムセイオンの三人組にとって、エルナのこの気の強さは好ましいものがある。
喧嘩しながらも、四人はそれなりに仲良くやっていた。